日本人はなにを信じて来たのか?

画像: 蔵王権現立像 平安時代11世紀 奈良国立博物館蔵 蔵王権現は日本古来の山岳信仰が仏教と融合した「修験道」のカミとして生まれた日本仏教独自の尊格。この像は台座の岩も含めて一本の木から彫り出されている

蔵王権現立像 平安時代11世紀 奈良国立博物館蔵 蔵王権現は日本古来の山岳信仰が仏教と融合した「修験道」のカミとして生まれた日本仏教独自の尊格。この像は台座の岩も含めて一本の木から彫り出されている

奈良時代まで、日本の仏像には粘土で造形した塑像や、漆におがくずを混ぜたペーストで布を固めて整形し内部から木や金属の芯で支えた脱活乾漆像、銅を主体とする合金を鋳型に流し込んで鋳造した金銅の仏像、もちろん石を彫った石仏も作られていたし、煉瓦の表面に仏の姿を浮き彫りにした塼仏(せんぶつ)など、さまざまな技法が使われている。そのほとんどは恐らくは大陸から伝来した技術かその応用だった。

それが奈良時代後期から平安時代にかけて、圧倒多数が木造になる。

平安時代の初期までは木造の仏像の表面を漆におがくずを混ぜたペーストで整形した木心乾漆像も作られているが、彫り出していくのではなく形を足していくので自由な表現が比較的容易な技法なのになぜか廃れ、木から形を彫り出す技術が極端なまでに高度に、日本独自のものとして発展して行く。

画像: 左)救脱菩薩立像 右)梵天立像 ともに奈良・秋篠寺蔵(奈良国立博物館寄託)重要文化財 頭部が奈良時代の脱活乾漆像で体が鎌倉時代・正応2(1289)年に補われた木像。恐らく火災や戦災で頭部だけが残った仏像を、信仰対象にし続けるために体を補ったと思われる。秋篠寺の有名な技芸天立像も同様に、創建当時の頭部だけが残ったのを鎌倉時代に体部を補ったもの。奈良では平安時代の末に、源平合戦の平家による「南都焼討」でほとんどの寺が焼け落ちている

左)救脱菩薩立像 右)梵天立像 ともに奈良・秋篠寺蔵(奈良国立博物館寄託)重要文化財
頭部が奈良時代の脱活乾漆像で体が鎌倉時代・正応2(1289)年に補われた木像。恐らく火災や戦災で頭部だけが残った仏像を、信仰対象にし続けるために体を補ったと思われる。秋篠寺の有名な技芸天立像も同様に、創建当時の頭部だけが残ったのを鎌倉時代に体部を補ったもの。奈良では平安時代の末に、源平合戦の平家による「南都焼討」でほとんどの寺が焼け落ちている

木材は乾燥で木目に沿ってひび割れるし、湿気が多いと虫がつくなど、必ずしも保存に向いた素材ではなく、火災にも弱いのにも関わらず、である。しかも木目や節などのクセが一本一本にあって、彫っている最中にもそこから裂けたり割れてしまったり、節の部分が硬かったりで、木をよく知っていないと造形の段階でも、必ずしも扱いが容易な素材ではない。

なのになぜ、日本人はこうも木の仏像にこだわったのだろうか? それも複数の木材のピースを組み合わせる寄木造りならまだしも、一木造りであれば素材の木材のクセを殺すのは難しい。

ミケランジェロは大理石の塊を見るとそこに隠れていて彫り出すべき姿がすでに見える、と言ったそうだが、素材そのものが持つクセや個性なら木材は大理石の比ではないだろう。だがむしろ、そう言うところに木にそれが生命体であることの「他者性」を感知して、「他者」であるが故に思い通りにはならないところにこそ神聖さを感じ、木の仏像がもっとも尊ばれた面があったのではないか?

特に奈良時代後期から平安時代の前半にかけての一木造りの仏像には、元の木がかなりの大木であったろうことも含めて、そう言う自然の「他者性」を前提にした信仰感覚があったように思えてならない。原材料素材を思うがままに操るのではなく、ある意味で「素材に従う」ような創作の態度だ。

画像: 女神坐像 平安時代11世紀 奈良国立博物館蔵

女神坐像 平安時代11世紀 奈良国立博物館蔵

そもそも日本列島には仏教の伝来以前、信仰対象のカミを像などの具体的に見える形で表象する文化がほとんどなく、古代のカミ信仰では大木や大きな岩に自然のカミが宿るとみなしていた。そうした巨木や巨岩の周囲を礼拝の場にしていたらしい痕跡は、大木を「御神木」としてその下にカミが降りる「磐座(いわくら)」を設ける習慣や、神社でカミを数える単位が「一柱」「二柱」であるようなところにも残っている。

そんな古代の日本列島に入って来たのが、経典で言語的に理論化された信仰体系としての仏教と、同時にその経典の約束事に基づいた信仰対象の具体的表象である仏像の文化も伝わった。それは服装の在り方などからして見るからにエキゾチック、つまり「他者」的なものとして受け取られたはずだ。

仏像はまずは海外から入って来た最先端の文化文明として認識されたからこそ、その「他者性」への畏怖があるからこそ有り難がられ、「他者」的な存在であることを意識されつつ盛んに模倣されながら、次第に日本の土着的な感性と言うか、自然に「他者性=カミ性」を認識するアニミズム的な感受性と融合して、木の彫刻の文化が発展したのではないか?

つまり木の仏像、とくに巨木から作られた一木造りの像は、その表象する姿そのものが日本ではなく異国(インド、中国、西域、朝鮮半島)由来のエキゾチックな、つまり「他者」的なものであると同時に、素材を通して自然の脅威と生命力をそのままに感じさせる意味でも「他者」的なモノとしての信仰対象を、かつての日本人はまず仏教に見たのではないか?

画像: 童子形坐像 平安時代12世紀 奈良国立博物館蔵

童子形坐像 平安時代12世紀 奈良国立博物館蔵 

その仏教・仏像の影響で、元来は具体的な姿形を持たなかった日本古来のカミガミも、木像で表象されるようになった。やはり信仰対象は目に見えた方が分かり易く、より具体的なイメージも持てたのだろう。なんとなく旧約聖書・出エジプト記で、モーセがシナイ山に登って留守中に、不安になった兄アロンたちが金の牛の偶像を作って祀り始め、シナイ山で神から十戒を授かって帰って来たモーセが激怒する、という話も思い出してしまう。ここでモーセが授かった十戒のひとつが言うまでもなく偶像崇拝、つまり信仰対象としての神像の禁止だ。ユダヤ教とイスラム教は度々偶像崇拝的な行為を「異端」として追放・排除することでこの戒律を守り続けているが、キリスト教ではなし崩しになっているのはご承知の通りだ。

抽象的で目に見えないものは、そこに「他者」的な畏怖を感じ続けられない限り、信じ続けるのは難しいのではないだろうか? ユダヤ教(そしてイスラム)の神は「砂漠の神」、究極の畏怖の対象だからこそこの教義は成立するのかも知れない。そういう信仰体系で言うところの「偶像崇拝」は、温帯性の気候で農業が主体になる地域で社会が経済的に発展するなかではむしろ必要になり、つまり個々人の生活や人間関係が複雑化するほどに、そうした日常的な煩いも宗教の守備範囲になり、信仰がより個人的な感情の問題になるほどに、人々はより身近に感じられる具体的なイメージを、信仰の対象として求めるようになるのではないか?

平安時代初期の、木そのものの存在感をどこか活かしたような、どこか大自然の威容を宿した一木造りの仏像から、寄木造りで個々のディテールをパーツ分けして仕上げることで、木のクセに囚われずにより精緻で洗練された造形が追求されるようになった歴史の、平安後期のやさしげでたおやかな定朝様の流行を経て、慶派や善派のよりリアルな表現へと向かった流れとは、つまりより見た目にも美しく身近に感じられて生活に馴染むモノへと求められる信仰の対象が変わって行き、人間らしく見える生身に近い像へとなって行ったのかも知れない。

画像: 地蔵菩薩立像 鎌倉時代14世紀 奈良国立博物館蔵

地蔵菩薩立像 鎌倉時代14世紀 奈良国立博物館蔵

記事の冒頭で写真で取り上げた鎌倉時代と平安時代の2体の地蔵菩薩も、鎌倉時代の像は衣の表現がより自然でリアル、襟元が和服風でより身近、そして顔は肌色に彩色され、作られた当時にはまるで生身の美少年のような雰囲気さえあったのではないか? つまりは、より現実の人間に近く見える仏像が求められた変化だったとも言えそうに思える。

仏像の目の表現でも、平安時代には瞳に別の、反射率が異なった木材をはめ込む表現が始まっているが、鎌倉時代になると頭部を前後で割って中をくり抜き、目に穴を開けて内部からガラスや水晶で作った目をはめ込む「玉眼」が、小さな像でもスタンダードになる。仏像により身近に感じられる生身の人間を理想化した姿を求めるようになった需要も、その背景にはあったのではないか?

「なら仏像館」にある善円の、完璧なコントラポストのバランスを見せる十一面観音は、まるで生身の少年か少女のような風情がある。ふと気づくとこれが13世紀の前半の作品で、ヨーロッパの彫刻で古代ギリシャ・ヘレニズム期やローマ帝国時代のこの表現手法が復活するのは200〜300年後のルネサンス期だ。むろん「どっちが早い」を言い出すのなら元々ギリシャ=ローマの手法なのだから比較するだけ無駄だが、鎌倉時代から200年以上後になるルネサンス期のイタリアではそういえば、聖母像を描くのにラファエロが上流ブルジョワや貴族の女性をモデルにしたりもしていた。だいたい古代ギリシャの彫刻には神像が多いわけだが、この表現法が確立したヘレニズム期は、今日我々が知っているような内容でギリシャ神話がまとまり、主神ゼウスが浮気性で妻のヘラが嫉妬して云々、的な妙に人間くさい神々のイメージが普及したのも、この時代だ。超越的だった信仰対象をより身近に、生身の人間に近づけようとする傾向が、ここにも見られないだろうか?

画像: 如意輪観音菩薩坐像 鎌倉時代 建治元(1275)年 奈良国立博物館蔵 目が光って見えるのはガラスや水晶を内側からはめ込んだ玉眼。衣の随所に細く切った金箔を貼り付けて服地の柄や文様を再現している

如意輪観音菩薩坐像 鎌倉時代 建治元(1275)年 奈良国立博物館蔵 目が光って見えるのはガラスや水晶を内側からはめ込んだ玉眼。衣の随所に細く切った金箔を貼り付けて服地の柄や文様を再現している

もちろん大陸渡来の文化・文明として仏像が作られるようになったのは飛鳥時代や奈良時代で、その後はずっと日本列島の中でその彫刻文化が自律的に独自の発展を遂げた、なんて言うことはまったくない。日本は島国と言っても、常に朝鮮半島と中国大陸との深い関わりに寄ってその歴史と文化を紡いで来た国だ。

奈良時代、聖武天皇が全国に国分寺を置き大仏の造営を発願してからほぼ10年ほどで、今度は鑑真が渡来して唐招提寺を開き、平安初期の巨木の一木造りの仏像の源流のひとつがどうもここにあるらしい。平安初期には最澄と空海がそれぞれに天台宗、密教の真言宗と共により新しくエキゾチックかつ「他者」的な、多面多臂の異形の姿も含む神仏を唐から持ち込み、明王像など仏像化される神仏が増えてさらに仏像表現が発達した。日本の仏教も、その表象文化としての仏像も、大陸からの影響を直接的に受け続けては、変化し続けて来たのだ。

鎌倉時代に運慶や快慶、善円などの、明らかに日本独自と言っていい新しい仏像の潮流が生まれた一方で、この時代の最新仏教は禅宗だ。禅宗の文化は北宋・南宋の影響が強い、当時から見ればとても「中国風」な新しい文化で、それはもちろん仏像にも反映される。たとえば禅宗寺院では庫裏(お寺の台所)の入り口に韋駄天を祀る風習が取り入れられたし、本堂に当たる仏殿には、中国の道教系の神の像が守護神として安置された(「伽藍神」と呼ばれる)。

画像: 伽藍神立像 鎌倉時代13世紀 奈良国立博物館蔵

伽藍神立像 鎌倉時代13世紀 奈良国立博物館蔵

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