「三種の神器」のひとつ「勾玉」と、「玉造り」の出雲の神秘
新沢千塚126号墳の貴重な副葬品は、海外渡来のものだけではない。大量の玉も見つかっているが、朝鮮半島や中国で作られたと見られる玉の一方で、硬玉の勾玉は日本の、新潟県糸魚川市だけで産出する貴重な石だという。
出雲地方でも珍しい石を利用した勾玉が作られ、大和にも流通していたことが古墳の副葬品などから分かっている。玉はもちろんまず、豪華な装飾品として権威の象徴になったものだろうが、「日本書紀」の神武天皇の即位について書かれている、天皇の位の継承を示す「三種の神器」のひとつが勾玉であることなど、信仰上の、霊的な意味もあったのだろう。
大和式の墳墓である前方後円墳の時代には、前方後方墳つまり埋葬施設がある後円部が円でなく四角いものもあったが、古墳時代中期の5世紀頃には造られなくなっている。
だが前方後円墳が広まる古墳時代初期に大型の方墳も多く造られていた出雲では、他の地域で見られなくなった5世紀後半から6世紀の前方後方墳も多いそうだ。なるほど確かに、出雲は統一王朝として大きな権力を持った大和の朝廷にとって、特別な地方だったようだ。
藤ノ木古墳古墳のような後期6世紀の大和の古墳では、副葬品がどんどん豪華になるのと並行して、100mを超えるような巨大な前方後円墳の時代は終わり、埋葬施設も竪穴式つまり墳丘の上に掘り下げた穴に棺を埋葬する形から、横穴式つまり大きな石組みで入り口の参道がある石室を作ってその上から土を盛った小型の、十数mや20〜30mの墳墓に変わる。礼拝の儀礼も墳丘上ではなく、参道の入り口で行われたのかも知れない。
権威の見せ方が変わって来た、その背景にある政治的な価値観や信仰の体型に変化が生じたのだろうか?
藤ノ木古墳クラスの豪華さは別格にしても、それに通ずるような金銀をふんだんに使った豪華な副葬品は出雲の古墳でも見つかっていて、今回の展覧会でも息を呑む。
こうした金銀の使用などには大和の古墳との共通性も見られるが、他の地域では廃れた前方後方墳だったり、石室の構造などに違いがあり、特に後期の古墳になるほどほど出雲の地域性・独自性が顕著だという。
「出雲が最も異彩を放っていたのは古墳時代後期のことで、その葬制は他地域からみると異様にみえていたのではないだろうか」(松本岩雄・島根県立八雲立つ風土記の丘所長、「考古資料から読み解く古代の出雲」、本展図録 P40)とまで言われる、その出雲の特殊性が、そんな過去の記憶が消えていたであろう後々の時代にも漠然とした認識だけは維持され続け、そのことが出雲大社が朝廷や武家の棟梁たちにとって特別な地位を保ち続けた歴史の起源にあるのだろうか?
あるいは美しい宝飾品である以上に宗教的な意味を持つ玉の産地になったことも、出雲が特別な、霊的な場所と認識され続けた背景になったのだろうか?