信仰都市・平城京とその後の奈良を支え、護り、栄えさせた宝

国宝 天燈鬼・龍燈鬼立像 龍燈鬼 鎌倉時代・建保3年(1215) 奈良・興福寺 展示期間:4月19日~5月18日

奈良国立博物館がある奈良公園は隣接して東大寺、興福寺、春日大社があり、今では奈良観光の中心の絶好の立地に博物館がある。だがここは明治維新以前まで、大和国で最大の政治的のみならず軍事的な権勢さえ誇ったこともしばしばだった興福寺・春日大社(藤原氏の氏寺・氏神で、中世以降は神仏習合で「春日興福寺」として一体化していた)の境内だった。

画像: 国宝 春日権現記絵 巻十八 鎌倉時代・14世紀 国(三の丸尚蔵館収蔵)展示期間:4月19日~5月18日 春日明神の使いに誘われて春日大社を詣で、本殿の前に柵を隔てて籠っている僧侶は、「鳥獣戯画」でも知られる高山寺を開いた明恵上人。神仏を崇敬し仏の分身でもある神々に祈るのは、かつての日本では当たり前のことだった。絵は朝廷に仕えた絵師・高階隆兼の手になり、紙ではなく絹本に高価な顔料をふんだんに使った濃彩で描かれた豪華本

国宝 春日権現記絵 巻十八 鎌倉時代・14世紀 国(三の丸尚蔵館収蔵)展示期間:4月19日~5月18日
春日明神の使いに誘われて春日大社を詣で、本殿の前に柵を隔てて籠っている僧侶は、「鳥獣戯画」でも知られる高山寺を開いた明恵上人。神仏を崇敬し仏の分身でもある神々に祈るのは、かつての日本では当たり前のことだった。絵は朝廷に仕えた絵師・高階隆兼の手になり、紙ではなく絹本に高価な顔料をふんだんに使った濃彩で描かれた豪華本

博物館の敷地はかつて春日大社の西端だった。旧館のすぐ南には、かつての春日大社の東西の仏塔の基壇が残っている。この一帯は明治維新で没収されて国有地となり、神仏分離令と廃仏毀釈の危機の、歴史の最前線だったのだ。

画像: 奈良国立博物館に残る春日両塔の基壇のうち、西の塔の基壇。背後左手に旧本館、奥に新館

奈良国立博物館に残る春日両塔の基壇のうち、西の塔の基壇。背後左手に旧本館、奥に新館

国立博物館も国宝制度も、そんな危機への反省から生まれたものでもある。興福寺だけではない。平城京以来、宗教都市として栄えて来た奈良の寺社のすべてが明治維新で近代化=急激な西洋化に直面し、大なり小なり神仏分離令と廃仏毀釈で破壊されかねない危機に晒されていた。

その荒波がおさまった130年前にここに博物館が創立されたのも、「古社寺保存法」に起源がある国宝制度の誕生も、散逸・流出したり破壊されたり顧みられずに朽ちてしまいかねない文化財の保護政策が第一義的な役割だった。

国宝 天燈鬼・龍燈鬼立像 天燈鬼 鎌倉時代・建保3年(1215) 奈良・興福寺 展示期間:4月19日~5月18日

重要な文化遺産を「国宝」つまり「国の宝」として保護を義務化し国庫で援助する制度は「国宝保存法」、戦後の「文化財保護法」の「国宝・重要文化財」に継承されて来た。「国の宝」というのは明治20年に政府に文化財調査を進言して実行したアーネスト・フェノロサの発案らしく、ならば「National Treasure 国民の宝」だから政策として護って一般国民にも紹介し、歴史に根差した文化的アイデンティティを共有する国民意識の醸成、という近代国民国家の成立期ならではの意図もあっただろう。

西洋近代の草創期に国立の美術館・博物館でかつての王侯貴族のコレクションを市民に公開するというのはフランスのルーブル美術館が典型の、近代の国民国家成立に関わる政治装置でもあり、世界中からコレクションをかき集めたイギリスの大英博物館であれば「七つの海を席巻する」大英帝国の権勢を国民に印象づけて、愛国心のプライドを醸成する役割もあった。

急速な近代化つまりは西洋化が進んでいた日本の歴史的文化財の場合は、やや意味づけが異なったはずだ。たとえば法隆寺の「百済観音」と広目天・多聞天は7世紀、明日香村の岡寺に開祖・僧正義淵の像として伝わる極めて写実的な高僧の坐像は奈良時代、8世紀の作だ。

画像: 国宝 義淵僧正坐像 奈良時代・8世紀 奈良・岡寺

国宝 義淵僧正坐像 奈良時代・8世紀 奈良・岡寺

同時代の西洋ヨーロッパといえば、その前にはギリシャ=ローマ文化があったものの、ゲルマン民族の侵入と西ローマ帝国崩壊後の混乱期にあって、およそこのような高度に洗練され成熟した芸術はなかった。明治の日本にとって既に最大のライバルで安全保障上の脅威だったロシアに至っては、ロシア=東欧圏の最古のキリスト教遺構はウクライナのキーウにある11世紀半ばの聖ソフィア大聖堂と修道院群、当時「ロシア」はまだなく、これらを創建したキーウ大公国が16世紀に成立するロシア帝国の起源になった(こうした歴史格差の意識が、ロシアのウクライナ侵攻の大きな動機にある)。

飛鳥の都(現・明日香村)に蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)が平城遷都に伴い現在のならまちに移転した元興寺に伝わる薬師如来立像は、それよりずっと前の9世紀の初頭、奈良時代から平安時代への時代の変わり目に造られている。

国宝 薬師如来立像 平安時代・9世紀 奈良・元興寺

興福寺の天燈鬼・龍燈鬼のような、慶派のリアルな筋肉表現は、国際的に「東洋のミケランジェロ」的に紹介されるが、運慶たちの時代は鎌倉時代、イタリア・ルネサンスより2世紀も3世紀も先行する。

国宝 天燈鬼・龍燈鬼立像 龍燈鬼 鎌倉時代・建保3年(1215) 奈良・興福寺 展示期間:4月19日~5月18日
愛らしい短躯にデフォルメされているが、筋肉のつき方は解剖学的に正確で、大臀筋と大腿筋のあいだに生じる窪みや、頭上に重い燈篭があるので懸命に踏みしめているので足の指先が曲がっているところまで、しっかり彫られている。

近代西洋の歴史観でいえば「中世の暗黒時代」に、日本では極めて洗練された芸術が時代ごとに変遷と発展を続け、彫刻ならば鎌倉時代には解剖学的にも考え抜かれた筋肉表現にまで到達していたことは、19世紀半ばの開国でいわば「遅れて来た先進国」の立ち位置で、人種偏見の対象でもあった日本人にとっては世界に誇れる歴史、西洋から見れば驚嘆の対象になった。

国宝 重源上人坐像 鎌倉時代・13世紀 奈良・東大寺

平安末期・鎌倉初期に源平合戦で大きな被害に遭った東大寺を復興させた重源上人の像は、その復興事業の現場で活躍した運慶が作者と推定される。ならば本人がモデルだろうが、緻密なリアリズムで像主の老齢を克明に描写することになんの躊躇も見せず、むしろその老齢に到達した深い精神性までをも刻み込んだ肖像彫刻の傑作だ。

老いを徹底してリアルに描写しつつ崇高で美しいものとして表現する真摯な芸術性は、二百年三百年後のルネサンス期やそれ以降の近代西洋でも、ほとんど作られていない。

「木の文明」日本の文化遺産が乗り越えて来た数々の危機

一方で、まさにその重源が源平合戦で焼失した東大寺の復興の立役者だっただけではなく、興福寺、元興寺も同じ戦火でほとんどの伽藍を失ったように、日本の大寺院は「木の文明」の美意識と技術の結晶であるがゆえに、戦乱だけでなく落雷などでも火災の危機に晒され続ける宿命もあった。いやそうした大きな災厄に限らず、ちょっとでも手入れを怠ると風雨に晒され荒廃し、やがては白蟻などの虫喰いで朽ちてしまうのが、木の建造物であり木の仏像だ。

国宝 具舎曼荼羅 平安時代・12世紀 奈良・東大寺 展示期間:4月19日~5月18日
左足を上に結跏趺坐を組んだ釈迦如来、左右に文殊菩薩と普賢菩薩を十大弟子が取り囲み、その左右に帝釈天・梵天、四方を四天王が固める図像。良質な顔料を用いたとみえ褪色はあまりないが、一部に剥落が激しいのは否めない。なお釈迦の左足が上になった足の組み方はのちのち重要になるので覚えておいて頂きたい。

絹本や紙の書画も火災、カビ、虫喰い、絵の具の剥落などの危機にさらされたり、折り目から傷んでしまうこともあって何十年かおきに表具をやり直し表面を洗浄するなどの修理をしないと、何百年も、まして1000年以上も維持はできなかった。

「宝を守り伝える」というのは、決して精神論だけで済むことではない。寺社の宝を何世紀も守り抜くには、継続して信仰を集め、極めて具体的・物理的な次元で日々手入れされ、伽藍の建物もその寺宝も、何十年か何百年おきに修理が行えるだけの潤沢な経済基盤を持っていることが必須だった。

国宝・重要文化財の制度とは、所有者に保護のための法的義務を課すと同時に、国家もその義務を担い助成を行う制度でもあって、すべてを等価に保護するのは現実的に無理があるので文化財指定で等階を定めている、とも言える。文化財保護法と消防法で国宝や重要文化財は耐火・耐震などの基準をクリアした環境でないと置くことができないのも、文化財を物理的に維持するためにはやむを得ない規制だ。多くの寺社に鉄筋コンクリの宝物館や収蔵庫などがあるのはそのためだが、西洋近代建築で建てられた博物館にはそうした防火・耐震性が整備された場所で、寺社だけでは守りきれない文化財を預かる役割も一貫して大きく、保護に必須な修理や調査も、その重要な役割になっている。

政治的な危機もむろん忘れられない。明治維新で分離・断絶の大改変を迫られた寺社は、神社も厳しい統廃合はあったものの残ることが許された神社は国営になって経済基盤は維持されたが、江戸時代以前の寺領などを失った寺院では、伽藍の維持の資金にも事欠き、荒廃した堂宇では安置された仏像などの寺宝も痛んでしまいかねなかった。

神の仏としての本来の姿を表す本地仏などの神社にあった仏像に至っては、置き場所がなくなり散逸したもの、廃仏毀釈で破壊されものも少なくない。

国宝 八幡三神坐像 僧形八幡神 平安時代・9世紀 奈良・薬師寺
天武・持統天皇の創建で平城遷都で藤原京から奈良・西ノ京に移転した薬師寺の鎮守社・休ヶ岡八幡宮の本尊・三尊像の中尊。小ぶりの像ながら厚みのある重々しく迫力のある体躯、丸みを帯びたひだとシャープなひだを打ち寄せる波のように交互に重ねる翻波式衣紋の彫りが際立つ傑作。

たとえば八幡神は九州・宇佐地方の土着神だったのが、東大寺の建立に伴い仏に仕え大仏を護ることを誓願したと伝わり、東大寺の鎮守神として手向山八幡宮に遷座して以来、その信仰は全国に広まった。清和源氏の氏神にもなった八幡菩薩、清和源氏の旗印が「南無八幡大菩薩」だったのもこの神が仏弟子になったからで、神像も僧形つまり仏弟子の僧侶の姿で多く造られた。

このように仏教と切っても切れない関係だった八幡信仰、総本山の宇佐八幡宮も、鎌倉の鶴岡八幡宮も、江戸時代までは「八幡宮寺」という寺院の扱いだった。

薬師寺の鎮守も八幡神で、境内の南に休ヶ岡八幡宮があり、神仏分離令以前はここの本尊だった平安時代初期の僧形八幡坐像(神社に属したままでは壊されてしまうので帰属が薬師寺に移され、奈良国立博物館で保護されて来た)は、この時代の彫刻を代表する傑作のひとつ、神像としては代表作だ。

画像: 薬師寺の鎮守・休ヶ岡八幡宮を参拝し法要を行う薬師寺の僧侶。社殿は鎌倉時代で重要文化財。 本展ではここに祀られていた八幡三神坐像(国宝)と吉祥天像(国宝)、この写真では左右の回廊の中に見える板絵神像(重要文化財)、狛犬、古神宝を並べて展示し、かつての礼拝空間を再現している。

薬師寺の鎮守・休ヶ岡八幡宮を参拝し法要を行う薬師寺の僧侶。社殿は鎌倉時代で重要文化財。
本展ではここに祀られていた八幡三神坐像(国宝)と吉祥天像(国宝)、この写真では左右の回廊の中に見える板絵神像(重要文化財)、狛犬、古神宝を並べて展示し、かつての礼拝空間を再現している。

一方で八幡神は第十五代応神天皇という理解も古くからあって、休ヶ岡八幡宮の坐像も脇侍が応神天皇の皇后・仲津姫と母の神功皇后で三尊像を構成する。天皇であり天皇家の祖先神が仏弟子の姿、というのは、神道を仏教から分離独立させて国教にしようという明治政府の宗教政策からすれば、否定したい伝承だったろう。

画像: 国宝 八幡三神坐像 平安時代・9世紀 奈良・薬師寺 八幡神の右に皇后の仲津姫命、右が神功皇后。手前に太刀と矢の古神宝。太刀の鞘には蒔絵で草花の文様が

国宝 八幡三神坐像 平安時代・9世紀 奈良・薬師寺
八幡神の右に皇后の仲津姫命、右が神功皇后。手前に太刀と矢の古神宝。太刀の鞘には蒔絵で草花の文様が

薬師寺金堂で毎年新年に開帳される奈良時代の、ふくよかな唐風の美人画の傑作として(これまた教科書に載っている)有名な吉祥天像は今回、休ヶ岡八幡宮にあった八幡三神坐像と並べて展示された。左右の回廊の壁面に描かれた壁絵や神宝類、獅子と狛犬と併せて、かつての休ヶ岡八幡宮の信仰空間の再現だ。

国宝 吉祥天像 奈良時代・8世紀 奈良・薬師寺 展示期間:4月19日~5月6日【展示期間終了】

左手に赤い宝珠を持ちふくよかな下ぶくれの柔和な顔立ちが優しげな印象が教科書などの写真では強いが、実は恐ろしく緻密な細密画でもある。注目すべきは衣で、細かな文様が入った赤い上着に緑の裳(スカート)の錦の上に、白の薄い絹を羽織っていて、その半透明のシースルー状態が巧みに描かれている。結い上げた髪はミクロン単位で一本一本、花を飾った冠も細部まできっちり描き込まれている。

画像: 展示風景、かつての休ヶ岡八幡宮の信仰空間を再現。左右の板絵神像は重要文化財、鎌倉時代・永仁3年(1295)、奥の狛犬は鎌倉時代、13〜14世紀

展示風景、かつての休ヶ岡八幡宮の信仰空間を再現。左右の板絵神像は重要文化財、鎌倉時代・永仁3年(1295)、奥の狛犬は鎌倉時代、13〜14世紀

八幡神イコール応神天皇という理解と古市古墳群(大阪府羽曳野市・藤井寺市)で最大の誉田御廟山古墳をその陵墓とみなす信仰は、古墳の後円部の南に隣接する誉田八幡宮の社伝では奈良時代、遅くとも中世には成立していた。後円部の頂上には誉田八幡宮の神宮寺・長野山護国寺(今は山門だけが残る)のいわば奥の院として六角の仏堂があって、江戸時代の絵図には参拝のため墳丘に設けた石段を登る人の姿も描かれている。もちろん明治維新後、陵墓は宮内省(戦後は宮内庁)の管轄下に立ち入り禁止になり、六角堂は取り壊された。なお誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の北側、前方部の拝所からいくつかの倍墳(巨大古墳に付随する小型の古墳)を挟んだ先に、古市古墳群で2番目に大きい仲ツ山古墳の前方部の南端と拝所があって、皇后の仲津姫陵とされている。

画像: 誉田八幡宮境内、かつて神宮寺の護国寺があった辺りで、仏教の放生池がある。奥に誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の後円部。頂上つまり埋葬施設と見られるところに、かつて六角の仏堂が見えた。

誉田八幡宮境内、かつて神宮寺の護国寺があった辺りで、仏教の放生池がある。奥に誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の後円部。頂上つまり埋葬施設と見られるところに、かつて六角の仏堂が見えた。

八幡神も春日明神も、その信仰が全国に広まっていたからこそ、政治の影響に晒されその祈りの形も変化を強いられた近代史があるのだ。

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