この写真の、また別の正宗の名刀も、おそらく太刀だったものを短くして打刀に改造したもので、その過程で茎に彫られていた銘がなくなってしまった代わりに、金の象嵌で新たな銘が付けられていて、鑑定したのが本阿弥家の当主であることの証明に「本阿」の2文字と花押(サイン)も象嵌されている。
由緒ある古刀が高価な贈答品にもなれば、当然のことながら偽物が作られたり作者や由緒を偽って値を釣り上げることも横行するだろう。そこで重要になるのが、刀身の形や表面の質感、刃文のパターンなどから作者を見極める鑑定や、古今の刀鍛冶やその流派の特徴を整理して優劣を格付けることで、安土桃山時代から江戸時代にかけてその最高権威を担ったのが本阿弥家だった。
武人が着飾り、武器にも実用性と同時に美意識も探求するのは洋の東西や文化圏を超えた、日本に限ったことではない事象だが、普段は鞘に収まって目に触れることがない刀身の美を追及したのは日本の武士に独特の文化だろう。
武器がここまでの深い哲学性すら帯びた芸術として受け入れられた文化圏は他にはちょっと稀だろうし、そんな文化の深化に最も寄与したのが、本阿弥家だったと言える。
元々は実用性の観点から切れ味と折れない強靭さの双方の、金属器としては本来相矛盾する機能を最大限追求した(切れ味を追及すれば硬度を増すことになるが、そうすると柔軟性がなく強い衝撃で折れてしまう)のであろう刀作りが、あまりに緻密で洗練された工程を経るようになった結果、鉄の質感の醸し出す人為と自然科学現象の偶然性がせめぎ合う美への意識が極端なまでに発達したのが、日本刀の芸術だ。
刃の部分に肝心の切れ味を確保するための硬さの一方で、折れないための強度と弾性を高めるように、何度も何度も鉄を折り重ねては叩いて伸ばしてまた折り曲げて重ねる工程を繰り返す。そのため磨き上げると無数の鉄の層の重なりが、表面に微細で複雑な質感となって浮かび上がる。
刃には、鍛造の最終段階で切れ味を高めるために焼きを入れる際に泥を塗って(土置き)、熱伝導を調整するのだが、その塗り方によって様々な刃文を焼き込むことができるのも、日本刀の重要な見どころであり、もっとも目につく個性だろう。
そうした鉄の質感そのものに織りこまれた美しさや個性、刀工の作為と鉄の自然現象のせめぎ合いから産まれる微細な紋様や輝きの変化を最大限に引き出すのが研師の仕事で、そこから真贋を判定したり美に叙階を設ける鑑定の権威として、天下人となるような武家の権力者たちに重用されたのが本阿弥家だった。
今回出品されている中でも屈指の傑作である、国宝に指定されている長船長重の「短刀 銘 備州長船住長重 甲戌」(「甲戌」という干支は刀が打たれた年を表す)は、恩賞の領土の代わりとして刀剣を与えることを政治的手段として巧みに活用した豊臣秀吉にとって欠かせない存在になった本阿弥光徳が、その秀吉から贈られた。光徳は光悦の叔父にあたる。
太刀や打刀のような長い刀の反りは、刃と峯で鉄を冷やした際の収縮率を変えて、峯の側に引っ張られて刃が曲線になるのだが、これは刀を振り下ろす動きがそのまま手前に引く運動に変換されることでよく切れることを狙った工夫であると同時に、どのような美しい曲線を描くのかは鉄の特性を熟知した刀鍛冶の計算と、鉄を一瞬に冷やした際の偶然性の微妙なせめぎ合いによって決まる。
この上品な、緩やかな反りの曲線を描く刀を作った郷義弘(江義弘)は、本阿弥家が評価したこで格が高まった刀工だ。目釘の穴が三つ開いていて、そもそも磨上で刀身の長さを変えていることから、様々に刀装を変えて使い続けられて来たことが分かる。
金象嵌で刻まれた銘の署名と花押は本阿弥光徳のものだが、「江磨上」という銘文は、書家としても名高い光悦の筆と伝わる。
またここで写真は紹介できないが、本展には徳川家康から尾張徳川家に伝わった名品中の名品の、「短刀 銘 吉光(名物 後藤藤四郎)」も出品されている(愛知・徳川美術館蔵)。やはり家康が所持していた東京国立博物館所蔵の短刀、「名物 厚藤四郎」と並び立つ、短刀の名手・粟田口吉光(鎌倉時代13世紀の京都・粟田口で活躍した刀工。通名が藤四郎)の最高峰にして、鍛え抜かれた鉄のオブジェとしての日本刀の美が凝縮された逸品だ。
まあ刀の、多様で複雑な鉄の質感の魅力というのは本物を、刀身を動かすかこちらが動いて視る角度を変えることで光の反射に浮かび上がる移ろいを肉眼で見ないと、本来わからないものだ。写真ではしょうがないので、ぜひ会場で現物をじっくりと、上から、下から、斜めから、視点を動かし光の反射の移ろいに注視して、ご覧ください。
こうした刀の、鉄の質感が生み出す個性をくまなく観察し、研師として全身の力を込めてその物質的な存在に内在する美を引き出し、その一本一本の刀を使い手の武士たち以上に密接に知り尽くし、間近に見て学び続けたことで鍛えられた観察眼と感受性が、本阿弥光悦という稀代の美術家にして美術プロデューサーを生み出した根底にあったのは間違いないだろう。
またこの展覧会は冒頭で刀剣をまず見せることで、素材の質感や微妙な反射、陰影、曲線の美などのデリケートなディテールに至るまで敏感になるように、我々の美意識を準備してもいる。
つまり、刀剣とは刀工の作為の塊であると同時に、鉄という素材そのものの最も純粋な姿が物理化学反応によって具現化したものでもある。
その作為はあくまで鉄という素材と高熱のせめぎ合いの偶然性を見極めることで、金属を美しきオブジェに変換するための複雑な作業の手順ひとつひとつに他ならず、刀は武器という実用品、はっきり言えば殺人の道具であると同時に、その意味性を超越した純然たる美しきフォルムと鉄そのものの質感を堪能するオブジェでもある。
光悦が生きたのがまた、刀剣が武器を超えた意味性を変遷させて行った決定的に特殊な時代だ。戦闘の主力が刀や槍、弓矢から鉄砲に急激に移行した安土桃山時代に、実戦での役割が減じた刀剣とその周辺文物の美術的な権威権力の象徴としての価値は逆に高まったのだ。
続けて泰平の江戸時代の訪れとともに、刀剣そのものが実用で武器として使われることはほとんどなくなる。
たとえば刀装(拵え)も、戦国時代の実用本意に留まる必要も、もはやなくなった。