平安時代から鎌倉時代へ、日本彫刻史の進展を伝える仏像の宝庫としての六波羅蜜寺
定朝が確立したこのスタイルは「定朝様」と呼ばれ、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて全国に広まることになる。
真作かどうかの判定が難しいのは、ひとつには定朝が確立したのが単に見た目の様式だけでなく、「寄木造」、つまり複数のパーツに分けて部分ごとに仏像を彫って組み立てて完成させるやり方だったこともある。この手法では仏像は定型化したパーツで構成されるので、分業による大量生産も可能になる一方で(だから定朝の工房は京都を中心とする貴族からの仏像の需要を一手に引き受けることもできた)、「これは間違いなくこの仏師の彫り方だ」と断定できる要素は必然的に少なくなる。
運慶があまりに有名で賞賛もされるので、比較対象とされがちな定朝は「分業で大量生産」というコンセプトに伴うイメージも含めて、いささか損をしてしまいがちなのかも知れない。だが定朝様が日本の仏像のある定型を確立したから逆にアカデミックで没個性で独創性がない、なんてことは必ずしもないことは、その前の時代の仏像と比較すればよく分かる。
この薬師如来の坐像は、最初は「西光寺」という名前で空也上人が開いた寺が「六波羅蜜寺」と改称されて天台宗に属した際に、その本尊として作られたものだと考えられている。
空也上人が西光寺を開いた時には、自らが彫った十一面観音菩薩立像を本尊としたと伝わる。現在の秘仏本尊(国宝)だ。空也上人は併せて帝釈天と梵天、四天王像も自ら彫ったとされ、「西光寺」を鴨川の東岸に建立する前には、それらの仏像を車に載せて平安京の内外を移動し、各所で庶民から貴族階級まで、身分差を超えた幅広い信仰を集めたという。
その空也上人が彫ったとされる四天王立像は、平安時代初期に盛んに作られた「一木造」、つまり頭頂から足先までの主要部分を一本の材木から彫り出した像で、この四天王立像は10世紀に作られたものの、その様式はその少し前のものを踏襲していて、東寺(教王護国寺)の立体曼荼羅の四天王立像の模刻ではないか、とも指摘されている(註:4体のうち増長天のみ鎌倉時代に補作されたもの。なお梵天と帝釈天は現存せず)。
それに対して少し時代が下る(本尊の十一面観音菩薩立像と四天王立像が「西光寺」の創建時のものであるのに対し、「六波羅蜜寺」に改められた時に作られた)薬師如来坐像は、最も初期の「寄木造」、複数の部材に分けて仏像のパーツ、パーツを彫り、組み立てて完成させた仏像だ。
この「寄木造」の技法を発展させ、完成させたのが定朝なのだが、薬師如来坐像はそのひと世代前、定朝の父・康尚の時代の作品だと考えられるという。康尚は多くの弟子を抱え仏像製作の専業の工房を最初に興したとされ、京都・東福寺の子院、同聚院の不動明王坐像がその作と伝わ流。この像は元は、藤原氏が創建した法性寺の五大明王像の中尊だったという。
この薬師如来像に康尚が関わっていたかどうかは不明だが、この時期に始まった、パーツ分けして彫って組み立てるという新たな技術を応用しつつ、定朝が到達した様式の、優雅な繊細さと穏やかで安らかなあり様は、こうして比較してみるに、やはり革新的なものだったと言わなければなるまい。
例えばこの空也上人の自刻と伝わる四天王立像や、薬師如来坐像、そして定朝の作と伝わる地蔵菩薩立像をこの展覧会で比較すると、地蔵菩薩立像の優美で繊細な表現が、藤原頼通の時代といえば平安朝の貴族文化の絶頂期に、その貴族たちに支持されたことも納得できる。
定朝様の仏像はすぐに全国に広まって、いわば現代の我々が「日本の仏像」というと真っ先に思い浮かべるようなスタイルを確立した一方で、逆にこの薬師如来坐像や四天王立像の、重々しいまでに骨太な、重厚な造形は、それはそれで10世紀という時代における信仰のニーズに沿ったものだったのではないか?