現世を変えようとする信仰と来世の救済のイメージ
今回の展示作品にある国宝の金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅は、この経を広め、また自らも読み込んだ王が正法によって政治を行えば、国は豊かになって四天王など諸天善神たちが国を守護すると説き、国家鎮護の経典として奈良時代から重んじられて来た金光明最勝王経の文言を、極小の金泥の文字で並べて、仏塔の形を描いたものだ。
そこには奥州を京都の朝廷や院政から半ば独立した地方として統治する奥州藤原氏の豊かな財力と同時に、現世・現実世界における統治者としての民への責任と祈りを見出すこともできよう。使われている材料の高価さ以上に、気の遠くなるような緻密な作業と労力が、その祈りには込められている。
清衡が晩年に建立した金色堂が阿弥陀堂であることは、いささか意味づけが違うようにも思われる。阿弥陀信仰は個人の救済、それも死後の世界の問題だ。
この展覧会のために金色堂の中央壇から東京に移された11体の仏像は阿弥陀三尊、持国天と増長天、そして六体のほぼ同じ大きさで同じポーズの地蔵菩薩の立像だ。
一体一体で顔の表情が微妙に違い、やや前屈みだったり胸を張っていささかふんぞりかえり気味だったり、衣の表現もそれぞれ異なっているところが見飽きないが、ワンセットの「六地蔵」として見るべきものだろう。
仏教の転生輪廻の世界観では死後に生まれ変わる先は「六道」、天道・人道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道に分かれ、慈悲と救済の菩薩である地蔵が六体というのは、それぞれの生まれ変わり先での救済を表す。
つまりこの地蔵菩薩もまた、死後の世界・来世に関わるものだ。
金色堂自体が全面黄金で飾られているのも、決して奥州に金が産出する豊かさを誇示したり、藤原氏の財力を見せつけるためだけではなかった。
金は仏像の身体を仕上げることも仏典に由来し、悟りに到達した如来は身体から金色の光を発するという記述に寄る。須弥壇を螺鈿や金銀で飾り、用材に黒檀を用いているのも含め、すべて経典にある「七宝」に基づくものだという。
いやそうした経典・教学の知識もさることながら、金も螺鈿も反射率が高い素材であり、紫檀もまた硬質で磨くと艶が出る。まだ蝋燭もほとんど普及せず、灯りといえば菜種油に芯を差した灯明や紙燭しかなかった時代に、その弱い光でも高い反射率であたかも自ら光を発しているかのように輝くことこそ、なによりも分かりやすい救済のイメージを人々に印象づけたことだろう。
金色堂は後世に鞘堂(覆堂)の中で保護されるようになり(現在の鞘堂は防火や温度・湿度の管理も考慮して昭和43年に建てられた鉄筋コンクリート製)、芭蕉が「光堂」と詠んだ江戸時代にもすでに鞘堂もあり、金色堂自体かなり荒廃していて金箔も剥落していたので彼の想像の描写だろうが、建立当時は関山を少し上ったところの屋外にそのまま建っていて、日中は太陽を、夜も月明かりを反射して、文字通り光り輝いて見えていたはずだ。