約束ごとの枠組みの中だからこその多様性と自由

決まりや約束ごとの厳格な枠組みを意識してこそ、逆にその枠組みの中に自由な創造を見出すこと。これは日本文化の得意とするところなのかも知れない。

茶の湯の所作や茶道具の揃え方などは典型だろうし、千利休が究極の理想の茶碗として作らせた「樂茶碗」は黒釉の黒樂か透明釉で赤土の色を見せる赤樂しか許されず、作り方の手順や使っていい材料・道具も厳格に決められ、一切の具象的な装飾性を許さない点でもその表現は厳格に制約されている。だがだからこそ、樂茶碗には2つとして同じに見えるものがない。樂家初代の長次郎と利休が厳格に定めたルールを踏襲して本阿弥光悦が樂茶碗を作れば、できあがったものはまるで別次元の、別世界のようだ。

あるいは小津安二郎の映画では、全てのショットでフレームが厳格に意識され、その枠の中での構図の決め方も厳格な規則性に基づき、周知の通りキャメラが動くこともほとんどない。出演者も同じ俳優が度々起用され、『晩春』『秋日和』そして遺作の『秋刀魚の味』のように、ストーリーまで同じ枠組み内に厳格に定められた一連の作品さえある。「みんな同じに見える」「似たようなもの」なのかといえば、このストーリーがほぼ同じ三作品だけ見ても、映画のテーマも喚起される感情も、その余韻も、それぞれにまったく異なっていることに驚かされる。

「なら仏像館」の刺激的なおもしろさは、こうしたことに通じているのかも知れない。

画像: 阿弥陀如来立像 平安時代 12世紀 奈良国立博物館蔵 手のひらや脇の下、胸筋の窪みなどに、もともと漆を塗ってその上から金箔を施していた痕跡が見える

阿弥陀如来立像 平安時代 12世紀 奈良国立博物館蔵
手のひらや脇の下、胸筋の窪みなどに、もともと漆を塗ってその上から金箔を施していた痕跡が見える

「如来」(本来の意味は「悟りを開いた者」、ブッダ)の見分け方は実は簡単だ。手のポーズと指の形(仏教用語で「印」を結ぶ、「印相」)によって決まる。先に挙げた三体の如来立像はいずれも手が欠損しているため、どの如来を表していたのか見分けようがなくなってしまっているのだ。

この写真の平安時代後期の如来像は「来迎印」(死者の「お迎え」のポーズ)を結んでいるので、阿弥陀如来と分かる。平安時代の中後期には、仏典の解釈から永承7(1052)年が「末法」つまり世界の秩序が失われる時代の始まりと信じられ、名前(「ナムアミダブツ」)を唱えて心からすがれば死後に救済してくれるとする阿弥陀信仰の流行が始まり、院政期の戦乱と源平合戦を経て鎌倉時代にはさらに盛んになり、法然が浄土宗、法然の弟子筋から「踊念仏」で知られる一遍が時宗、そして親鸞が浄土真宗を開く(今でも日本の仏教で最大宗派)。

鎌倉時代になぜ浄土信仰がさらに盛んになったのか、その理由が垣間見える史実がある。源平合戦の源氏方、源義経配下の武将として活躍した熊谷次郎直実は、能の「敦盛」や歌舞伎の「一谷嫩軍記」のモデルとして今日でも有名だが、鎌倉幕府の成立後に隠居・出家して法然に師事しているのだ。
埼玉県の熊谷市は直実の一族の本拠地だったが、ここには出家して「蓮生法師」を名乗った直実の終焉の地と伝わる往生した場所と伝わる蓮生山熊谷寺がある。
戦争は多くの人命が奪われる虚しい営みであるだけではなく、戦場における武士の職業とは要するに、殺人に他ならない。どんなに罪深くともその罪を自覚して阿弥陀仏にすがれば救済される可能性があるという教えは、直実のような戦場体験を背負った者には切実な祈りに応えるほとんど唯一の救いだったのではないか?

この像のスタイルは、平安時代中後期に確立した「定朝様」だ。定朝は平安時代後期、藤原摂関政治の最盛期の頃に活躍した大仏師で、真作と確定しているのは京都の宇治・平等院の本尊の阿弥陀如来坐像くらいだが、複数の部材を組み合わせて仏像を形成する寄木造り技法の完成者とも言われる(ただしこの像の構造はヒノキの一木割矧造で寄木造ではない)。

定朝が確立したとされる、穏便でやさしげな優美なスタイルの仏像の流行は、平安時代の末にかけて全国に広まっていく。現代人が「みんな同じ」と思いがちな仏像のイメージは、恐らくこの「定朝様」だろう。

いずれにしても、この像が阿弥陀如来だと分かるのは優雅な曲線とすっきりした直線の整理された表現で穏やかな、いかにも救ってくれそうな雰囲気だから、というような理由ではまったくないし、逆に本記事タイトル写真の骨太な、不思議な造形の阿弥陀仏を、穏やかでやさしそう、と思う人はなかなかいないだろう。ずんぐりとした体躯で、小さな像だというのに重厚な迫力があり、しかしどこかかわいらしい愛嬌もたたえつつ、人間とは異次元な、なにか「異形」ささえ感じさせる像だ。

画像: 阿弥陀如来坐像 平安時代9世紀 奈良国立博物館蔵 硬いカヤ材の一木から彫り出した像で、小さなものだが重厚な迫力が凄い。全体が黒いのは香や蝋燭、密教の護摩の儀式で火を焚いた煤が何世紀にも渡って付着したもの

阿弥陀如来坐像 平安時代9世紀 奈良国立博物館蔵 硬いカヤ材の一木から彫り出した像で、小さなものだが重厚な迫力が凄い。全体が黒いのは香や蝋燭、密教の護摩の儀式で火を焚いた煤が何世紀にも渡って付着したもの

平安時代前期の阿弥陀像で、上の写真の立像からだいたい200年から300年ほど遡った時代の、堅いカヤ材から全体を彫り出した一木造りだ。

ずいぶんとイメージが異なる2体のどちらも阿弥陀如来と分かるのは、あくまで手の形(指で印を結ぶ、「印相」)だ。前者の如来立像は両手で「来迎印」を結んでいるので阿弥陀と分かり、如来の坐像で手を前に組んでいる場合(「定印」、瞑想している姿)には、指を立てて親指と人差し指で輪を作っていれば阿弥陀如来だ。

同じように手を前で組んで瞑想している定印の如来坐像でも、指は伸ばし一方の手のひらを他方に重ねていれば釈迦如来、歴史的に実在した「ブッダ」で、古代の北インドのシャカ国の王子が出家して7年間の瞑想修行の末に悟りに達し、仏教の開祖となったゴータマ・シッダールタを表す。

画像: 如来坐像 中国・五胡十六国時代 4〜5世紀 奈良国立博物館蔵 中国本土に仏教が本格的に普及し始めた時代の作。仏像はアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけてのガンダーラ地域で作られはじめ、この像はその要素を引き継ぎながらも中国化した要素も。

如来坐像 中国・五胡十六国時代 4〜5世紀 奈良国立博物館蔵 中国本土に仏教が本格的に普及し始めた時代の作。仏像はアフガニスタン東部からパキスタン北西部にかけてのガンダーラ地域で作られはじめ、この像はその要素を引き継ぎながらも中国化した要素も。

日本ではあまり見かけないが、釈迦の坐像で片手を地面に接しているのが「降魔印」で、瞑想の邪魔をする悪魔を退散させるために大地の精霊を呼び出し味方にしている姿だ。

釈迦如来の手の形で他に一般的なものでは、右の肘をあげて広げた手のひらを前に向け(「施無畏印」、恐れなくていいという仕草)、左は坐像なら肘を直角に曲げて軽く膝に乗せて前に出した左手を上向きにしているか、立ち姿では時に体の脇に下げて手のひらを前向きにしている。

画像: 如来立像 飛鳥時代7世紀 奈良国立博物館 この右手が「施無畏印」。飛鳥時代には多くの金銅仏が作られたが平安初期以降は木像が主流になる

如来立像 飛鳥時代7世紀 奈良国立博物館
この右手が「施無畏印」。飛鳥時代には多くの金銅仏が作られたが平安初期以降は木像が主流になる

同じポーズで、上向きの左手に薬壷を乗せていたら、病気が治ったり、政治が安定するなどの現生利益で広く信仰された薬師如来だ。元々は、人々を悟りに導くにはまずその苦しみを取り除いて心安らかにする必要があるという思想の顕れの、いわば癒しの仏だ。

全体をほぼ一本の材木から彫り出した仏像でも、手は別の材木で彫ってはめ込んでいる場合が多い。

だからその手が外れて欠損してしまうこともありがちで、するとなんの仏なのか分からなくなってしまう。逆に手を別の印相に付け替えるだけで当初作られたのとは別の仏として祀ることもできる。また元は薬師如来として作られた像でも、左手の薬壷を取り除くか、あるいは元からなかったので釈迦如来として信仰されている場合もあって、たとえば奈良県・室生寺の金堂の中尊がそうだ。

現在は展示されていないが、奈良国立博物館には国宝の、カヤの一木造りの平安時代9世紀の非常に迫力がある薬師如来坐像が所蔵されている。この薬師如来も左手の薬壺はない。

「南無阿弥陀仏」の世界の多種多様

画像: 平安時代の阿弥陀如来坐像三体。中央が定印を結んだ阿弥陀如来坐像(奈良国立博物館蔵)。右は宝冠をかぶっているのが如来としては異例ながら(通常は菩薩の表現)阿弥陀如来の定印を結んでいることから宝冠阿弥陀如来坐像だと分かる(平安時代10〜11世紀 京都府・安楽寿院蔵・奈良国立博物館寄託 重要文化財)。左は来迎印を結ぶ阿弥陀如来坐像(平安時代12世紀 大阪府・金剛寺蔵・奈良国立博物館寄託)

平安時代の阿弥陀如来坐像三体。中央が定印を結んだ阿弥陀如来坐像(奈良国立博物館蔵)。右は宝冠をかぶっているのが如来としては異例ながら(通常は菩薩の表現)阿弥陀如来の定印を結んでいることから宝冠阿弥陀如来坐像だと分かる(平安時代10〜11世紀 京都府・安楽寿院蔵・奈良国立博物館寄託 重要文化財)。左は来迎印を結ぶ阿弥陀如来坐像(平安時代12世紀 大阪府・金剛寺蔵・奈良国立博物館寄託)

阿弥陀如来が右手、左手それぞれで親指と人差し指、ないし中指、薬指で輪を作る「来迎印」は死にゆく人を極楽浄土に連れて行くために迎えに来た姿で、親指の先と合わせて輪を作る指によってその救済のレベルを表している。

浄土信仰によれば阿弥陀如来の浄土に生まれ変わる救済は、すがってその名を唱えさえすれば誰にでも約束されているが、生前の行いに応じて「上品」「中品」「下品」の三つの等級に分かれ、それぞれがさらに「上生」「中生」「下生」に分類され、つまり全部で9つのレベルがある。

仏像ではこれを右手、左手双方でそれぞれ三種類の指の形で表し、3の2乗で9つの救済のレベルが表現できるようになっているのだ。

画像: 快慶 阿弥陀如来立像 鎌倉時代 建仁元(1201)年 兵庫県・浄土寺蔵 (奈良国立博物館寄託)重要文化財

快慶 阿弥陀如来立像 鎌倉時代 建仁元(1201)年 兵庫県・浄土寺蔵 (奈良国立博物館寄託)重要文化財

右が人差し指と親指、左も人指し指と親指なら最上級の「上品上生」で、亡くなるとすぐに極楽浄土に生まれ変われるが、レベルが下になればなるほど、浄土に生まれ変わるまでに長い期間、修行しなければならない。

この大きな、金色の阿弥陀如来立像は、鎌倉時代の天才・快慶の傑作だ。

先ほどの写真と同じ阿弥陀如来立像で、手に結んだ印も同じ「上品上生」だが、100年ほど後に作られたものだ。歴史的にいえばこの間に、院政末期の混乱と源平合戦が起こり、全国で政治が混乱して戦乱が続き、やっと源氏の武家政権が成立し、しかしそう簡単に平和の回復とはなっていなかったのが、快慶の生きた時代だった。

画像: 快慶 阿弥陀如来立像 鎌倉時代 建仁元(1201)年 兵庫県・浄土寺蔵 (奈良国立博物館寄託) 全体をパーツ分けして別の部材で彫って組み合わせた寄木造りで、全身に漆を塗って金箔を施した漆箔がよく残っているのも素晴らしい

快慶 阿弥陀如来立像 鎌倉時代 建仁元(1201)年 兵庫県・浄土寺蔵 (奈良国立博物館寄託) 全体をパーツ分けして別の部材で彫って組み合わせた寄木造りで、全身に漆を塗って金箔を施した漆箔がよく残っているのも素晴らしい

一目見るだけでも、スタイルがまったく異なっていることには誰もが気づくだろう。顔立ちはやさしい微笑みこそ浮かべているものの、頰の張りに勢いが感じられ、力強い知性がみなぎっている。胸と腹の筋肉も分厚く張りがあるのも、快慶や運慶らの「慶派」の特徴だ。

上半身はいわゆる「逆三角形」体型で、定朝様のなで肩に比べて肩がしっかりあって腕も太い。筋肉の表現は上品に抽象化はされてはいても、生々しく肉感的だ。上腕部が下に向かうのでなく緩やかにハの字型に広がっている表現にも肉体的な実存の緊張感があり、肘の曲がり方と前腕から手のひらにかけても力強い。

裸なのには、ちょっと驚かれるかも知れないが、本物の衣を着せて拝むために作られた像だ。下の写真の全裸の阿弥陀如来立像も、同じ用途で作られている。

画像: 阿弥陀如来立像(裸形) 鎌倉時代 13世紀 奈良国立博物館蔵

阿弥陀如来立像(裸形) 鎌倉時代 13世紀 奈良国立博物館蔵

同じ「如来立像」、同じ「阿弥陀如来」でも、これだけ様々なスタイルと表現がある。現代では多くの人が「仏像なんてなんとなくみんな同じに見える」と思いがちなのは、まったくの誤解でしかない。そう気づかされると、とたんにそれぞれの仏像の個性が見えて来て、美術品として鑑賞するのでも、がぜん面白くなる

画像: 大きさもほぼ同じで、結んでいる印も同じ「上品上生」の阿弥陀如来立像三体だが、それぞれに個性的。手前の二体は鎌倉時代、奥が平安時代後期の「定朝様」 手前より、鎌倉時代13世紀 個人蔵、中央は鎌倉時代 健保5(1217)年 個人蔵、奥が館蔵品で平安時代12世紀 特に手前の像は全身が漆箔つまり金箔を施した黄金の像ではなく、衣は細く切った金箔で華やかに装飾し、顔や胸や手、足を反射率が低く肌に近い色に見える金泥で塗り分けて、よりリアル。このサイズ(三尺前後)の阿弥陀如来は平安後期から鎌倉時代にかけて流行した。特に快慶はこれを得意とし、傑作も多い。快慶の時代にはそれだけ身近に美しい阿弥陀如来像を置いて死後の救済にすがるニーズがあったのか?

大きさもほぼ同じで、結んでいる印も同じ「上品上生」の阿弥陀如来立像三体だが、それぞれに個性的。手前の二体は鎌倉時代、奥が平安時代後期の「定朝様」
手前より、鎌倉時代13世紀 個人蔵、中央は鎌倉時代 健保5(1217)年 個人蔵、奥が館蔵品で平安時代12世紀
特に手前の像は全身が漆箔つまり金箔を施した黄金の像ではなく、衣は細く切った金箔で華やかに装飾し、顔や胸や手、足を反射率が低く肌に近い色に見える金泥で塗り分けて、よりリアル。このサイズ(三尺前後)の阿弥陀如来は平安後期から鎌倉時代にかけて流行した。特に快慶はこれを得意とし、傑作も多い。快慶の時代にはそれだけ身近に美しい阿弥陀如来像を置いて死後の救済にすがるニーズがあったのか?

だからこそ、奈良や京都の観光で寺を巡ろうと言うのなら、まず「なら仏像館」を見ておくと、一軒一軒の寺で出会う仏像も、自ずから見え方が変わってくるはずだ。

「どれも同じ」「似ている」と思ってしまいがちだったものが個々の違いに気づき、ひとつひとつの個性に意識が向くようになれば、ひとつひとつの仏像が作られた歴史やそこに込められた思いにも想像をめぐらせられるようになって、観光も御朱印集めも、いっそうおもしろくなるし、ありがたみも増すのではないか。

画像: 快慶 阿弥陀如来立像 鎌倉時代 建仁元(1201)年 兵庫県・浄土寺蔵 (奈良国立博物館寄託)重要文化財 奈良国立博物館には京都・正寿院に伝わって来た快慶作の不動明王坐像の傑作(重要文化財)も寄託され「なら仏像館」で展示される機会もある

快慶 阿弥陀如来立像 鎌倉時代 建仁元(1201)年 兵庫県・浄土寺蔵 (奈良国立博物館寄託)重要文化財
奈良国立博物館には京都・正寿院に伝わって来た快慶作の不動明王坐像の傑作(重要文化財)も寄託され「なら仏像館」で展示される機会もある

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