間違いなく、日本人の精神史に最大の影響を与えた人物だろう。「聖徳」と言う最高クラスの諡号*というか、「聖」と「徳」という文字通り最高の文字の組み合わせは、歴代天皇さえ誰もここまでの名をおくられてはいない。むしろ「どの天皇よりも天皇らしい」「もっとも天皇らしい」とすら言えそうだが、それを言うなら用明天皇の第二皇子は、歴代のどの天皇よりも有名で、親しまれ、もっとも敬愛を集めて来た。
*東アジアで君主や高僧などに死後に敬意をこめてつけられる名、おくり名
「和を以って貴しとなす」というその言葉は、以降の日本人の価値観・道徳観の基礎となり、その国民性を決定づけた重要性は他の多くの国の場合なら「建国の英雄」神話にあたるどころか、それ以上かも知れない。日本史を通じて天皇制が信頼と支持を得て来たことには、聖徳太子の存在が間違いなく大きく関わっているし、また後の歴代天皇にとって重要な道徳的指標、理想とすべき君主の在り方を示し続けても来た。
もっとも、本サイトの読者の皆さんであれば、「実在しなかった」「『日本書紀』の創作」などと小耳に挟んだこともあるかも知れない。どうも最近は聖徳太子となるとこの「非実在説」が避けて通れない話題になるようなのでちょっとだけ触れておくと、学説として「非実在説」「虚構」という触れ込みは、どう考えても誤解を招く極論だ。
大山誠一・中部大学名誉教授の「非実在」説は「日本書紀」に記述がある太子の政治的業績について「創作では?」と疑念を提起するもので、「古事記」にも「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ)」と名前は記されている用明天皇の第二皇子・厩戸王*が実在の人物であることは否定していない。
*昨今の歴史学や教科書では、歴史上の人物としては「厩戸王」を用いるのが一般的。「日本書紀」での和風の諡号は「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」でこの呼称は「古事記」とこの和風諡号に基づき、「実在・非実在」説や漢風諡号の「聖徳太子」が後代に付けられた等とは特段関係なく、「皇太子」制度が確立していなかった古代の他の天皇家の子女の一般的な表記(太子の長男・山背王や弟の殖栗王、のちに天智天皇となる中大兄王、長屋王、「万葉集」の歌人・額田王などなど)との統一性を優先したもの。なお天皇(大王)については、奈良時代以降に成立した呼び名であっても漢風諡号を使うのが通例。太子の「諱(本名)」や生前にどう呼ばれていたかは必ずしもはっきりしておらず、後の時代の受容も含めて仏教で信仰の対象となった太子についての宗教史、美術史、文化史の文脈では「聖徳太子」が合理的だろう。
なのになぜ「非実在」説だなんて大袈裟に言ってしまったのだろう、というのはともかく、「古事記」における名前の冒頭の「上宮」、太子が居を構えた「斑鳩宮」も考古学調査で存在がはっきりしていて、現在の法隆寺の「夢殿」を中心とする東院伽藍がその跡地だ。
そして現在の法隆寺の元になった、太子の生前の「斑鳩寺」(若草伽藍)も発掘調査で礎石や瓦などが発見され、規模も分かっている。今の金堂や五重塔がある西院伽藍より東、つまり斑鳩宮のすぐそばにあったわけで、どう考えても無関係なはずがない。
法隆寺の本尊・釈迦三尊像は、光背の銘文によれば太子の病気平癒を祈って発願され、没後に中尊の釈迦如来が太子の等身大に作られたとある。つまり法隆寺は釈迦如来に祈ると同時に聖徳太子に礼拝する寺になっていて、太子が釈尊の再来とすらみなされていた可能性も高い。そこまでの信仰が成立するだけの天皇家の御子がいたことに、まず間違いはあるまい。
確かに「日本書紀」が律令制の成立期に、天皇中心の中央集権国家体制の正当化の裏付けとして編纂されたものでもある以上、政治的業績の記述に天武・持統両天皇の政治的意図が介在している可能性は否定はできない。中国の歴代帝国の正史に倣った公式歴史書の、とくに外交の場で使われる(よって完璧な漢文で「古事記」のように日本語の発音に漢字の読みの音をあてた上代仮名も使われていない)役割を考えれば、当時の倭国は白村江の戦いで東アジア国際社会の中での立場が危うくなり、一時は唐による武力侵攻すら危惧された。またこの敗戦で、朝鮮半島との関係や権益も失ってしまった。そんな苦境の挽回のためにも倭国を改め国号「日本」の絶対的な統治者の血統として天皇家の道徳的・文化的な権威を内外に知らしめる必要はあったろうし、そこで倫理的な理想を体現する人格者で、かつ知的にも傑出して文明の先進性を強調できる有徳の聖人君子がその祖先に必要になり、この皇子にその役割を当てはめたという大山教授の仮説にも、確かに一定の説得力はある(というか、なにしろ比較できる史料がないので論理的にはなんとでも言えてしまう)。
しかし「日本書紀」の成立は養老4年、西暦でいえば720年だ。聖徳太子の没年が推古天皇30年、西暦622年で、たった100年も経っていないのにここまで傑出した大偉人というか、知的・道徳的な超人の業績を、なんの事実のベースもないのにまるごと新たに創作したところで、内外に説得力を持っただろうか?
推古天皇の朝廷の決定事項で、当時の最有力豪族・蘇我馬子の政策だったものが「日本書紀」では太子の業績となっているようなことなら、だいたい乙巳の変*で中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を滅ぼしたと言っても、仏教や儒教を重んじ大陸に倣って近代化を進める政策が基本的に変わっていなかった以上、馬子の業績を太子に付け替えたりするのは大いにあり得たとは思う。
*以前の学校教育では中大兄王と中臣(藤原)鎌足の蘇我入鹿暗殺のクーデターそのものを「大化の改新」と習ったが、政権奪取とその後の長年に渡った改革政策の「改新」は本来なら分けて考えるべきで、近年の学校教科書では入鹿が暗殺され父・蝦夷が自害した事件そのものは「乙巳の変」と呼ぶ。
しかし仮に「厩戸豊聡耳」と呼ばれた皇子が生前にまったく業績もなく、推古朝の政策にも無関係で、生前に広く敬意を集めたことがなかったのなら、その無名の皇子を知的・道徳的なスーパーマンの聖人君子に仕立て上げたところで誰が信じただろう? 大山教授の説は逆に、太子が本当に「非実在」でその事績がただの「創作」であったのなら、成立しないように思える。
確かに「日本書紀」以外には、釈迦三尊像の光背の銘文や、太子による経典の注釈書「三経義琉」のうち「法華義琉」が太子の直筆と伝わっていること*、今回は数々の断片が展示されている「天寿国繍帳」(国宝)**などを除けば、太子についての直接の記録は極めて限られている。
*明治時代に法隆寺から天皇家に献納され、「御物」となっている。今回の展覧会後期に展示予定・5月25日から
**「天寿国繍張」のうち最もまとまって現存している部分は中宮寺に伝来し、東京国立博物館での展覧会に出品される。この部分と断片のいくつかが国宝に指定されている
だが一方で、たとえば「上宮聖徳王帝説」(国宝)には、「日本書紀」には記述がないような事実関係も記されている。これを「日本書紀」をベースに創作を加えただけ、と決めつけることもできなくはないだろうが、「日本書紀」とは別系統で伝承されていた太子の生涯に関する記録や記憶が反映されている、と考えた方が自然ではないか?
確かにその裏付けとなるような、太子の生前かそれに近い時代に遡れる文献・文字記録はない。だが飛鳥時代に文字記録がどこまで普及していたのかの問題もあるし、当時は紙も貴重品だった。口承でのみ伝えられたことは多かったはずだし、現に「日本書紀」も、その前の「古事記」の編纂は口承で伝えられて来たことをまとめたものだろう。