平安京の貴族たちが仏教と仏像の造立の担い手になって華麗な文化が反映された仏像として、南山城地方でとりわけ傑出しているのは、やはり浄瑠璃寺の四天王(国宝)だろう。とにかく抜群に保存状態がいいこともあって、絢爛豪華な彩色に金もふんだんに用いられているのが今でも一目でよく分かる。
四天王も仏教に取り込まれた古代インド神話の神々だが、密教の明王などと違って仏教伝来の当初から日本に伝わっていた仏教の守護神(護法神)の代表的なもので、東西南北の方位神でもある。現存の最古例は法隆寺金堂の四天王(国宝)だが、法隆寺の前に聖徳太子はまず大阪の四天王寺を建立している。奈良時代では唐招提寺の一木造りの木造四天王立像(国宝)、當麻寺金堂の脱活乾漆の四天王(重要文化財)、東大寺戒壇院の塑像の四天王(国宝)が知られる。浄瑠璃寺の四天王は平安時代の代表的な作例だ。
特徴はまず、その華やかな装飾性だ。
広目天の目を剥いたような憤怒相や、たなびく袖と衣の裾にはそれなりに迫力もあるが、身体の動きは均整が取れて抑制され、安定して立っている。経典に基づく約束事として邪鬼を踏みつけてはいるのも、邪鬼の背中がいかにも立ちやすいように平坦に造形されているのも含めて、悪鬼・怨霊を踏みつけて押さえ込んでいる、と言う感じもあまりない。これが例えば奈良時代の塑像の、東大寺戒壇院の四天王の毘沙門天などは、邪鬼のポーズで高低差をつけて、頭を踏みつける片足が膝を曲げてより高い位置に来るなどのダイナミックなポーズの工夫もあった。
守護神としての威圧感よりは、華麗な装飾性が際立つ華々しい彩色は、必ずしも約束ごとに従ったものではない。四天王は本来なら肉身と顔の色が決まっていて、増長天は赤、持国天は緑、広目天は白で多聞天(毘沙門天)は青い顔に塗られていなければならないはずが、この広目天も多聞天も顔は肌色だ。
より人間から見て自然というか、人間的に受け入れやすい色になっているのだろう。
金もふんだんに用いたこの華やかさは、やはり藤原氏の北家が摂政関白を輩出して権力を掌握した政治的な安定の賜物だろう。同時代の仏画にも高価な顔料を惜しげもなく使い金銀の装飾も施した華麗なものが現存し、少し時代を下ると、色とりどりの豪華な料紙に金銀をふんだんに用いた上に法華経などがその貴族たち自身の手で書き写しされた装飾写経も流行した。
浄瑠璃寺は今は真言律宗の寺院だが、元は奈良の興福寺の末寺として平安時代11世紀半ばの永承2(1047)年に建立されたと記録にある。
興福寺は藤原氏の氏寺であり、この豪華さにはその財力も反映されたのだろう。
場所は現在の木津川市の中でも最南部の、奈良と県境を接する旧・当尾村で、この地域には当尾の石仏群と呼ばれる鎌倉時代の磨崖仏などが山中に点在してもいる。
国宝の三重の塔も京都から移築されたものだったり、京都で権勢を振るう藤原氏との関連が深そうな一方で、地理的には京都よりも奈良の影響が大きい地域であり(今日でも参拝するなら、奈良駅から直通のバスが運行している)、それは京都の貴族文化を反映したようなこの四天王像にも見られる。特に今回出品されている広目天・多聞天のうち広目天の衣の裾の内側などにはっきり残っているが、大胆にあしらわれた大きめの植物の、草花の紋様は、奈良の文化で好まれたものだ。
寺の名前の「浄瑠璃」は、薬師如来がいるという当方の薬師瑠璃光浄土に基づき、本尊は薬師如来だった。今日では薬師如来が三重塔(国宝)に安置され、その縁日である毎月8日に開帳されるが、その間を縫うように、10月11日から26日の間この展覧会でも展示される。
四天王より時代が少し遡ると推定される、和様化が進行中の造形で、衣の彫りなどは浅く簡潔に様式化されて整理されている。その一方で、眼差しも険しい顔立ちは厳しい。当時の彩色と漆箔が残る本尊状態の良さは特筆すべきで、顔と胸、手と足、左手の薬壺は金箔が輝き、襟が黒い赤い衣もとても鮮やかだ。年代は記録にある浄瑠璃寺の創建時とほぼ重なるので、おそらくこの像が当初の本尊だったのだろう。
薬師如来から阿弥陀如来へ/鎮護国家の仏教から個人の来世の救済の祈りへ
ところが、薬師如来の東方の「瑠璃光浄土」を寺の名前にしながら、浄瑠璃寺は九体の阿弥陀如来坐像を本尊とする阿弥陀信仰の寺として知られる。平安時代後期、12世紀の作と見られるこの九体と安置されている本堂(九体阿弥陀堂)は共に国宝に指定もされていて、そもそもこの展覧会と、先に奈良国立博物館で行われた展覧会の二つの特別展は、この9体の阿弥陀如来坐像を5年がかり、基本的に1度に2体ずつ毎年修理をしてきた大事業が無事終わったことを記念するものだ。最後の2体が本堂内で向かって最も右端にある1体とそこから数えて8体目、左から2体目で、そのうち最も右端の像が今回出品されている。
なぜ阿弥陀如来の坐像を9体も並べるのか? 一見おなじ時代のおなじ阿弥陀如来の坐像、中央の一体が一際大きい以外の8体は大きさもおなじでありながら、実は1体1体が個性的でそれぞれ異なっていることなどについては、2体が展示されていた奈良国立博物館での「聖地 南山城」展の本サイトの紹介記事で触れたので、詳しくはそちらをお読みいただきたい(こちらをクリック)。
記録によれば浄瑠璃寺の創建は平安時代の永承2(1047)年だが、干支が一巡した60年後の嘉承2(1107)年に、本堂を池の西側に移し、翌年に本尊の開眼法要を行ったとあり、これが現在の国宝の本堂だと思われる。
薬師如来の瑠璃光浄土は世界の東の彼方に、阿弥陀如来の西方極楽浄土は西と考えられていたことと、この本堂自体の正面側に扉が開く柱の間隔が9つあって、それぞれの開口部に合わせて九体の像を安置できることから、この時に本尊が薬師如来から九体阿弥陀になり、横に長い本堂自体が九体阿弥陀の安置のためのデザインと考えるのが自然だろう。
内部に入るとそのことはますます実感される。天井板を張らずに屋根の構造材の垂木を見せる化粧屋根裏、つまり簡略で簡素な造りのはずが、かえって仏像と一体化して機能的なデザイン性が際立った美しい空間だ。中央の1体がほぼ丈六像(経典に書かれた仏の身長1丈6尺に合わせた仏像で身長4.85mほどになり、坐像の場合はだいたい像高2.4〜2.5mほど)で大きいため、ここだけは他の柱の間隔二つぶんの幅が取られ、化粧屋根裏も一段高い。その左右にそれぞれ像高約1.4mの坐像に下に台座を加えた高さの4体ずつが並ぶと、ぴったり収まる。
もっとも、疑問がまったくないわけではない。国宝の四天王はその豪華な造りからして本堂に安置して本尊を守護するためのものだろうが、九体の阿弥陀像にぴったりの本堂の内部スペースからすると明らかに大き過ぎる。四天王は通常、主要な仏像を安置する須弥壇の四隅に、前列には持国天と増長天、後列に広目天と多聞天を安置するのが、浄瑠璃寺の九体阿弥陀は須弥壇はなく、台のように見えるのは鎌倉時代に追加された、仏像の台座より若干低い長い机状の柵だ。なおこの柵が台座部分を取り囲んでいるので、今回の展示ではよく見える台座は、本堂内ではほとんど見えない。
四天王はその外側に、四隅には置けるスペースがないので横に置くしかない。
現在の本堂内では向かって左端に持国天・増長天が前後に近接して並べられていて、向かって右側には不動明王立像(鎌倉時代の作で重要文化財)の礼拝空間が設けられているので、広目天と多聞天はそれぞれ東京国立博物館、京都国立博物館に寄託されている。不動明王の場所にあと二体の四天王を置けなくもないのだが、そうすると後列の像は前列に隠れてしまってほとんど見えなくなる。今回展示されている広目天と多聞天は後列になるが、このような絢爛たる衣や鎧が後列でほとんど見えないというのも、さすがに奇妙だ。
なお製作年代も、四天王はおそらく九体阿弥陀よりも前で、最も古いのが薬師如来坐像だ。この像がおそらく最初の60年間の本尊だったのだろうし、四天王も当初はこの薬師如来を祀る須弥壇の周囲に置かれるために造られたのだろう。
なぜ浄瑠璃寺の本尊が、干支の一巡、つまりかつて太陰暦で生活していた東アジア文明圏で大きな区切りとなる60年後に薬師如来から阿弥陀如来に変わったのか? 同時代の、浄瑠璃寺本堂の中央の阿弥陀像とほぼおなじ大きさ(正確には、浄瑠璃寺の像は若干小さい2.24m)の丈六の阿弥陀如来坐像は、かつての平安京とその周縁・郊外に今もいくつも残る。国宝に指定されているだけでも宇治・平等院の本尊、大原の三千院・往生極楽院本尊の阿弥陀三尊像の中尊、数年前に国宝になった花園駅前の法金剛院の阿弥陀如来坐像がある。
だがそれらも恐らく、ごくごく一部が奇跡的に残っただけだ。当時の京都の貴族の間では阿弥陀如来への信仰が流行し、この少し前に確立した「寄木造り」、仏像をパーツわけして複数の材木から彫り出すことで工房での大量生産に近いことが可能になったのも手伝って、膨大な数の阿弥陀如来像が造られたはずだ。
藤原道長の法成寺・無量寿院だけでも九体の、丈六の大きさの阿弥陀如来坐像があった。今国宝になっている3例とおなじレベルかそれ以上の完成度の、同サイズのものが3倍の9体も1ヶ所の寺だけで、というのはさすがに、道長が平安朝の最盛期の最高権力者だったからこそだろうが、丈六仏とは限らずとも9体の阿弥陀像を祀る寺院も、この時代だけで30以上あったと記録にある。現存しているのが浄瑠璃寺の九体阿弥陀だけであることからも、いかに平安時代の仏像が残っているということ自体が貴重なのかも分かるし、だからこそ今回浄瑠璃寺で行われた修理のような事業の重要性も増す。
藤原道長が最晩年にひたすら念仏を唱えて阿弥陀如来の救済を祈る生活に没頭したことからも分かるように、阿弥陀信仰・浄土信仰は11世紀、12世紀の平安京の貴族たちの間で大変に流行していた。浄瑠璃寺の九体阿弥陀もまたそうした貴族社会のニーズや影響で造られた、京都の最新流行を反映したものだった一方で、この九体阿弥陀もまた南山城の他の代表的な仏像と同様に、この地域が京都・平安京だけでなく南都・旧平城京の奈良の強い影響も見せているのが、光背だ。
京都とその周辺の阿弥陀如来坐像なら、光背にも金箔が貼られ、湾曲した立体的な彫刻で透かし彫りも施されたり、光背にも小さな仏の姿が並んでいたりするのが普通で、浄瑠璃寺の九体阿弥陀も中央のほぼ丈六の像の光背は金箔が貼られた舟形の、周縁に十三体の化仏を配し全面に千体仏を敷き詰めた華麗なものだ。だが今回展示されている右から数えて1体めも含め、8体の阿弥陀如来坐像の光背は、木材の素地をそのまま活かした平らな板なのだ。
1体めの光背には13個の円形の金属板が縁に沿って並べて貼り付けられているが、これは立体的な光背ならば化仏が飾られる位置だ。本堂の左右に並ぶ8体には、このそれ自体が仏を表すと思われる円がある光背と、ない光背がある。
そしてそれぞれの板の光背には大柄の植物の紋様が、平安時代初期の奈良の仏像によく見られたような絵ではなく、今度はシャープな浮き彫りで一枚一枚に彫刻されている。紋様や彫りの深さも一体ごとに異なっていて、なかにはこの次の鎌倉時代の、鎌倉彫を先取りしたような、深く明快な彫りも見られる。