三重塔や五重塔、七重塔や最大で十三重塔のような「塔」は元々は「タワー」の意味ではない(高層建築を意味する本来の漢字は「楼」)。「塔」は「卒塔婆」、サンスクリット語の「ストゥーパ」の音韻を漢字にしたものの一字で、原義は「墓」、仏塔は主に釈迦の遺骨である舎利を祀るための施設か、先述の粟原寺の三重塔のように故人を偲ぶものだ。

インドの仏塔、ストゥーパは本来円形で、日本の八角円堂や六角堂(たとえば興福寺の北円堂と南円堂、法隆寺東院の夢殿、誉田御廟山古墳の後円部墳丘頂上にあった六角堂)は、インドでは円だったものを直線部材の木造で表した、これも「塔」の一種だ。

画像: 飛鳥寺塔心礎納置品 飛鳥時代・6世紀、舎利容器は鎌倉時代・建久7年(1196) 奈良文化財研究所飛鳥資料館

飛鳥寺塔心礎納置品 飛鳥時代・6世紀、舎利容器は鎌倉時代・建久7年(1196) 奈良文化財研究所飛鳥資料館

仏塔の舎利は基壇中央、中心の心柱の下に埋蔵されるか、最上層の上の金属装飾の伏鉢や宝珠に収められた。本展の文化財指定がまだない展示作品のうちでも未来の国宝・重文の可能性が高いひとつが、飛鳥寺(奈良県明日香村、蘇我馬子の建立した法興寺)の仏塔跡から発掘調査で心柱の土台から見つかった舎利容器をはじめとする埋蔵物で、近年の科学調査で詳細が明らかになった。鎌倉時代に落雷で焼失した飛鳥寺の塔が再建された時に、基壇に納め直されたものだ。

画像: 飛鳥寺塔心礎納置品 飛鳥時代・6世紀 奈良文化財研究所飛鳥資料館 鎌倉時代の新造の舎利容器に収められていた、飛鳥時代の舎利容器の断片

飛鳥寺塔心礎納置品 飛鳥時代・6世紀 奈良文化財研究所飛鳥資料館
鎌倉時代の新造の舎利容器に収められていた、飛鳥時代の舎利容器の断片

特に注目されるのは飛鳥時代の元の舎利容器の破片と確認されたものだ。つまり古い舎利容器の破片を舎利と同等の神聖なものとして扱っていたのだろうか? 真に重要なのは舎利なら舎利という物体それ自体ではなく、その物体に込められた祈りや想い、ということなのだろうか?

画像: 国宝 崇福寺塔心礎納置品 飛鳥時代・7世紀 滋賀・近江神宮 天智天皇が近江に首都を置いた時代に遡る、仏塔の土台に納められた舎利容器等。

国宝 崇福寺塔心礎納置品 飛鳥時代・7世紀 滋賀・近江神宮
天智天皇が近江に首都を置いた時代に遡る、仏塔の土台に納められた舎利容器等。

西大寺の中興・叡尊が造らせた鎌倉時代の鉄製の宝塔も、舎利を納めるためのものだ。まず興味深いのはこの宝塔、鉄製だが鋳物ではなく鍛造、つまり鍛治作業で鍛えた鉄の部品から組み立てられていて、よって薄くて軽く頑丈なだけでなく、一種の建築ミニチュアとして極めて精巧に造られている。

国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、鉄宝塔 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺

開いた扉から見える内側には鍛治作業の槌跡も残っていて、その内部には、金銅の瓶状の舎利容器が5本収納される。

画像: 国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、五瓶舎利容器 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺 この五つの瓶形の舎利容器が、中央のより大きな容器を中心にして鉄の宝塔に収納される。

国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、五瓶舎利容器 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺
この五つの瓶形の舎利容器が、中央のより大きな容器を中心にして鉄の宝塔に収納される。

並べて展示された五つの瓶形の舎利容器の右端のひとつだけ、蓮の蕾を模した蓋が外されていて、どういう構成で舎利が納められているのかが分かる。瓶型の容器の中に蓮弁形の上に水晶の火炎宝珠を載せた容器があって、その蓮台部分に舎利がある。いわば舎利のマトリョーシュカ状態というか、しかもわざわざ舎利をいったん五つの容器に分け、それをまとめて一つの宝塔に収めている。

中心に一際大きな蓮の蕾の飾りをつけた瓶形の容器を置き、他の四つで取り囲むというのは、密教の金剛界曼荼羅の中心、五智如来を表し、中心に来る瓶舎利容器が大日如来、ということになる。

密教、特に真言宗の仏塔では、塔は釈迦の塔所でいわば「お墓」であると同時に心柱を大日如来に見立てて他の四如来で囲み、塔の初層を立体曼荼羅化することが少なくないが、この叡尊の鉄宝塔はそれを仏像ではなく舎利でやっているということなのだろうか?

だが、そこから先がよく分からない。

舎利は地上に実存した如来である釈迦の遺骨であって、五智如来のうちの大日如来でも阿閦如来でも、宝生如来でも阿弥陀如来でもない。強いていうなら不空成就如来は釈迦と同一視されるともいうが、釈迦の説いた戒律を復興した叡尊が、その修行のお手本であり悟りに至ったいわば「修行の成功例」としての釈迦の「生身」にこだわって清涼寺の生き写しの釈迦如来立像を崇敬し、舎利を重んじて来たことまでは分かるが、その具体的な地上の身体としての釈尊が到達した「悟り」とは宇宙の根本原理を理解体得することだとしても、それがどうその根本真理という抽象世界を表す五智如来と直接結びつき、一体化し得るのか?

もうひとつ気になるのはこの鉄宝塔、造られた年号が「弘安」とは、元寇に関わるのか? 5月20日からの後期展示ではやはり西大寺の、こちらは文永7年(1270)という一回目の元寇の襲来と時期が重なる金銅の宝塔と、先述の通り清涼寺の「生身」の釈迦如来立像(つまりオリジナルの清涼寺式釈迦如来)が展示される予定だ。

画像: 国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、蓮台形容器 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺 この同型の五つの小さな容器に、舎利が分けられて納められている。

国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、蓮台形容器 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺
この同型の五つの小さな容器に、舎利が分けられて納められている。

そしてなによりも、西大寺の数多くの寺宝の中でも芸術的にも教義的にも「至宝」、叡尊その人の像であり、東大寺の重源上人坐像と並ぶ肖像彫刻の傑作、叡尊(興正菩薩)坐像(鎌倉時代・弘安3年・1280、国宝)がやはり5月20日から、それもこの釈迦如来コーナーであるはずの第3章で展示される。

なぜだろう? 日本の彫刻史上屈指のリアリズムの傑作で、芸術的な価値として間違いなくこの展覧会にふさわしいが、しかしなぜ叡尊その人が、この釈迦の「生身」を通してその実存が祈りの対象として持った意義を探究する展示に・・・

・・・と思えば、あゝそうだった! この章の題名はあくまで「釈迦を慕う」ではないか。

前期ではいわば一般論だったのが、つまりは後期では叡尊その人が「慕う」の主体・主語になるのではないか?

叡尊のまさに「生き写し」の像を通したいわばヴァーチャルな主観から、釈迦の遺骨である舎利が大日如来イコール宇宙の根本原理で真理そのものと同一化・一体化する展示を、見ることになるのだろうか? するとなにか分かることがあるのだろうか? なにしろ叡尊自身ももこだわった釈迦の「生き写し」に比していうなら、国宝・叡尊坐像はまさに生身の像主の存在そのものを、その内面の精神性まで写し取ったような像だ。

あるいは・・・こういうことなのかも知れない。

画像: 国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、鉄宝塔 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺 緻密な建築模型のように作られた宝塔で、扉を閉じて内側から固定するかんぬきまで再現

国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、鉄宝塔 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺
緻密な建築模型のように作られた宝塔で、扉を閉じて内側から固定するかんぬきまで再現

「釈迦の生き写し」の清涼寺釈迦如来立像は、しかし現代の我々から見ると、胸元から同心円状に広がる衣のひだや、螺髪ではなく縄状の毛髪がこれも前頭部を中心に同心円状になっているなど、「生き写し」というにはずいぶん様式化され、必ずしも生身のリアリティを感じない。それでも胎内には解剖学的にもある程度は正確な内蔵(あくまで中国古代医学の「五臓六腑」説ではあるが)が布で再現されて納められているなど、「生身」へのこだわりは明らかに強い。

その清涼寺の釈迦如来立像をはじめとする三体・三種三様の「釈迦の写し身」と信じられた姿と、実存した釈迦の遺骨と信じられて来た舎利つまり生きた肉体としての釈迦の名残りが五智如来、金剛界曼荼羅の中心にして最終到達点の成身会に文字通り、物理的に「成る」ということは…もしかして空海の説いた「即身成仏」、生きた人間が生前のまま悟りを得て、宇宙の根本真理と同一化するという究極の到達点の、再現ということにはならないか?

実存としての仏の姿への憧れを具現化した、運慶の筋肉リアリズム

ここで展覧会の展示構成として、さらに興味深い「仕掛け」が組み込まれている。叡尊が金剛界曼荼羅の中心の成身会=五智如来=大日如来を立体ミニチュア的に再現した鉄宝塔に向き合って展示されているのが、その金剛界大日如来を象った運慶の大日如来坐像(平安時代・安元2年[1176]、奈良・円成寺)なのだ。

国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176) 奈良・円成寺
顔、とくに右耳を中心に当初の漆箔(漆を塗ってその上から金箔を貼る)の金がよく残っていて、元は全身が金で光り輝く像だった。本来は奈良の郊外・柳生の入り口にあたる円成寺の多宝塔に安置され、現在の円成寺では再建された多宝塔の中に復元レプリカが安置されているので、元の姿を想像するのにはお勧め。

そういう連想すら思い浮かぶのは、叡尊の鉄宝塔と向き合う金剛界大日如来の似姿としての仏像に、運慶が仕組んだ表現の革新の力がある。正面から見ただけでは端正な美男の静かな像のようでもあり、運慶の特徴で新興勢力の鎌倉武士に好まれた筋骨隆々たる「力強さ」が初期作品なのでまだそんなに顕著ではない、と思われるかも知れない。

それでもその正面の姿にすでに、平安時代後期の穏やかな風情とは、なにか違った緊張感がある。

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