本阿弥光悦の名に最初に遭遇したのは、小学校高学年で読んだ吉川英治の「宮本武蔵」だった。京都の吉岡一門との決闘に備える武蔵が祇園の吉野大夫に匿われた際に、光悦に紹介される。子供にはなんのことか今ひとつよく分からなかったが、剣豪の殺気を察しつつ意気投合する当代きっての文化人が、武人の武蔵に劣らぬ鋭い目と、研ぎ澄まされた刃のような感性を持つ人物として描写されていた。

画像: 重要文化財 黒楽茶碗 銘 時雨 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 愛知・名古屋市博物館蔵 [主催者提供写真]

重要文化財 黒楽茶碗 銘 時雨 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 愛知・名古屋市博物館蔵 [主催者提供写真]

まったくの誤解かもしれないこんな光悦のイメージ(なお吉川英治の歴史小説の中でもこの一作は史料が少ないこともあってほとんど創作で、本阿弥光悦との親交自体が史実ではない)に囚われた筆者にとっても、とても納得がいくのが光悦の作った黒楽茶碗、たとえばこの銘「時雨」だ。

鋭利な造形は武人・剣豪と意気投合する人物に相応しく、この茶碗で茶を喫するのには真剣勝負に向かうような覚悟すら要するのではないか。「土の塊としての茶碗」の意識を徹底させる楽茶碗の厳格さを踏襲しながら、鋭い刃物、研ぎ澄まされた日本刀のようなオブジェでもある。

樂家の初代・長次郎が千利休とともに完成させた楽茶碗の精神には忠実に、究極にシンプルでありつつ、存在そのものが華やかさを発散している。

二度目に光悦の名を見たのがほぼ同じ頃、日本史の教科書に載っていた国宝・舟橋蒔絵硯箱だった。

国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

ぶっきらぼうなまでにミニマルな極みの黒楽茶碗と、燦然たる金蒔絵。だが上辺はまったく対照的なようでいて、この二つの光悦作品を並べると誰が見ても同一人物の感性が産んだものだと気づく。

「時雨」の鋭利さを生み出しているのが大胆に、バサっと刃物で断ち切った様な口縁部の直線性だとしたら、舟橋蒔絵硯箱の尋常になく丸く盛り上がった金の表面を大胆に斜めに横切る黒く太い金属帯は、間違いなく共通する斬新な美意識がそこにある。

画像2: 国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

金蒔絵の箱なのだからこの金属の帯もやはり貴金属の銀で、経年に伴う酸化作用で黒くなっているのかと思えばそうではない。

なんと、ただの鉛だ。

画像3: 国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

黒々とした鉛のぶっきらぼうな金属感と、大胆に断ち切られた縁の荒々しさは、「黒楽茶碗 銘 時雨」の美学に通じ、金属や物質はその社会的な貴賤の意味づけを超越して、土の楽茶碗があたかも刀の鋼鉄のような存在感を放っているように、鉛と金はそれぞれに物質そのものの特性が美へと昇華される。

画像4: 国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

貴金属の金を地、いわばただの背景にして、ただの鉛を主役として際立たせる発想はあまりに大胆で、華麗な金蒔絵の硯箱でもこの直前・桃山時代の、成金趣味と言われそうな贅沢さを見せつける意識は、完全に払拭される。

そんな地の部分、背景に見えていた金地は、写真では見づらいというか教科書の図版程度ではほとんど再現されないが、緻密な装飾紋様で埋め尽くされている。

波と、三艘ほどの小舟だ。

画像5: 国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

上蓋の全面には、平安時代にまで遡る「葦手」の、文字を絵に織り込む手法で、

  「東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思いわたるを 知る人ぞなき」
                  (源等、「後撰和歌集」)

という和歌の語句が、上の句を鉛の帯の上に、下の句のうち「思いわたるを知る人ぞ」がその黒い帯の上の金地に、末尾の「なき」が下に書かれている。

ところがつなげて読もうとすると、上の句のうち「舟橋」の二字がない。

「舟橋」とは現在ではほとんど見かけないが、江戸時代まではよくあった即席の橋で、川を横切るように舟を並べてその上に板を敷く浮き橋のことだ。水中に頑丈な橋脚を立ててその上に橋桁を並べて板を敷く橋よりも遥かに手っ取り早い。この硯箱のモチーフ自体がつまりは舟橋で、無骨でありながら紛れもない鋭利な洗練を見せる鉛の帯は、並べた舟の上に渡された橋の板を表していたのだ。

上蓋自体が舟橋なのだから書くことはない、絵を読め、という遊び心に溢れた趣向なわけだ。

画像6: 国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

国宝 舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

刀研ぎと刀剣鑑定の最高権威一族から出現した天才

画像: 重要美術品 短刀 銘 兼氏 金象嵌 花形見 志津兼氏 鎌倉〜南北朝時代・14世紀 町人階級であっても武士に準ずる家格だった光悦が所持していた指料と伝わる短刀

重要美術品 短刀 銘 兼氏 金象嵌 花形見 志津兼氏 鎌倉〜南北朝時代・14世紀
町人階級であっても武士に準ずる家格だった光悦が所持していた指料と伝わる短刀

もっとも、本阿弥光悦の美意識に武人のようなシャープさ、殺気にさえ通じる研ぎ澄まされたなにかを感じるのは、小説「宮本武蔵」に触発された妄想だけでもないだろう。俵屋宗達との書と絵の共作が琳派の誕生を導くなど、江戸時代に華開く町人文化の祖のような光悦は確かに町人だったが、武家と深い関わりを持ち、武家の文化の中でも中核の、肝心要の要素のもっとも重要な担い手でもあった。

画像: 桜山吹図屛風 色紙: 本阿弥光悦 屛風: 俵屋宗達 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

桜山吹図屛風 色紙: 本阿弥光悦 屛風: 俵屋宗達 江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵

というのも本阿弥家の家業、光悦のいわば「本業」は、刀剣研磨の研師にしてもっとも権威ある鑑定人の一族だった。町人であっても家格は武家に準じ、武家のような二本差しではなくとも帯刀も許されていた。そんな光悦が自ら所持した差料と伝わる短刀 銘「花形見」がその洗練されたシャープさを、本展の最初の展示室の中央からから発散している。

戦国時代には武器の需要の高まりから大量の刀が作られたはずだが、武将・大名たちはそんな新造の刀との差異化を図るためか、平安時代や鎌倉時代にまで遡る古い刀をステータスシンボルとして所持することを好み、贈答品としても活用した。

画像: 国宝 刀 無銘 正宗(名物 観世正宗) 相州正宗 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵

国宝 刀 無銘 正宗(名物 観世正宗) 相州正宗 鎌倉時代・14世紀 東京国立博物館蔵

だが刀剣はあくまで実用の武器でもあり、古く由緒正しい名刀の刀身でも、戦闘形態の変化に応じて長さを縮めたりする必要があった。鎌倉時代の太刀は騎馬の一騎打ちで使われるため長く重かったのが、戦国時代に必要だったのは白兵戦を前提にしたより短く軽量化した刀で、持ち方も刃を下にして吊るす太刀の拵えではなく、刀を鞘から抜く動作のまま敵に振り下ろせるように、刃を上、峯を下にして腰に差す「打刀」が一般化する。

写真の正宗の名刀「無銘 正宗(名物 観世正宗)」には、茎(なかご)に柄(つか)を装着する際に固定する目釘の穴が二つある。茎を切って刀身だった部分を茎にして、長さを変えたためなのだが、この茎に作者の名前などの銘があってもこうした改造の際に削られてなくなってしまうので、誰が作った刀なのかが分からなくなってしまう。

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