巨大化する前方後円墳、量がどんどん増えて行く副葬品
大和の前方後円墳では、出雲系の巨大墳墓にすでに見られた特徴が、より極端化しているところがあるとも、この展覧会の流れの中で気づかされる。墳墓がどんどん大きくなるのと並行して副葬品の量もどんどん増加しているのだ。
大和の古墳で墳丘に結界を作るように並べられた埴輪も、膨大な量が作られるようになったと同時に、巨大化もしていた。
やがて前方後円墳が関東平野にまで分布するようになり、近畿では極端に大きくなるのは、恐らく大和の王権の強化を示しているはずだ。そうして造られたのが、昨年世界遺産登録された大阪・堺市の百舌鳥古墳群と曳野市・藤井寺市の古市古墳群の大仙古墳(伝・仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(伝・応神天皇陵)のような、4〜500m級の超巨大墳墓だ。
天皇陵に指定されている巨大古墳は考古学の発掘調査が許可されないため、古墳時代の葬送と信仰、そして政治(まつりごと)の文化文明についてはまだまだ分からないことだらけだ。あれだけ超巨大墳墓を作れる権力・財力となると、副葬品にしてもその大きさも分量も、どれだけのことになっているのか、想像は膨らむ。
大仙陵古墳は「仁徳天皇陵」としての世界遺産登録の前に外周部、堀の外側のごく一部とはいえ発掘調査が行われ、表面を覆っていた葺石が離れた地方から運ばれたものだったことなどが分かっている。誉田御廟山古墳では隣接する誉田神社の祭礼で特例で古墳の敷地内に入っているのと、平成の時代には限定的ながらこの古墳も含めいつくかの天皇陵で研究者の立ち入り調査が許可されたことはある。
また大仙陵古墳では、天皇家の政治的な絶対神格化がまだそこまで進んでいなかった明治6年に、前方部の発掘調査が行われていた。巨大な石棺や副葬品についての記録は残っているものの、発掘された現物はあるいは埋め戻されたのかも知れないが、行方不明だ。その一部と言われるものがなぜかアメリカのボストン美術館にある。この発掘は前方部で、つまり主たる被葬者ではなく、この超巨大古墳には最低でも2人、3人以上が埋葬されていると推測する研究もある。
発掘や立ち入りが出来なくとも現代ではドローンやヘリコプターを使ったレーザー3D測量や、微細な宇宙線を検知することで古墳内の空洞を調べるミューロン・ジオグラフィ(すでにエジプトのピラミッドの調査でも使われている)のような最先端技術もあり、今後さらに分かって来ることも多いだろうが、やはり本格的な発掘調査が待たれることは言うまでもない。
副葬品の量だけでなく質の高さも、鍵になるのは「舶来品」
出雲の巨大墳墓・四隅突出型墳丘墓の玉のガラスが中国原産やさらに西のローマ帝国領原産だったり、朝鮮半島の珍しい石の管玉があったりしたことにも驚かされたが、古墳時代初期の前方後円墳の銅鏡の多くが中国製だったりすることからも、古代の日本がすでに海を越えて大陸と活発に交易していたことと、海外との交流が政治的・宗教的な権威の裏付けに果たしていた役割が見えて来るのも、この展覧会を貫く大きなテーマだ。
この文脈に置かれると、古墳時代後期の代表的な遺物として有名な、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の出土品が展示されているのも、金メッキをふんだんに使った鞍の絢爛豪華さだけでなく、精緻なデザインの構成要素が亀甲文に龍や鳳凰などの中国由来の吉祥で、さらには古代エジプトに起源があると言われるパルメット文まで使われていることに目が行く。
しかも亀甲文といえばそういえば、出雲大社の神紋が亀甲に剣花菱など、亀甲に漢字の「有」など、この大和の豪華な副葬品の鞍の基本デザインになっているのと同じだ。ちなみにこの鞍、豪華のは金の使い方だけでなく、後輪(上の写真奥)の取手の両端の装飾は色ガラスだ。
だが藤ノ木古墳のきらびやかな金の副葬品ならまだ以前から有名だし、権力者の墓(一説には欽明天皇の子で聖徳太子の伯父、つまり大王家の王子)なのだから豪華なのもうなずけるが、この展覧会でより驚かされるのは奈良県橿原市の新沢千塚126号墳(5世紀後半)の出土品だ。
朝鮮半島製と推測される金の耳飾りや指輪、中国東北部の墓の出土品とよく似ていて日本には他に例がない正方形の金の飾り板、さらにはササン朝ペルシャ製らしきガラス碗が見つかっているのだ。
ペルシャ製のガラス碗といえば、この300年ほど後の8世紀奈良時代の、正倉院宝物の「白瑠璃碗」も思い出される。この古墳からはガラス碗とセットの受け皿として使われたと推測される青ガラスの皿も発見されていて、こちらは成分分析によると古代ローマ帝国領内で生産されたローマガラスだと言う。
縦22m、横16mの長方形と言うから、5世紀後半という築造年代ではそう大きなものではない。大和の大王やその一族、地方を支配する豪族などの権力階級の墓ではなさそうだが、それにしてはこの副葬品の豪華さというか、質の高さはなぜなのだろう? もしかして外交や大陸との交易で活躍した渡来人なのだろうか?
このコーナーには奈良県の石上神宮に伝わる「七支刀」も展示されている。金象嵌の61文字の銘文が刀身に刻まれ、その文面から百済の王から倭、つまり日本の、大和の王に贈られたと分かるもので、「日本書紀」にもこの刀に該当するかも知れない記述があるが、日本で最古の本格的な文字・文章の部類に属する。
中国の文字(漢字)が朝鮮半島を経て伝わるまで、日本には文字で文章を書いたり記録を残す習慣はなかったことを念頭におけば、古代の海外渡来文化への憧れの強さと、貪欲に吸収しようとする意欲も、よりよく理解できるだろう。