仏教伝来、そして古墳は役割を終える

いずれにしても、出雲と大和の出土品の現物を大量に見ることで、かつての日本列島で「政治」がその訓読みの文字どおり「まつりごと」だったことを目に見えるエビデンスで納得させられ、信仰の体系や祭礼の形式と政治上の権威・権力、「日本書紀」の「国譲り」に書かれた出雲の役割となった「幽」と大和の司ることになった「顕」の、権威と権力の二重構造の複雑な絡み合いがあってこそ「日本」と言う国家が成立したことをずっと見せられ、考えさせられて来ると、そんな古代日本のモノたちの歴史が最後に仏像に至るのは、自然な論理展開に思える。

画像: 如来および両脇侍立像 朝鮮半島三国時代あるいは飛鳥時代 6〜7世紀 法隆寺献納宝物・東京国立博物館 重要文化財 成分分析で判明した金属元素の含有量から、中尊は朝鮮半島製、脇侍の両菩薩は日本で鋳造された可能性が高い。明治時代に法隆寺から皇室に贈られ、のちに東京国立博物館の所蔵となった寺宝のひとつ。 如来三尊の立像で大きなひとつ光背という形は、絶対秘仏で確認はできないが、長野・善光寺の阿弥陀三尊本尊に共通するはずだ。この善光寺本尊は伝承ではインドから流れ着いたとされているが、恐らくは朝鮮半島からの最初期の渡来仏と考えられる。「日本書紀」の仏教公伝に登場する、百済王から贈られた光り輝く仏像がこれに当たるのではないかとの説も。

如来および両脇侍立像 朝鮮半島三国時代あるいは飛鳥時代 6〜7世紀 法隆寺献納宝物・東京国立博物館 重要文化財
成分分析で判明した金属元素の含有量から、中尊は朝鮮半島製、脇侍の両菩薩は日本で鋳造された可能性が高い。明治時代に法隆寺から皇室に贈られ、のちに東京国立博物館の所蔵となった寺宝のひとつ。
如来三尊の立像で大きなひとつ光背という形は、絶対秘仏で確認はできないが、長野・善光寺の阿弥陀三尊本尊に共通するはずだ。この善光寺本尊は伝承ではインドから流れ着いたとされているが、恐らくは朝鮮半島からの最初期の渡来仏と考えられる。「日本書紀」の仏教公伝に登場する、百済王から贈られた光り輝く仏像がこれに当たるのではないかとの説も。

現代の我々から見るとこの「幽」、超自然的な霊魂を感じ畏怖したりすることは、最先端の知識・知見や文明の受容とは、矛盾するように思ってしまうかも知れない。

だが近現代の、国家の役割が経済や外交安全保障、現実的な治安の維持などの「顕」に限定されているように見える政治でさえ、そこが目に見える実利・利害やうわべだけの法制度にのみ目を向け続ければ、社会全体がモラルハザードを引き起こして不安が増大、やがて不満も鬱積し、国家そのものが崩壊してしまうか、その崩壊を防ぐため強権的な独裁の恐怖政治に走ったり、軍国主義やファシズム、自国第一主義の排外主義のような暴走を始めてしまうだろう。そんな実例は、現代の日本に暮らす我々にとっても、決して縁遠いことではない。

画像: 法隆寺 金堂・五重塔 飛鳥時代7世紀 奈良県斑鳩町 国宝

法隆寺 金堂・五重塔 飛鳥時代7世紀 奈良県斑鳩町 国宝

画像: 飛鳥寺塔心礎埋蔵品 日本最初の本格仏教寺院のひとつ・飛鳥寺(法興寺)の仏塔を建立する際に地鎮のため埋められたもの。奈良県明日香村・飛鳥寺境内出土 飛鳥時代6世紀 奈良文化財研究所飛鳥資料館 重要文化財

飛鳥寺塔心礎埋蔵品 日本最初の本格仏教寺院のひとつ・飛鳥寺(法興寺)の仏塔を建立する際に地鎮のため埋められたもの。奈良県明日香村・飛鳥寺境内出土 飛鳥時代6世紀 奈良文化財研究所飛鳥資料館 重要文化財

画像: 法起寺 三重塔 飛鳥時代 慶雲3(706)年頃 奈良県斑鳩町 国宝

法起寺 三重塔 飛鳥時代 慶雲3(706)年頃 奈良県斑鳩町 国宝

現代の世界では、価値観や精神文化における社会の「良心」をまとめる役割を特定の宗教が果たせることがほとんどないとはいえ、「日本書紀」でいう「顕」に対する「幽」に当たるのは、いわゆる「国民感情」と言われたり、あるいは「国家理念」として、現代の国家にとっても常に必要なものであり続けている。

そうした文化的なアイデンティティの深層と複雑さを尊重せず、道徳などの精神的な価値を無視するような政治は危ういし、逆に弥生時代の青銅器や、古墳時代の鏡や勾玉や前方後円墳が古代にそうした役割を持っていたと気づくと、この展覧会で見てきたものががぜん現代の我々にも非常に分かり易くなる。

まして災害や病が蔓延してもそれを説明し克服する手段としての科学がなかった古代や前近代の社会では、精神文化つまり「幽」の部分は実態権力の「顕」と同じくらい重要だったはずだ。しかも目に見えない部分なだけに、より説得力を持つものへと更新され続けない限り、「幽」の統治の安定は維持できず、日本という国家の成立にも至らなかっただろう。

画像: 如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館・法隆寺献納宝物 重要文化財 飛鳥寺の本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊と極めて似通った作風で、同じ鞍作止利(クラツクリノトリ)仏師ないしその工房の作とみられる

如来坐像 飛鳥時代7世紀 東京国立博物館・法隆寺献納宝物 重要文化財
飛鳥寺の本尊・釈迦如来坐像(飛鳥大仏)、法隆寺金堂の本尊・釈迦三尊と極めて似通った作風で、同じ鞍作止利(クラツクリノトリ)仏師ないしその工房の作とみられる

出雲の四隅突出型墳丘墓から中国や遥か西アジアから伝わったガラスや朝鮮半島の珍しい石を使った宝飾品が出土していたこと、大和朝廷の統一事業が最初から前方後円墳の祭礼形式と同時に中国から伝わった神獣鏡を広めることを重要な手段としていたこと、そうした役割が古墳時代の後期には大陸から伝わった最新文化が金銀やガラス、貴重な石と精緻な加工技術にも拡大されて行った歴史を、実際のモノを見ながら追って来ると、墳墓を祭礼の場として宗教的・政治的な中心として来た国家の成り立ちの歴史の次のフェーズとして、新しく、より論理的で強力な説得力のある信仰文化体系である仏教の寺院と仏像が古墳に取って替わったのも、ある意味当然の歴史の進展に思えて来る。

大陸からもたらされた先端的な建築技術を駆使して建てられた寺院の伽藍や、表面に金や極彩色が施された仏像は、白く反射率の高い葺石で覆われた巨大古墳が太陽を浴びて光り輝いていた以上に、輝かしく見えたのかも知れないし、まただからこそ、共同体の共有する価値観を実感させるモノにもなり得たのではないだろうか?

画像: 伝 薬師三尊像 飛鳥〜奈良時代 7〜8世紀 奈良県桜井市忍阪・石位寺 重要文化財 椅子に腰掛けたように脚を前に出して座った「倚像」は中国の隋や唐代、その同時代の日本や朝鮮半島に多いが、日本ではその後ほとんど作られなくなった。仏像の浮き彫りを素焼きのレンガに焼いて寺院の壁面などの装飾に使った「塼仏」の図様を大きく拡大したものとみられる。

伝 薬師三尊像 飛鳥〜奈良時代 7〜8世紀 奈良県桜井市忍阪・石位寺 重要文化財
椅子に腰掛けたように脚を前に出して座った「倚像」は中国の隋や唐代、その同時代の日本や朝鮮半島に多いが、日本ではその後ほとんど作られなくなった。仏像の浮き彫りを素焼きのレンガに焼いて寺院の壁面などの装飾に使った「塼仏」の図様を大きく拡大したものとみられる。

この展覧会のこれまでの流れで改めて気づくのは、弥生時代以降の古代日本には、カミや人間を直接表象する具象表現があまり発達していなかったことだ。まして崇拝対象となる神像的なものでは、弥生時代の銅鐸なら動物が多く、人間が描かれているのは記号的に単純化された農耕や狩猟などの生活風景で、それ自体が「神聖」な図像ではない。あとは中国から入って来た鏡に刻まれた神獣文や人物文くらいだろう。古墳時代の日本列島で生まれた人や生き物の具象表現といえば埴輪が思いつくが、これも直接に信仰対象を表象したものではない。

画像: いかにも中国・唐時代の武人のようないでたちの持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財 脱活乾漆という技法で、おがくずを混ぜた漆(木屎漆)で麻布を固めて成形。この技法で作られた有名な像が、奈良・興福寺の阿修羅像などの八部衆立像。内部は木の骨組み以外は中空なので、実はとても軽く、木像の邪鬼が比較的小さくともその上に立つこの像は安定している。

いかにも中国・唐時代の武人のようないでたちの持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財
脱活乾漆という技法で、おがくずを混ぜた漆(木屎漆)で麻布を固めて成形。この技法で作られた有名な像が、奈良・興福寺の阿修羅像などの八部衆立像。内部は木の骨組み以外は中空なので、実はとても軽く、木像の邪鬼が比較的小さくともその上に立つこの像は安定している。

画像: 持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財

持国天立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・當麻寺蔵 重要文化財

画像: 広目天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

広目天立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

古代の日本人にとって「カミ」は具体的な目に見える形を持ったものではなく、それは現代でも多くの神社の「御神体」が鏡だったりの「依り代」である所にも通じる。そんな文化圏に突然、精緻な表現技巧を駆使してエキゾチック、それも表面に金が施されて光り輝いたりしていた仏像が、入って来たのだ。

仏教の伝来以前、日本列島の人々にとってのカミは「見えない」存在だったのが、具体的な視覚イメージを持つ仏像の登場は衝撃だったのかも知れないと同時に、 具体性があるだけに遥かに頼り甲斐がありそうな、安心感もある拠り所になったのではないか?

画像: 楊柳観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・大安寺 重要文化財 観音菩薩として信仰されているが元の尊格は不明。硬いカヤの一木から基本部分を彫り出したもので、迫力ある憤怒相と材木の硬さを活かした衣や装飾の精緻でリアルな表現が際立っている

楊柳観音菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・大安寺 重要文化財 観音菩薩として信仰されているが元の尊格は不明。硬いカヤの一木から基本部分を彫り出したもので、迫力ある憤怒相と材木の硬さを活かした衣や装飾の精緻でリアルな表現が際立っている

画像: 多聞天立像 奈良時代8世紀の一木造り 奈良・大安寺 重要文化財 奥に唐招提寺金堂四天王のうち広目天 奈良時代8世紀の木心乾漆像 奈良・唐招提寺 国宝

多聞天立像 奈良時代8世紀の一木造り 奈良・大安寺 重要文化財
奥に唐招提寺金堂四天王のうち広目天 奈良時代8世紀の木心乾漆像 奈良・唐招提寺 国宝

この展覧会では特に憤怒相、現代人の感覚では「怖い」顔の威圧的な顔をした、大型の仏像に注目している。好例が四天王だが、他にも奈良の大安寺に伝わる憤怒相の観音像は非常に珍しい。

本来どの仏の像(尊格)として作られたのかは不明だそうだが、国家が形成されていく中で反乱や内乱もあり、災害や疫病に対抗する手段がまだほとんどなかった過去には、厄災や「魔」を払う効果を期待して、こういう「怖い」顔の像の需要は大きかったのではないか?

This article is a sponsored article by
''.