北円堂の運慶の諸仏と、鎌倉時代の興福寺の復興の完成

北円堂の今の本尊・弥勒如来坐像も、もちろん無著・世親と同じく晩年の運慶とその工房の作だ。

画像1: 国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置

国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置

弥勒如来の脇侍である法苑林菩薩と大妙相菩薩も同時期に造られたはずだが、今安置されているのは室町時代の像だ。運慶の手がけたであろう両菩薩はなんらかの事情で失われるか、他所に移されたままになり、新たに補われたのだろう。北円堂は鎌倉時代、運慶が関わった復興の後は火災などに遭っていないので、両菩薩像だけがなくなってしまったのは不思議ではある。

画像: 国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置 背後に無著菩薩立像、鎌倉時代・健暦2(1212)年頃、国宝

国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
背後に無著菩薩立像、鎌倉時代・健暦2(1212)年頃、国宝

平安時代末期の治承4(1881)年、平家の平重衡が興福寺・東大寺の反平家勢力を攻撃しようとしたところ、折からの強風に煽られた戦火で興福寺の伽藍のほぼ全てと、東大寺も大仏殿が焼失した。興福寺の僧としてこの大災厄を目撃した仏師・運慶のその後の仕事の大きな部分が、この平家の南都焼き討ちからの復興事業だった。

国宝 金剛力士立像(吽形) 運慶・快慶作 鎌倉時代・建仁3年(1203)年 奈良・東大寺蔵 南大門安置

東大寺南大門の金剛力士像はあまりにも有名だが、運慶は大仏の復興にも参加し、大仏殿の四天王像もその作だった(鎌倉再興の大仏殿は松永久秀の多聞城の戦いで焼失しているので四天王も現存はしないが、運慶の大仏殿様の四天王は海住山寺の五重塔安置の小像をはじめ盛んに写しが作られて現存例も多くどんな像だったのかの推測はつく)。

残念ながら興福寺も東大寺も、その後も何度も戦火に晒された。興福寺の場合は他にも火災が多く、鎌倉時代に復興された伽藍で今なお現存するのも平安末期にすぐに再建された三重塔(国宝)と、鎌倉時代の大湯屋(重文)、そして北円堂(国宝)だけだ。

国宝 興福寺三重塔 平安時代・康治2年(1143)建立、治承4年(1180)以降再建

本堂にあたる中金堂に至ってはなんと七回も焼失、江戸時代の末からずっと仮の堂だったのが文字通り七転び八起きで再建が完成したのは平成の末だ。なおとりわけ北円堂は法隆寺の聖徳太子の霊廟である夢殿(奈良時代、鎌倉時代に屋根などを改修)と並び、八角円堂の形式を最も精確に遺し、またもっとも美しいと、建築そのものの評価も高い。

桜の季節の北円堂

興福寺・東大寺の復興で運慶が造った仏像で、その作と確定していて現存するのは東大寺南大門の金剛力士立像二体、興福寺北円堂の弥勒如来と無著・世親、あとは火災で焼失したまま再建されずに現代に至る興福寺の西金堂の本尊だった釈迦如来の頭部だけだ(この運慶の比較的若い時期の仏頭は、興福寺国宝館で展示されている)。他に東大寺の、先述の重源上人坐像(国宝)など、おそらく運慶の作と推定されるものがいくつかある。

興福寺、北円堂の前より東を見る。手前の盛土状の部分が消失した西金堂の跡。その正面に見える屋根が室町時代に再建された東金堂(国宝)、北の赤い列柱が平成に再建が成った中金堂の正面。奥に春日の山々。

北円堂の再建はこの神仏の都市・奈良の大復興の総仕上げであり、運慶にとって興福寺と東大寺の諸仏の再興の集大成、ひいては晩年に達した自らの創作の総括とも言える最後の大規模プロジェクトだったことだろう。

その最も重要な像が、言うまでもなく中尊の弥勒如来になる。

画像2: 国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置

国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置

だが無著・世親のような実在した人間を表す像や、ポーズについて経典上の約束事が少なく、ダイナミックな動きのある姿の迫力が求められた四天王や十二神将、金剛力士などの護法神像ではいかんなく発揮された運慶の創意工夫、身体的なリアリズムに則った表現は、菩薩や特に如来の像では教義上の約束事に大きく制約される。坐像といえば結跏趺坐(いわゆる坐禅の足を組んだ座り方)で動きのない、静止して瞑想が基本の姿だし、こと如来は手や腕も指で結ぶ印形はどの如来なのかに応じて経典で決められている上に、そもそも悟りに到達して解脱した存在なのだから、装飾も身につけない。

早い話が東大寺南大門の金剛力士の極度に誇張された筋肉表現や無著・世親の節張った手指の関節の皺に至るまでの微細な表現も、如来や菩薩ではあくまで滑らかで柔らかでなければならない身体の表面には使えない。

つまり如来像は見るからに分かりやすく「個性的」にはなりようがなく、しかもこの弥勒如来坐像は博物館や美術展に出品されて「作品」として見られる機会がこれまでほとんどなかったことから(昭和41年に一度、北円堂の大修理完了記念の展覧会で東京で公開されているらしい)、無著・世親立像があまりに有名なのに比べて、あまり注目されて来なかった。

画像3: 国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置

国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置

だが逆に制約があるからこそ、運慶ならではの身体的リアリズムの(西欧のルネサンス、例えばミケランジェロを200年、300年近く先取りした)真髄は、こうした如来像にこそ凝縮されているのではないか?

実質上のデビュー作となる奈良・円成寺の大日如来坐像で、智拳印を結ぶ両手を従来の定例的な形よりも高めに、前に少し突き出した位置にすることで運慶が創り出した全身の筋肉にみなぎる緊張感と力強さについては、本サイトでも奈良国立博物館の「超 国宝」展の記事で詳しく論じた

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