多面多臂に憤怒相、「異形」の神仏も美しく
平安時代に空海が密教を持ち込むと、密教がもともとインド神話の神々を取り込んだ複雑な世界観を持つことから、腕や顔が複数ある多面多臂だったり、激怒した顔(憤怒相)の明王など、「異様」に思えたり、「怖い」と感じそうな姿形の神仏がとくに増える。
もっともそれ以前の奈良時代から、四天王のような現代人には威圧的で恐ろしげに見える仏像は作られて来た。
仏教は古代の日本に、なにも個々人の救済や道徳的規範として導入されわけではない。飛鳥時代・奈良時代の仏教に求められた最大の役割は「鎮護国家」で、そこに込められた祈りとは、災害や病気・疫病、戦争や内乱・内紛を防ぐことだった。
近現代のような科学が確立する以前には、統治者・権力層にとっても、そこに従う民衆にとっても、これはひたすら切実な願いだったに違いない(一方で空海は密教と同時に最先端の土木技術や医学知識なども日本に持ち帰っているし、奈良時代の鑑真も先端医療技術をもたらしている)。
「魔を祓う」的な意味も含めて悪霊などに負けないような、怖く見えるほどに迫力のある仏像が必要とされたのだろう。当時は病気や災害、厄災の多く、政治的な裏切りや内乱でさえ、悪霊や恨みを持って死んだ者の怨霊が原因だと思われていたのだ。
仏教で「聖徳太子」として信仰された厩戸王は、「日本書紀」によれば物部守屋との戦いの前に四天王に戦勝を祈願したとされる。めでたく戦いに勝ったお礼として寄進・創建したのが大阪の四天王寺だ。そんな祈りを託する仏像だから、ただやさしげで救いを感じさせるものだけでは済まなかったのだろう。だいたい四天王寺は一説には物部氏の館跡で、ここに寺を建立したのは怨霊を封じる意味があったとも言われるし、現に四天王寺には今も物部守屋の祠がある。
むしろ現代人が「怖い」と感じるかも知れない憤怒相は、特に古代の人たちにとっては力強く頼り甲斐を感じさせるものだったのではないか?
真言宗で観音菩薩の変化と見なされる准胝観音や如意輪観音の像は、複数の腕をいかに自然に表現しているのかも見所の一つだ。
片膝を立てて座り、その膝に肘を載せて顔に手を添える姿が通例の如意輪観音は、片側三本ずつの腕を自然に処理できればとても優美で官能的にもなり、彫刻としてとても美しい作品が多い。本来なら腕三本なんていう、まったく無理のある形にも関わらず、である。
仏教の振興に大きな役割を果たしたと考えられる厩戸王が没後に「聖徳太子」として日本の仏教で幅広く信仰対象になると、この如意輪観音(平安時代の密教の導入以前は救世観音)の生まれ変わり、ないし日本向けに姿を変えて顕れた姿だった、と信じられて来た。
こうした関係を「本地仏」という。
聖徳太子として信仰対象になった厩戸王なら「本地如意輪観音」、浄土宗の開祖・法然は勢至菩薩の生まれ変わりと信仰されて来た。日本の土着信仰のカミガミや、人間が神格化されたカミ様も、仏が日本と日本人のために姿を変えて現れたもの(「権現」)という信仰が江戸時代までは一般的で、ほとんどのカミにはその元の仏の姿である「本地仏」が決まっていた。たとえば天皇家の祖先神とされる天照大神は古代神話では太陽神であるせいか、本地仏は大日如来だ。
奈良の春日大社なら四棟ある本殿の神々はそれぞれ本地が不空羂索観音ないし釈迦如来・薬師如来・地蔵菩薩・千手観音菩薩ないし吉祥天で、春日若宮は文殊菩薩が本地仏だ。「なら仏像館」で見られる善円の十一面観音立像(写真は5ページ)と、同じく善円の東京国立博物館にある文殊菩薩(2月26日から展示)とニューヨークのアジアンソサエイティが所蔵する地蔵菩薩それぞれの立像は、春日大社の第四殿、若宮、第三殿のカミガミの本地仏として作られた像が流出したものらしい。
春日大社と隣接していてしばしば一体化していた興福寺を初め、奈良県(大和地方)にはこの5尊の仏イコール春日明神という信仰を反映したと考えられる仏教寺院も少なくない。先ほど例にあげた、もともと薬師如来だった像が釈迦如来として祀られている室生寺の金堂に、五体の仏像が安置されて来たのも、この春日信仰と関係するという説もある。