出雲大社はなぜこんなに「スゴい」のか?
それにしても、今日の感覚では本州の中心から離れてみえて、俗に「裏日本」と言う失礼な言い方さえある日本海側の出雲が、なぜここまで強力なプレゼンスを全国的に持っているのか? その理由はまず、建国神話に遡る。
「古事記」「日本書紀」にまとめられた日本国家の成立を巡る物語のもっとも謎めいた部分が、「国譲り」の神話だ。日本列島はもともと出雲の大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)が治める中津国(ナカツクニ、豊葦原中国、豊葦原千五百秋瑞穂国とも書く)で、慈悲深く賢明なオオクニヌシの下に善政が敷かれていたが、「天」からやって来た別の系統の神々の子孫(大和の朝廷を形成することになる「天孫」「皇孫」)の要求を受け入れ、その国を「譲り渡した」と言うのだ。
「日本書紀」によれば、「天」からやって来た天孫・皇孫が、現実世界の政治(まつりごと)の「顕」は今後は自分たちがやるので、オオクニヌシの出雲はこれからは「幽」つまりカミガミ・霊魂の世界を司るよう提案した、と言う。天孫側が敬意を表して巨大な神社を建てることも約束したので、オオクニヌシがこれを受け入れたと、平和裏の権力移譲のように書かれているのだが、これに8年先行して編纂された「古事記」では、武力で脅した侵略を示唆する暴力的な記述も見られる。
「古事記」と「日本書紀」という二つの、ほぼ同じ日本の建国神話を扱った歴史書がなぜあるのか、それもたった8年の間隔を経て編纂され、なぜいろいろ異なった部分があるのか? 諸説はあるが、よく分かってはいない。いずれにせよ正式の歴史は後発の「日本書紀」で、朝廷が過去を参照して何かを決めたりする時に用いられたのも「日本書紀」だ。一方で神社の社伝はむしろ「古事記」に依拠している場合が多い。例えば先述の諏訪大社の由来がそうで、天孫側の武甕槌命(タケミカヅチ・鹿島神宮のカミで、奈良の春日大社の第一神)の両腕が氷の刃に変化してオオクニヌシの息子ケンミナカタの両腕を切り落とし、命からがら逃走した建御名方を諏訪湖にまで追い詰めて殺そうとする、という武力侵略を思わせるエピソードは、「古事記」にのみ記述がある。
だが公式歴史書はあくまで「日本書紀」、その記述によれば大和側のいわばバーター提案だったオオクニヌシに敬意を表する巨大な神社が、今日の出雲大社(正式な読みは一般に通用している「タイシャ」ではなく「オオヤシロ」)に当たる。言い換えれば、大和の朝廷は出雲大社を保護し立派な建物を維持する義務を、その後ずっと自らに課して来たことになる。
その出雲大社では、2000年に修理修復に伴う発掘調査が行われ、現在の本殿の手前で三本の杉の巨木を束ねた巨大な柱のいちばん下の部分が二組出土した。今回の展覧会の最初の目玉展示で、会場に入るなりその大きさにまず圧倒される。
年代測定で鎌倉時代の建て直し時のものと判明しており、この時の大事業は京都の朝廷に報告もされ、本殿の平面図を含む詳細な記録(これも展示されている)も残る。それによれば高さは16丈(約48m、17階建てのビルに相当)、本殿に至る巨大な階段(引橋)は長さが1町(約109m)あった。発掘された柱は、ほぼその記述にも一致する。
出雲にはかくも巨大な建造物が古代からそびえ立ち、「日本書紀」に記された約束が、永い歳月を超えて確かに守り続けられていたことになる。
日本古代史最大のミステリー、「国譲り」の神話とは?
「古事記」「日本書紀」の成立は8世紀初頭で、大和の統一王権が成立したと推論される時代から3〜400年ほど後になる。元になった話は恐らく、何世代にも渡って口承で伝えられて来たのだろう。イザナギ・イザナミの国造りや黄泉がえり神話、天照大神(アマテラスオオミカミ)の「天の岩戸」神話、天界を追放されて出雲にやって来たスサノオが大蛇ヤマタノオロチを退治する話などは純粋に「神話」、ないし自然現象の擬人化と考えてよさそうだが(「天の岩戸」は日蝕の擬人化だろうし、八つの頭を持つ大蛇は多くの支流を持つ大河の氾濫の象徴表現かも知れない)、この「国譲り」はかなり性質が違う。
なんらかの現実の政治的な出来事があって、その記憶が口頭で伝承され続けた来た結果としてこうした記述があると考えないと、「国を譲った」という、つまりは平和併合にせよ侵略・征服にせよ王朝交代を意味することが、なにもないところから創作されたとは、かなり考えにくい。
とは言え内容からすればまったくの事実無根の「神話」とも思えない一方で、何百年もの口伝を経てしまえば相当に内容は変わっていておかしくない。
しかも「日本書紀」が律令制国家の成立期、つまり古代日本が「文明国」として国際社会の一員になろうとしていた時代に、当時「天皇」を名乗り始めたばかりの天武・持統の朝廷の国策として成立しているからには、天孫・皇孫の流れを組む大和の王朝の正統性を主張する政治的な意図も、その記述にもちろん影響しているだろう。
だがだからこそ逆に、ますます不思議なのである。だったら日本列島が最初から天孫が統治する国だったと書いた方が政権の正統性に説得力が出たはずだし、あるいは出雲を暴虐で野蛮と断じ、それを大和が征伐した、というような話にするのが政治的には普通だろう。ところが実際の記述ではオオクニヌシが、例えば「因幡の白兎」の神話もあるように、慈悲深く思いやりのある賢明な君主として描写されているのだ。しかも「日本書紀」はともかく、先行して書かれた「古事記」では武力・暴力で脅した侵略のようにも読めてしまうのも、これではかえって王権の正当性に疑問が生じかねない。
そんなことがわざわざ書かれているのは、「国譲り」に当たる事実が確かに過去にあって、出雲の存在の重要性が人々の記憶に残り続けていたからではないか、とでも考えなければつじつまが合わない。逆に言えばなんの実態もない作り話であれば、いかに正史に書かれていることであっても出雲の神話が信じられ続け、巨大な社の維持や再建に巨費が投じられ続けるようなことになっただろうか?
出雲の「幽」と大和の「顕」、双方が揃って成立する古代の「まつりごと(政治)」
「古事記」「日本書紀」の後の時代、特に近代以降における解釈の問題もある。明治政府がこうした神話の部分を天皇中心の国家観の根拠として用いたため、どうしても天皇家の祖先である「天孫」の系譜と皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)を中心とする読解が近現代では主流になって来たが、実際のテクストそのものは、「国譲り」が典型だが、必ずしもそういう一方的で単純化された記述になっているわけではない。
だいたいアマテラスが鎮座するとされる伊勢神宮への信仰が盛んになったのは比較的新しく、近世・江戸時代にむしろ庶民信仰として広まったもので、政治との直接的な結びつきが強まったのは明治以降だ。伊勢を頂点とする現代の神社の序列も明治政府が定めたもので、過去の伝統とはあまり関係がない。その伊勢は今では「伝統あるパワースポット」として人気の一方で、一部には極端な政治的意味づけを付与する勢力もある(というかリベラル系野党の立憲民主党でも、初詣に伊勢神宮に出かけている)が、天皇が参拝することさえ近現代の新しい慣習で、「日本書紀」成立時の天皇・持統帝が参拝した後には、明治天皇の行幸までどの天皇も(退位後の上皇も含め)伊勢に行っていない。
近現代のいわば「大和中心史観」の中で、本来なら鎮護国家の「幽」を担っていたはずの出雲系のカミガミが(日本のそこら中で今でも祀られ信仰されているのに)重視されて来たとはおよそ言いにくい。例えば先述の神田明神も「江戸総鎮守」がいつのまにか「だいこくさま」と「えびすさま」の商売の神様になっている。ちなみに「だいこく」と呼ぶこと自体は平安時代以降の本地垂迹説で「大国主」が名前の音読みで「ダイコク」となることもあって、仏教の大黒天と同一視・その本来の姿として信仰されるようになったからだ。スクナヒコナが民間信仰の夷(えびす・恵比須)神と同一視されたのは「七福神」つながりだろうか? なお大黒天自体が元はインドの破壊神・武神(シヴァ神の変化神)だったのが、日本では中世以降、豊穣の神、そして商売繁盛の神へと変化している。
明治から戦前の教育では、オオクニヌシは「因幡の白兎」に基づく唱歌「だいこくさま」のようにやさしく慈悲深い人柄として道徳教育でお手本とされてはいたが、歴史教育などでは「国譲り」自体が無視されがちだ。近代天皇制国家の正当化にはかなり厄介な話だし、そもそも近代的な合理主義ではよく意味が分からない。さらに島根県となった出雲が首都となった東京からずいぶん離れていて、近代日本が太平洋側を「表」とみなす(東京とその外港である横浜がいわば表玄関になり、横須賀には海軍の中枢が置かれた)ようになり、日本海側が「裏日本」と言われるような地理的な認識が広まったことも、そこには関係しているのかも知れない。
だが巨大社殿の実在が発掘で明らかになったことも含めて、この展覧会で展示される華麗な宝物類などを見ても、朝廷をはじめとして過去の日本の政治権力がより大きな権力・財力を捧げて来たのはむしろ出雲大社ではないか、とすら思えて来る。さすがに地理的に遠いので天皇自身の行幸はなかったようだが。
出雲大社の建造物を見ても、これは伊勢が20年に一回建て替えられる(式年遷宮)せいもあるのだろうが、鎌倉時代のような巨大神殿はさすがに再建できなかったものの、本殿は国宝で江戸時代・延享元年(1744年)の豪壮な建築で、その前の本殿は寛文7年(1667年)に、どちらも徳川幕府が建造したものだ。しかも寛文の造営は、豊臣秀頼が寄進した慶長期の本殿をわざわざ取り壊して、建て替えているのだ。
この一事だけを見ても、出雲大社が日本の権力中枢にとって重要な神社だったことが伺える。