仏教の輪廻転生と、平安の天皇たちを魅了した密教の世界観

仏教には転生輪廻、つまり生まれ変わりの思想がある。釈迦自身が何度も生まれ変わってはその度に、例えば飢えた虎の母子のために自らの身を投げ打って母親が子供に食べさせられるようにした、などの功徳を重ね、悟りに至って仏陀になれる存在になった、というように信仰されて来た。

画像: 釈迦如来坐像 室町~江戸時代・15~16世紀 大倉集古館 蔵

釈迦如来坐像 室町~江戸時代・15~16世紀 大倉集古館 蔵

また仏教の国家宗教化に大きな役割を果たした聖徳太子(厩戸王)は、亡くなってまもない時代にはもう観音菩薩の生まれ変わりと信じられるようになっていたらしく、また十人の話を一度に理解したという逸話も関係しているのか、後には四天王のうちの北方の守護神で、世界のあらゆる音を聞く者という役割の多聞天を日本で単体で信仰する際の呼び名である毘沙門天の化身ともされ、さらには夢で釈迦に出会いその教えを授かった勝鬘夫人の生まれ変わり、中国の高僧の生まれ変わりといった伝承も成立している。

画像: 金胎両界大日如来像 室町時代・15世紀 大倉集古館 蔵

金胎両界大日如来像 室町時代・15世紀 大倉集古館 蔵

平安時代になると空海が密教を日本に伝えて真言宗を興し、天台宗も最澄がその空海に学び円仁、円珍といった後継者たちが唐に渡って密教を学び、密教が日本人の世界観の重要な根幹になった。

密教の世界観では、世界は大日如来を中心に、その化身・生まれ変わり・分身、さらには化身の化身、化身の分身の体系の中にあらゆる仏や神々が位置付けられ、大日如来は世界そのものにして世界は大日如来の慈悲に満ち溢れている、と考えられている。

その大日如来は金剛界における姿と胎蔵界の姿のふた通りがあり、それぞれに胎蔵界曼荼羅、金剛界曼荼羅の中心に位置し、密教ではそうした大日如来から広がる世界の構造を、曼荼羅によって図式化して説明している。

画像: 金胎両界大日如来像 金剛界 室町時代・15世紀 大倉集古館 蔵

金胎両界大日如来像 金剛界 室町時代・15世紀 大倉集古館 蔵

日本の古来のカミガミもそうした密教の、生まれ変わり・化身・分身の体系の世界観に組み込まれ、仏が日本のために姿を変えた「権現」であり、仏としての本来の姿があるものとして信仰された。そうしたカミを祀る社には、その仏本来の姿の仏を安置する御堂が建てられるのも普通のことになり、やがては神社に併設された仏教寺院の神宮寺が、その神社を管理する別当を務めることも普通になった。そのほとんどは明治の神仏分離・廃仏毀釈で廃寺になったが、今でも全国に神宮寺という寺院や地名は散見される。

画像: 護摩壇図 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館 蔵

護摩壇図 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館 蔵

ちなみに時代は降って16世紀の南蛮貿易の頃、来日したイエズス会の宣教師たちはキリスト教の神がラテン語で「デウス」なのを日本人が「大日如来」と勘違いし、太陽と混同していると愚痴っている記述がルイス・フロイスの「日本史」などにある。

だがこれは、勘違いしていたのは宣教師たちの方ではないか?

ユダヤ=キリスト教における「神」とは宇宙の根本原理でありユダヤ教では宇宙そのものでもあり、キリスト教では三位一体のうちの「聖霊」として宇宙全体に満ちている存在でもあると考えられている。これは密教における大日如来の概念(密教以前の仏教では盧舎那仏ないし毘盧遮那仏、奈良の東大寺の大仏がこの盧舎那仏を表している)とほぼ同じ考え方だし、その神=キリスト=聖霊の「三位一体」の本質を「愛」とみなすキリスト教の考え方は、世界は大日如来の慈悲に満ちていてその分身・化身・分身の分身の体系で世界が埋め尽くされている胎蔵界曼荼羅の世界観に、極めて近い。

画像: 金胎両界大日如来像 胎蔵界 室町時代・15世紀 大倉集古館 蔵

金胎両界大日如来像 胎蔵界 室町時代・15世紀 大倉集古館 蔵

もっとも、一方で「大日」如来が一般的な信仰では太陽と同一視される傾向があったのも確かではある。「古事記」「日本書紀」に基づく日本神話の最高神で「皇祖神」つまり天皇家の先祖でもある天照大神(アマテラスオオミカミ)は元来は太陽神だが、そのカミとしての顕現の、本来の仏の姿(本地仏、本地垂迹説)は大日如来とされている。

密教が平安時代の日本でほとんど爆発的に広まって奈良時代までの既存仏教にとって代わり、既存の奈良仏教の宗派も密教を取り込むようになったのには、世界の全体像を理論化しようとするこうした壮大な世界観や哲学以上に、いわば「実用的」な面もあったことも無視できない。

画像: 重要美術品 虚空蔵菩薩像 鎌倉~南北朝時代・14世紀 大倉集古館 蔵 【12/4までの展示】

重要美術品 虚空蔵菩薩像 鎌倉~南北朝時代・14世紀 大倉集古館 蔵 【12/4までの展示】

世界のすべてが究極には大日如来に行き着き、顕現・化身の繰り返しで世界が体系化されると理解される密教では、元は全てが大日如来=宇宙の一部なのだから、同じ宇宙の一部である人間もまたその末端・周縁に属する曼荼羅世界の一部であり、だから自らより中心に近い神仏と同一化することも理論上は可能になる。そこで仏や神を呼び出してその仏や神と一体化し、その霊力を自分のものとして世界に影響を及ぼすための儀式を「修法」と言い、これは平安時代を通して朝廷が盛んに行われせるようになった。

つまりいわば呪詛的な「実用」性というか、修法によって仏や神の力で国家の災いとなる疫病や天変地異、敵の侵略などを防ぐという考え方が、疫病や天変地異が怨霊や荒ぶる神の仕業だと考える日本古来のアニミズム信仰と相まって、当時の仏教の主な担い手だった朝廷と貴族たちにとってとても重要な生活上・政治上の役割を果たしていたのだ。

大倉集古館が所蔵する、とても端正な虚空蔵菩薩像のような仏画は、こうした修法で同一化する対象の仏の姿として用いられたものだろう。

画像: 重要美術品 愛染明王像 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館 蔵 【12/4までの展示】

重要美術品 愛染明王像 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館 蔵 【12/4までの展示】

ちなみに虚空蔵菩薩の力を得ると記憶力が倍増するのだそうで、唐に留学した空海がわずか半年で師の恵果から密教のすべてを学ぼうとした時には虚空蔵菩薩の修法を行なって驚異的な記憶力を身につけた、とも伝わる。

画像: 重要美術品 虚空蔵菩薩像 鎌倉~南北朝時代・14世紀 大倉集古館 蔵 【12/4までの展示】 随所に金箔を細く切って貼り付ける截金の技法が用いられている豪華な作例で、円相を基調に真正面から菩薩を描いた理知的な構図が、その円相に貼り付けられた直線の截金で強調されている。

重要美術品 虚空蔵菩薩像 鎌倉~南北朝時代・14世紀 大倉集古館 蔵 【12/4までの展示】
随所に金箔を細く切って貼り付ける截金の技法が用いられている豪華な作例で、円相を基調に真正面から菩薩を描いた理知的な構図が、その円相に貼り付けられた直線の截金で強調されている。

修法にあたって仏を呼び出すにはその本来の名前を唱えなければならず、仏教はインド起源なので本来の名前はサンスクリット語になり、そのサンスクリット語の文字が「梵字」、サンスクリット語に近い発音の仏の名前が「真言」で、空海の開いた密教宗派が「真言宗」なのもここに由来する。

こうした修法の儀式の作法は公に、文書などの形でその奥義を伝えることはできないとされ、奥義は口伝で秘密裏に伝承されることから「密教」という呼び方の語源でもある。

画像: 重要美術品 孔雀経音義 平安時代・久安4年(1160) 特種東海製紙株式会社 所蔵 孔雀は美しい姿の一方で蛇を食い殺すことから、その神格化の孔雀明王と孔雀経は、疫病や厄災を退散させる力があると考えられていた。

重要美術品 孔雀経音義 平安時代・久安4年(1160) 特種東海製紙株式会社 所蔵
孔雀は美しい姿の一方で蛇を食い殺すことから、その神格化の孔雀明王と孔雀経は、疫病や厄災を退散させる力があると考えられていた。

そうした儀式では護摩の火を焚いたりするので、本尊として使われる仏画はしばしば煤などで傷んでしまいがちだが、それでも造られた当時の華やかな色彩を想像するには十分な保存状態のものがこうして残っている。

画像: 不動明王二童子像 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館 蔵

不動明王二童子像 鎌倉時代・14世紀 大倉集古館 蔵

大倉集古館の所蔵する不動明王と脇侍として従う矜羯羅童子・制吒迦童子の二童子を描いた仏画も、表面はやや煤けて不鮮明に見えるが、近づいて見ると緻密な表現とダイナミックな躍動感に目を奪われる。

この不動明王、特に日本の密教では重要で、大日如来以上に密教の象徴のようにさえ思われていて、真言宗でも天台宗でも、密教系の寺院には、本尊でなくとも必ずと言っていいほど不動明王の像や不動明王を祀る堂があったりする。

密教は日本以外でも、現代でもチベット仏教などが盛んに信仰されているが、不動明王がここまで重視されているのは日本だけだという。

画像: 不動明王坐像 室町~江戸時代・16~17世紀 大倉集古館 蔵

不動明王坐像 室町~江戸時代・16~17世紀 大倉集古館 蔵

空海が自ら不動明王を彫ったという伝承も、例えば空海の京都における本拠地・東寺の御影堂の不動明王(国宝・事実上の絶対秘仏で公開はされず、見られた記録は1954年の文化財調査とその後に重文・国宝指定に合わせて行われた大修理の時のみ)や、成田山新勝寺など、全国に少なからず残っているからには、空海自身がこの仏をそれだけ重視していたとも考えられる。だが逆に不動明王が強い信仰を集めたことから、いわば後付けで空海についてそうした伝承が産まれた可能性もある。

なぜこのように一見怖い姿をした仏の表象が多く作られたのかといえば、やはり「魔除け」「厄除け」的な、怨霊や災いに「睨みを効かす」姿が、天災や疫病について科学的な説明ができなかった時代には、かえって安心感を与えるものだったのではないだろうか?

画像: 円空(1632~95) 不動明王坐像 江戸時代・17世紀 大倉集古館 蔵

円空(1632~95) 不動明王坐像 江戸時代・17世紀 大倉集古館 蔵

江戸時代にもなると大倉集古館の収蔵する円空の小さな不動明王像や、英一蝶の描いた「不動尊に悪童図」のように、怖い目で睨みを効かす不動明王もずいぶん親しみのある存在にもなっていたようだ。

画像: 英一蝶(1652~1724) 雑画帖 より 不動尊に悪童図 江戸時代・17世紀 大倉集古館 蔵

英一蝶(1652~1724) 雑画帖 より 不動尊に悪童図 江戸時代・17世紀 大倉集古館 蔵

さらにもう少し時代が下ると、歌舞伎の市川團十郎が新年の興行で観客を睨み、睨まれた観客は1年間無病息災で暮らせるという話があるのだが、初代の團十郎は成田山新勝寺の不動明王を深く信仰していたことで知られる。屋号の「成田屋」は成田山に由来し、今日でも成田山の節分会には團十郎が毎年参加しているが、初代は単に厚く信仰していてそのご利益で子宝を授かっただけでなく、舞台の当たり役のひとつが、舞台上で不動明王を演じたことだった。團十郎の「睨み」は、いわば不動明王に睨まれることになり、だから無病息災の縁起ものになるのだ。

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