藤原氏二代・不比等の霊廟にして、仏教の悟りと叡智を象徴する興福寺北円堂

興福寺は平城京の東の端の一際高い台地の上に、奈良時代の朝廷の最大実力者・藤原氏の氏寺として創建された。

画像: 三重塔から上がる坂の頂上に見える興福寺北円堂、鎌倉時代・承元4年(1210)頃再建、国宝

三重塔から上がる坂の頂上に見える興福寺北円堂、鎌倉時代・承元4年(1210)頃再建、国宝

さらに東には藤原氏の氏神・春日大社の広大な境内が、奈良盆地の東端の山々と原生林の麓に広がる。山のひとつが春日大社の第一の神・武甕槌命が降臨したとされる聖地にして禁足地の御蓋山だ。

今日でも近鉄奈良駅前の商店街から、興福寺の境内の西端に建てられた北円堂に行こうとすると、かなり急な坂を登ることになる。

坂道の先の左手が北円堂。奥に中金堂

逆に言えば北円堂からは、低層建築しかなかった時代には奈良の全体を見下ろすことができたはずだ。

右手の石垣が北円堂の建つ高台の西端

正面である南側、猿沢の池から境内に行くには、急な石段を登らなければならない。

正門である南大門は現存せず、石の基壇が復元されているが、かつてはこの台地のへりの崖の上に巨大な楼門がそびえ、白壁に朱塗りの柱、屋根は燦然と輝く瑠璃瓦が、と想像するに、平城京の都市計画を担った藤原氏の二代・不比等の権勢だけでなく、その政治的にも考え抜かれた視覚的な計算に気付かされる。

猿沢の池より興福寺の中心となる中金堂、手前に南大門の基壇と、そこに向かう石段

平城京のほぼどこからでも、台地の上の壮麗な伽藍は目に入ったはずだ。

特に首都の中枢の平城宮から見ると、ちょうど官庁街の真東だった。今日でも五重塔は奈良で最も高い建造物で奈良を象徴するランドマークになっているが、奈良時代当時の官庁の出勤時間は早朝だったので、出勤する官吏たちの目には上り行く日の光を浴びた瑠璃瓦がまばゆく輝いて見えていただろう。

単に権勢を印象づけるだけでは、なかったのではないか?

古代日本において、仏教はただ宗教であるだけでなく最先端の文明と知の象徴であり、不比等が確立した中央集権の律令制、つまり成文法に基づき理知的な法と制度による統治と並ぶ、国家の理念的な柱だった。中でも主観性と客観性の複雑な論理を駆使して人間自らの存在の有り様を問う「唯識論」という極めて知的・哲学的な理論を奉ずる法相宗の伽藍は、新しい政権の文治主義と法治主義、その理知に基づいたありようを日々、朝廷を支える官吏たちに印象づけるものだったのではないか?

猿沢の池より、左に中金堂、右の五重塔は現在は令和の大修理中

興福寺の北円堂や南円堂、あるいは法隆寺の夢殿のような八角円堂は、元を辿れば古代インドの墳墓であり仏塔のストゥーパが起源で、八角形は直線の木材でストゥーパの円形になるべく近づけるための形だ。

北円堂は藤原不比等の1周忌にあたる養老5年(721)8月に元明・元正天皇が、長屋王に命じて建てさせた不比等の供養塔で、遺体・遺骨の埋葬所ではないものの霊廟のようなものだ。高台の台地の西端に建てられたのも、平城京の全体を見下ろせる場所が不比等にふさわしかったからだろう。

画像: 国宝 興福寺北円堂 奈良時代・養老5年(721)建立、鎌倉時代・承元4年(1210)頃再建

国宝 興福寺北円堂 奈良時代・養老5年(721)建立、鎌倉時代・承元4年(1210)頃再建

不比等の娘で聖武天皇に嫁いだ皇后・藤原光明子も父の塔所として法隆寺(光明子の母・橘三千代をはじめ当時から女性たちの篤い信仰を集めた寺院でもある)に西円堂を建てていて、本尊は現世利益・現実世界の天災や疫病に霊験があるとされた薬師如来だ。

一方で北円堂の本尊は、未来仏の弥勒如来だ。経典では今は菩薩つまり修行中の身の弥勒菩薩として兜率天にいて、釈迦の入滅(死)から56億7千万年後に悟りに到達して如来となって降臨(弥勒下生)するという、その未来の姿が、北円堂の本尊になる。

画像: 国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置 背後に無著菩薩立像(右)、世親菩薩立像(左)

国宝 弥勒如来坐像 運慶作 鎌倉時代・建暦2年(1212) 奈良・興福寺蔵 北円堂安置
背後に無著菩薩立像(右)、世親菩薩立像(左)

弥勒如来は法相宗の薬師寺や律宗の唐招提寺など、奈良時代の寺院の多くで講堂つまり師から弟子への知の伝達の場の本尊でもある。無著と世親は弥勒菩薩の導きで「唯識」に到達したとされ、つまり弥勒に付き従う兄弟の像は知と叡智の伝達も象徴している。

不比等の名は「史」の訓読み、日本語の元である「やまとことば」で「歴史」「史」を表し、つまりは伝承され蓄積された知識の意味で、その名の通り幼少時から漢籍や記録・歴史に深く通じ、天武天皇・持統天皇の王朝ブレーンとして、当時の日本が東アジア国際社会の中で目指した文明国の一員の地位の礎を確立した。最初の公式歴史書「日本書紀」も不比等が指揮して編纂され、奈良時代には続きの「続日本紀」もまとめられた。

公式歴史書つまり正史を持つことは、当時の東アジアにおいて文明国の必須条件のひとつだった。「日本書紀」を遣唐使が唐の皇帝に献上したことで、日本はそれまでの「東夷」の「倭」ではなく「日本」として、国際社会の一流文明国に仲間入りできたのだ。

画像: 特別開帳時の北円堂、秋

特別開帳時の北円堂、秋

弥勒如来と脇侍の二菩薩(法苑林菩薩・大妙相菩薩)、無著と世親が安置された須弥壇を取り囲んで守護する四天王というのが、北円堂の創建時からの仏像の構成で、供養よりは知識と叡智の伝承の場のように思える。そのような北円堂が天皇の命で創建されたことには、不比等が体現した知と秩序に基づく国家の伝承、という意味もあったのではないか?

画像: 現在は単立の建物の北円堂だが、創建時には回廊に囲まれ正面に門があり、その礎石を見ることができる

現在は単立の建物の北円堂だが、創建時には回廊に囲まれ正面に門があり、その礎石を見ることができる

This article is a sponsored article by
''.