仏教伝来、そして古墳は役割を終える
いずれにしても、出雲と大和の出土品の現物を大量に見ることで、かつての日本列島で「政治」がその訓読みの文字どおり「まつりごと」だったことを目に見えるエビデンスで納得させられ、信仰の体系や祭礼の形式と政治上の権威・権力、「日本書紀」の「国譲り」に書かれた出雲の役割となった「幽」と大和の司ることになった「顕」の、権威と権力の二重構造の複雑な絡み合いがあってこそ「日本」と言う国家が成立したことをずっと見せられ、考えさせられて来ると、そんな古代日本のモノたちの歴史が最後に仏像に至るのは、自然な論理展開に思える。
現代の我々から見るとこの「幽」、超自然的な霊魂を感じ畏怖したりすることは、最先端の知識・知見や文明の受容とは、矛盾するように思ってしまうかも知れない。
だが近現代の、国家の役割が経済や外交安全保障、現実的な治安の維持などの「顕」に限定されているように見える政治でさえ、そこが目に見える実利・利害やうわべだけの法制度にのみ目を向け続ければ、社会全体がモラルハザードを引き起こして不安が増大、やがて不満も鬱積し、国家そのものが崩壊してしまうか、その崩壊を防ぐため強権的な独裁の恐怖政治に走ったり、軍国主義やファシズム、自国第一主義の排外主義のような暴走を始めてしまうだろう。そんな実例は、現代の日本に暮らす我々にとっても、決して縁遠いことではない。
現代の世界では、価値観や精神文化における社会の「良心」をまとめる役割を特定の宗教が果たせることがほとんどないとはいえ、「日本書紀」でいう「顕」に対する「幽」に当たるのは、いわゆる「国民感情」と言われたり、あるいは「国家理念」として、現代の国家にとっても常に必要なものであり続けている。
そうした文化的なアイデンティティの深層と複雑さを尊重せず、道徳などの精神的な価値を無視するような政治は危ういし、逆に弥生時代の青銅器や、古墳時代の鏡や勾玉や前方後円墳が古代にそうした役割を持っていたと気づくと、この展覧会で見てきたものががぜん現代の我々にも非常に分かり易くなる。
まして災害や病が蔓延してもそれを説明し克服する手段としての科学がなかった古代や前近代の社会では、精神文化つまり「幽」の部分は実態権力の「顕」と同じくらい重要だったはずだ。しかも目に見えない部分なだけに、より説得力を持つものへと更新され続けない限り、「幽」の統治の安定は維持できず、日本という国家の成立にも至らなかっただろう。
出雲の四隅突出型墳丘墓から中国や遥か西アジアから伝わったガラスや朝鮮半島の珍しい石を使った宝飾品が出土していたこと、大和朝廷の統一事業が最初から前方後円墳の祭礼形式と同時に中国から伝わった神獣鏡を広めることを重要な手段としていたこと、そうした役割が古墳時代の後期には大陸から伝わった最新文化が金銀やガラス、貴重な石と精緻な加工技術にも拡大されて行った歴史を、実際のモノを見ながら追って来ると、墳墓を祭礼の場として宗教的・政治的な中心として来た国家の成り立ちの歴史の次のフェーズとして、新しく、より論理的で強力な説得力のある信仰文化体系である仏教の寺院と仏像が古墳に取って替わったのも、ある意味当然の歴史の進展に思えて来る。
大陸からもたらされた先端的な建築技術を駆使して建てられた寺院の伽藍や、表面に金や極彩色が施された仏像は、白く反射率の高い葺石で覆われた巨大古墳が太陽を浴びて光り輝いていた以上に、輝かしく見えたのかも知れないし、まただからこそ、共同体の共有する価値観を実感させるモノにもなり得たのではないだろうか?
この展覧会のこれまでの流れで改めて気づくのは、弥生時代以降の古代日本には、カミや人間を直接表象する具象表現があまり発達していなかったことだ。まして崇拝対象となる神像的なものでは、弥生時代の銅鐸なら動物が多く、人間が描かれているのは記号的に単純化された農耕や狩猟などの生活風景で、それ自体が「神聖」な図像ではない。あとは中国から入って来た鏡に刻まれた神獣文や人物文くらいだろう。古墳時代の日本列島で生まれた人や生き物の具象表現といえば埴輪が思いつくが、これも直接に信仰対象を表象したものではない。
古代の日本人にとって「カミ」は具体的な目に見える形を持ったものではなく、それは現代でも多くの神社の「御神体」が鏡だったりの「依り代」である所にも通じる。そんな文化圏に突然、精緻な表現技巧を駆使してエキゾチック、それも表面に金が施されて光り輝いたりしていた仏像が、入って来たのだ。
仏教の伝来以前、日本列島の人々にとってのカミは「見えない」存在だったのが、具体的な視覚イメージを持つ仏像の登場は衝撃だったのかも知れないと同時に、 具体性があるだけに遥かに頼り甲斐がありそうな、安心感もある拠り所になったのではないか?
この展覧会では特に憤怒相、現代人の感覚では「怖い」顔の威圧的な顔をした、大型の仏像に注目している。好例が四天王だが、他にも奈良の大安寺に伝わる憤怒相の観音像は非常に珍しい。
本来どの仏の像(尊格)として作られたのかは不明だそうだが、国家が形成されていく中で反乱や内乱もあり、災害や疫病に対抗する手段がまだほとんどなかった過去には、厄災や「魔」を払う効果を期待して、こういう「怖い」顔の像の需要は大きかったのではないか?