青銅器の祀りから巨大墳墓の祭礼へ
出雲では、大量の青銅器が荒神谷や賀茂板倉に丁寧に埋蔵されたのと相前後して、大和などの他の地方では銅鐸や銅剣が祭礼に使われ続けたのに対し、いち早く次の時代の宗教儀礼が始まっている。後の古墳時代には関東にまで広がることになる、王・有力者の墓が宗教的・政治的な中心となる文化と、その祭祀の場としての巨大墳墓の建造だ。
出雲では1世紀頃から、四隅突出型墳丘墓と呼ばれる、四角形の角の部分が外側に向けてびょーんと伸びた形の大きな墓が作られた。頂上は平坦に整備され、そこで王位の継承などの宗教儀式が行われたと考えられる。
この巨大化した墳墓形式が出雲にとどまらず山陽地方の山間部や北陸にまで広まった一方で、出雲の四隅突出型墳丘墓の副葬品の土器には、出雲を中心とする山陰地方だけでなく、吉備つまり現在の岡山県、丹越つまり京都府北部・福井・石川・富山辺りの様式のものが含まれている。
墓の形式の分布と、副葬品の土器の双方から、出雲の勢力圏が見えて来る。
しかももっとも巨大で代表的な四隅突出型墳丘墓である出雲市の西谷3号墓からは、さらに驚くべき副葬品が出土している。色ガラスの装飾品で、成分の分析からそのガラスの原産地が、濃厚な青が美しい勾玉は中国大陸、下の写真の管玉の首飾りのガラスはローマ帝国領内と判ったのだ。
また朝鮮半島で産出する珍しい石を同じような細い管状に加工した管玉の首飾りも展示されている。
考えて見たら当たり前のことだが、目からウロコではある。日本列島で太平洋側に大きな貿易港が集中したのは、近現代に限った話でしかない。古代に東アジア国際社会に向かって開かれていたのはむしろ、朝鮮半島に近い日本海側に決まっているではないか。それに日本海の海運網は江戸時代まで発展し続け、「裏日本」などと言うステレオタイプは幕末の開港以降にしか当てはまらないのだ。
古代の日本は日本海側から中国大陸で発展していた先端文明を貪欲に吸収し、またそうした珍しく美しい海外からの渡来の品々が、統治権力者の政治的・宗教的な権威を高めてもいたのだろう。
巨大墳墓と海外からの渡来品が政治的・宗教的な権威と結びついた古代の統治権力のあり方は、やがて中国大陸の統一帝国の王朝に直接に使者を送り、国としての国際的な承認を得ることへと進んでいく。いわゆる「朝貢」「冊封」外交だ。ちなみに現代ではしばしば誤解されがちだが、これは別に属国や植民地状態のことではない。前近代において東アジアの国際秩序の中心には中国の帝国があり、そこに使者を送ることは正式国交を結んで国際社会の正式な一員となる、と言うような意味だ。
中国側の正史に残るもっとも古い記録のひとつが、三国時代の正史『三国志』の『魏書』に書かれている「邪馬台国」だ。
この「邪馬台国」の使者が派遣されたのが魏の年号で景初3年、西暦239年のことで、皇帝の曹叡(ちなみに「三国志演義」のヒーロー曹操の息子)が返礼に銅鏡100枚を与えたと書かれているが、その年号の銘がある三角縁神獣鏡が出雲の神原神社古墳で発掘されていて、これも展示されている。
同じ年号の銘がある画文帯神獣鏡が河内の和泉黄金塚古墳(大阪府和泉市)でも見つかっているのも含めて、どちらもこの記録にある100枚の銅鏡の一枚と考えてもいいのだろう。だとすれば『魏書』(その「東夷伝」のうち「倭人」に関する記述が、昔の教科書でいう「魏志倭人伝」)で「卑弥呼」と記されている倭の女王は、この大量の中国製の鏡の一枚一枚を自らに臣従した各地のクニグニの王にそれぞれ与えることで、自らの統治の権威づけとしたのではないか?
『魏書』の記録は地理的な記述が明らかに不正確で、そのせいで「邪馬台国」が九州にあった説、大和にあった説などの論争もあるが、当時の日本列島にはその言葉を表記する文字がなかったことを考えると、「邪馬臺」「卑弥呼」は使者が話した音に漢字を当てた表記で、「ヤマト」つまり「大和」、「ヒミコ」は「ミコ(巫女、神子、女性司祭)」ないし「ヒメミコ(女性の祭祀王)」を指すと考えるのが、素人目には自然に思える。筆者の世代の学校教育では「邪馬台国」は弥生時代と教わっていたが(だから「ヤマタイ」が「ヤマト」ではないかと言うシンプルな連想もなかなか働かなかった)、この展覧会の年表では古墳時代の最初期となっている。今回の展示品に見られるような発掘の成果からすれば理に叶っているし、そもそも「弥生時代」から「古墳時代」への移り変わりを断絶のように捉えてしまいがちだったことも、誤った先入観だと気づかされる。
だいたい価値観や世界観、古代でいえばイコール宗教観や信仰体系は歳月をかけて、先の世代から何かを引き継ぎつつ、徐々に変わっていくもので、そこには当然ながら連続性があったはずだ。
とはいえ考古学的に、つまり現に見つかっているモノとして、はっきりと時代の変化と分かる違いもある。出雲で景初3年銘の鏡が出土した神原神社古墳は30m弱の方墳だが、河内で見つかった和泉黄金塚古墳は全長94mの大きな前方後円墳だ。出雲系の四隅突出墳丘墓に代わって広まり、やがて関東地方でも造られることになる形式の巨大墳墓、大和の王権のシンボルとみなされる。
その前方後円墳と同時に広まったと見られるのが、三角縁神獣鏡だ。
元々は中国からの渡来品で、日本で作られたものも含めて神獣の文様は元来は中国で信仰対象や魔除け、縁起担ぎとして発達したものが、日本列島でも特別な霊力があるものとして有り難がられることになったのだろう。そしてもちろん、それ以上に、金属面をピカピカに磨き上げて世界を映し、そこを見る者自身を映し出す「鏡」そのものの神秘性は言うまでもない。だがここで不思議なのは、黒塚古墳から出土した33枚の三角縁神獣鏡は、鏡面が中心に向けて盛り上がっている凸面鏡、中央を拡大しながら周囲も映し込む、変わった鏡なのだ。しかも平らな鏡面よりも研磨加工は難しく、手間がかかるはずなのにわざわざ、である。
ちなみに博物館での展示などで見られたり写真で紹介される、凝った装飾のある面は鏡の裏側。もちろん「鏡」なのだから本来の機能は我々があまり目にしない、磨き上げられた鏡面が表になる。黒塚古墳ではこの鏡面を棺に向けて、石室の壁に沿って整然と並べられていた。
『魏書』の記録では「卑弥呼」という女性の王の下にまとまる前に、「倭国大乱」の状態があったとある。もしかして、これが出雲から大和への権力中枢の移行(ないし王朝交代)、つまり「国譲り」のことなのだろうか?
出雲系の四隅突出型墳丘墓から大和系の前方後円墳へ、墳墓の形が明確に異なる一方で、共通点もある。
今日見られる古墳や墳丘墓は小山のように見え、うっそうとした樹木に覆われているが、建造時には草木一本もなく大きさを揃えた石(葺石)で覆われていた。今日では天皇陵に指定された古墳は立ち入りが厳禁されて外から拝む形になっているが、頂上部分は四隅突出型墳丘墓と同様に平坦に整地されていて、儀式の場所になったと考えられる。前方後円墳の形の成立とその理由、なぜ上空から見ないと分からないような、複雑かつ均整の取れた形に古代の王権がこだわって、どのような技術でその理想の形を精確に実現したのかはミステリーだが、基本的には後方の円形の部分に主な被葬者が葬られ(=祀られ)、前方部はその埋葬場所を礼拝するスペースだったのだろう。
一方で前方後円墳が西日本を席巻する古墳時代前期にも、出雲では先述の景初3年銘の鏡が見つかった神原神社古墳のような四角形の方墳が建造されているのは、四隅突出型墳丘墓の「伝統」が残ったものなのだろうか?