すでに悟っている「如来」は簡素な服装、華やかできらびやかな「菩薩」
如来像は悟りを開いたブッダを表す。つまり煩悩(人間の欲望や執着)を超越しているため、服装は簡素な衣になる。ただし例外もあって、まず阿弥陀如来が頭に宝冠を被り着飾って表現される場合があって、これは手の印から阿弥陀仏と判り、宝冠阿弥陀如来と呼ばれる。
また鎌倉の禅宗寺院などに宝冠釈迦如来が伝わっていて(例えば円覚寺の本尊)、こうした像は元来は盧舎那仏、またの名を大日如来として作られたのではないか、という説がある。盧舎那仏というのは宇宙の真理そのものとしての仏で、奈良・東大寺の大仏がこの盧舎那仏だ。
平安時代に空海が日本に持ち込んだ密教では、大日如来と呼ばれる。
密教の世界観ではあらゆる神仏と世界の全てが究極には大日如来の変化・変容した姿と考えられ、大日如来は宇宙そのものであると同時にその真理の顕れでもあり、世界はその大日如来の慈悲に満ちているとも考える。そうした密教の世界観を図解した曼荼羅で中心に描かれるのも大日如来で、髪を結い上げ宝冠をかぶり、きらびやかな宝飾品と青・赤・白などのカラフルな衣をまとった姿で表現されている。
だが通常は、宝冠や装飾品を身につけた華やかな仏像は「菩薩」だ。
如来になる前段階、いずれ悟りを開くまで修行中の姿というのが本来の教義で、まだ煩悩を超越しきってはいないので、華やかないでたちでもいいことになっている。日本で特に人気があって作例も多いのが、死後の救済を司る地蔵菩薩と、観音菩薩だ。
菩薩は悟りに達して如来になるための修行のひとつが「利他業」、この世の生きる者すべて(仏教は転生輪廻思想なのであらゆる生命が本質的に等価、「衆生」という)の救済のために尽くすこと。つまり平たく言えば、我々凡人からすれば困った時や悩んだ時にいろいろ手を差し伸べて救ってくれるのが菩薩、ということになる。
特に観音菩薩は正式には「観世音」、世の中の全ての音を「観」て、人々の苦しみや悲しみを聞きつけて、助けるためにありとあらゆる手段を尽くす仏なので、とりわけ人気の信仰対象になったのだろう。
現代人なら「迷信」と片付けたくなるかも知れないが、近代科学の因果関係の合理的な解明がまだなかった過去には、自然現象や病気などだけを考えても、苦しみからの救済は切実な願いだったはずだ。これは日本に限ったことではなく、たとえばチベット密教で最高位の活仏ダライ・ラマは、今の14世で観音菩薩の32回めの転生として、今も尊敬されているだけでなく、信仰も集めている。
観音菩薩は中性的で優雅な姿で表現されることが多く、彫刻として見応えがあって美しいのも、人気の理由かも知れない。本来の基本的な形は、頭に宝冠を頂いた「聖観音」だ。日本には平安時代に導入された密教の影響で、これを含めて主に6通り(十一面、千手、如意輪、准胝、馬頭)の姿を持つとする信仰が広まり、また「観音経」によれば全部で33通りに姿を変えるともいう(三十三応現身)。
日本では特に、あらゆる方向を見るために頭の上に全方向に向けた小さな顔が並ぶ十一面観音と、さらに徹底してなんでも救うと言わんばかりに、救いの手を千本備えた千手観音が多い。千手観音は彫刻では通常、一本の腕が25本を表すとみなして40本プラス合掌する通常の手2本が一般的だ。40の手にはそれぞれに救済のための道具を持ち(ただし長い歳月の間に道具はなくなってしまっている場合が多い)、さらにひとつひとつの手のひらに、世界中の全ての苦しみを見るための目がある。
千手観音はこれだけ膨大な数の手を背負ったかっこうになるので、どうしても造形的に制約があり、左右対称のスタティックな形になりがちだ。
聖観音や十一面観音は普通に腕が2本なので左右対称のポーズに固定される必然がなく、造形的な自由度の幅があり、より自然で優雅な体の動きが表現できる。それでも日本に仏教が入ったばかりの飛鳥時代には、法隆寺の有名な百済観音や救世観音のように左右対称で直立した、真正面から見ることを前提にしたと思われるポーズだが、奈良時代を経てとくに平安時代以降は、片脚に重心を乗せて動きを感じさせる作例が多い。
鎌倉時代、運慶や快慶よりひと世代下の仏師で「善派」の祖となった善円の、この十一面観音は、特にこの片脚に重心を乗せた立ち方の表現が実に自然で、なんとも愛らしい。
古代ギリシャのヘレニズム期や古代ローマで成立し、ルネサンス彫刻にも踏襲された「コントラポスト」(たとえばミケランジェロの「ダビデ」)に通じる表現でもある。もっとも、古代地中海世界の表現がシルクロードを通って伝来したのか、たまたま偶然に洋の東西で同じような発想に至ったのかは、よく分からない。
それに日本の古代の仏像や、そこに大きな影響を与えた(というかまず忠実に模倣した)中国北部や朝鮮半島の古代の仏像にはこうした表現はあまり見られない。飛鳥仏と同様にむしろ正面から見られることを前提に、左右対象が基本で、立像ならば左右の足がきっちり横並びの、直立した表現が多かった(というか逆に法隆寺の仏像であるとかは、そもそもそうした中国や朝鮮半島から直接影響されて模倣したものだったわけだが)。
平安時代以降のコントラポストの観音像が作例によって重心のずらし方が極端だったり、穏やかで静的だったりもするのは、それぞれの時代の流行や仏師、施主の意向などにも寄るのだろうか?あるいは日本の仏像は平安初期には木像が主流になり、一本の木から仏像全体の主要部分を彫り出す一木造りが流行したので、材木そのもののねじれがこうした動きのある表現を誘発したりすることも、あったのだろうか?
救おうとする相手に向かって踏み出すような動きにも見えなくもなく、ちなみに鎌倉時代の阿弥陀如来立像には文字通り片脚を踏み出している像が少なくない。
平安初期までは一木造りが多かった日本の仏像だが、平安時代の中期頃からまず腕を別材で作るなどするようになり、木の仏像をパーツ分けして部分部分を精緻かつ自由に造形できる寄木造りが広まると、より曲線的で自然な人体の動きを思わせる菩薩像が増えて来る。