聖徳太子の1400年の歴史と、飛鳥時代の金堂・五重塔。時間と空間の二部構成

今回の奈良国立博物館の展覧会は、博物館新館の西と東の棟を利用して、二つのパートに大きく分かれている。西側の棟から始まる最初の展示スペースには「唐本御影」と呼ばれる御物の聖徳太子像と、その左右に法隆寺には太子遺愛の品として伝わって来た文房具や香炉が置かれ、太子の時代に遡る金銅の仏像なども並ぶ 。

画像: 御物 聖徳太子二王子像 「唐本御影」 奈良時代 8世紀 法隆寺献納・宮内庁 向かって左に太子の弟の殖栗王、右に息子の山背王を描く。「唐本」と呼ばれるのは中国から渡来した画工によって描かれたと伝わるため。長らく法隆寺の東院に伝来し、明治時代に皇室に献上された。「御物」とは皇室・天皇家の所有物・財産のこと。

御物 聖徳太子二王子像 「唐本御影」 奈良時代 8世紀 法隆寺献納・宮内庁
向かって左に太子の弟の殖栗王、右に息子の山背王を描く。「唐本」と呼ばれるのは中国から渡来した画工によって描かれたと伝わるため。長らく法隆寺の東院に伝来し、明治時代に皇室に献上された。「御物」とは皇室・天皇家の所有物・財産のこと。

「唐本御影」は現存する最古の聖徳太子の肖像とみられる。法隆寺の夢殿を中心とする東院伽藍に伝来し、明治時代に皇室に献納された以降は天皇の「御物」として大切にされて来たものだ。我々におそらく最も馴染みがある聖徳太子の顔の、かつての一万円札などの紙幣のモデルでもある。

ここから始まる前半の展示は、西側の棟に平行で並ぶ南北二つの縦長のギャラリーを活かした直線状の順路に沿って、まず聖徳太子の人となりと、その生涯をめぐる伝承が歴史の中でどう受け止められて来たのかを追っていく(第1章から第4章)。

画像: 聖僧坐像(伝 観勒僧正) 平安時代10世紀 奈良・法隆寺(西院・経蔵安置) 重要文化財 観勒は7世紀の百済の僧で推古天皇10(602)年に来日、仏教だけでなく天文学や暦の作り方も伝えたという。聖徳太子の仏教の師として信仰されている

聖僧坐像(伝 観勒僧正) 平安時代10世紀 奈良・法隆寺(西院・経蔵安置) 重要文化財
観勒は7世紀の百済の僧で推古天皇10(602)年に来日、仏教だけでなく天文学や暦の作り方も伝えたという。聖徳太子の仏教の師として信仰されている

画像: 太子の生涯を描く「聖徳太子絵伝」東京国立博物館(法隆寺献納宝物)国宝

太子の生涯を描く「聖徳太子絵伝」東京国立博物館(法隆寺献納宝物)国宝

言うなれば「第一部・聖徳太子」と言ってもいいのかも知れず、歴史を時系列順に追う時間の旅でもある。

画像: 国宝「夢違観音」は永らく「聖徳太子絵伝」が飾られた東院・絵殿の本尊像だった。元の「絵伝」が皇室に献納されて法隆寺を離れて以来百数十年、江戸時代に模写が描かれた時に差し替えられて以来なら何百年ぶりかで再現された組み合わせ。 観音菩薩立像「夢違観音」 飛鳥時代7〜8世紀 奈良・法隆寺 国宝

国宝「夢違観音」は永らく「聖徳太子絵伝」が飾られた東院・絵殿の本尊像だった。元の「絵伝」が皇室に献納されて法隆寺を離れて以来百数十年、江戸時代に模写が描かれた時に差し替えられて以来なら何百年ぶりかで再現された組み合わせ。
観音菩薩立像「夢違観音」 飛鳥時代7〜8世紀 奈良・法隆寺 国宝

画像: 「聖霊会」で太子の魂を東院から西院に移す時に使われる「聖皇御輿」 室町時代15〜16世紀

「聖霊会」で太子の魂を東院から西院に移す時に使われる「聖皇御輿」 室町時代15〜16世紀

画像: 奈良時代の僧侶・行信は斑鳩宮の跡地を訪れてそこが荒廃しているのを嘆き、朝廷に願い出て太子を供養追善する八角円堂の夢殿を建立、太子の等身大と伝わる救世観音菩薩立像を本尊として安置した。 行信僧都坐像 奈良時代8世紀 奈良・法隆寺(東院・夢殿安置) 国宝

奈良時代の僧侶・行信は斑鳩宮の跡地を訪れてそこが荒廃しているのを嘆き、朝廷に願い出て太子を供養追善する八角円堂の夢殿を建立、太子の等身大と伝わる救世観音菩薩立像を本尊として安置した。
行信僧都坐像 奈良時代8世紀 奈良・法隆寺(東院・夢殿安置) 国宝

画像: 阿弥陀三尊像 奈良時代8世紀 奈良・法隆寺(東院・伝法堂安置)重要文化財 奈良時代の木芯乾漆像。夢殿の北に位置する伝法堂は非公開のため、この阿弥陀三尊を見られるのは大変に珍しい。

阿弥陀三尊像 奈良時代8世紀 奈良・法隆寺(東院・伝法堂安置)重要文化財
奈良時代の木芯乾漆像。夢殿の北に位置する伝法堂は非公開のため、この阿弥陀三尊を見られるのは大変に珍しい。

画像: 聖徳太子坐像の前で開会前に行われた法要。聖徳太子を称える文言は「南無観音化身上宮太子」 国宝 聖徳太子坐像 平安時代 奈良・法隆寺(聖霊院安置・年一回のみ開帳の秘仏)

聖徳太子坐像の前で開会前に行われた法要。聖徳太子を称える文言は「南無観音化身上宮太子」
国宝 聖徳太子坐像 平安時代 奈良・法隆寺(聖霊院安置・年一回のみ開帳の秘仏)

画像: 如意輪観音菩薩半跏像 平安時代11〜12世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置)重要文化財 如意輪観音は平安時代に密教・真言宗が日本に伝えた変化観音のひとつ。聖徳太子建立の四天王寺(大阪)の本尊(現存せず)を写した像で、通常は聖霊院で聖徳太子坐像の隣に安置されている。平安後期から中世にかけて、本地垂迹説にのっとり聖徳太子の本地仏を如意輪観音とする信仰が成立する。 聖霊院に聖徳太子坐像と共に安置され、同じく年に一回の「お会式」の開帳以外は見られない仏像。

如意輪観音菩薩半跏像 平安時代11〜12世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置)重要文化財
如意輪観音は平安時代に密教・真言宗が日本に伝えた変化観音のひとつ。聖徳太子建立の四天王寺(大阪)の本尊(現存せず)を写した像で、通常は聖霊院で聖徳太子坐像の隣に安置されている。平安後期から中世にかけて、本地垂迹説にのっとり聖徳太子の本地仏を如意輪観音とする信仰が成立する。
聖霊院に聖徳太子坐像と共に安置され、同じく年に一回の「お会式」の開帳以外は見られない仏像。

画像: 成人の姿の「水鏡御影」の「摂政像」や幼少の姿の「南無仏太子」、本地仏の如意輪観音としての太子など、中世の、仏としての聖徳太子の様々な姿の展示

成人の姿の「水鏡御影」の「摂政像」や幼少の姿の「南無仏太子」、本地仏の如意輪観音としての太子など、中世の、仏としての聖徳太子の様々な姿の展示

一方、東側の棟の展示室の、まとまった広い空間は、金堂壁画の写真複製などを用いた金堂の内部のイメージを再現する空間デザインで、薬師如来坐像など飛鳥時代の金堂の諸仏と、同時代の関連性がある仏像、金堂の壁画やその模写、天蓋などの装飾、そして金堂と同様に世界最古の木造建築である五重塔にまつわる展示品が並ぶ(第5章)。

画像: 如来立像 飛鳥時代7世紀 奈良・法起寺 顔などは後世に修理されているが、後頭部から胴体にかけては飛鳥時代のオリジナル。法起寺は斑鳩の、法隆寺の西北にある寺で、太子が法華経を講じた岡本宮を寺院に改めたもの。飛鳥時代後期の三重塔(国宝)がある。

如来立像 飛鳥時代7世紀 奈良・法起寺
顔などは後世に修理されているが、後頭部から胴体にかけては飛鳥時代のオリジナル。法起寺は斑鳩の、法隆寺の西北にある寺で、太子が法華経を講じた岡本宮を寺院に改めたもの。飛鳥時代後期の三重塔(国宝)がある。

画像: 観音菩薩立像(伝金堂薬師如来像脇侍・左脇侍「月光菩薩」) 飛鳥時代7世紀 かつて薬師如来坐像の両脇に置かれていた金銅の菩薩像で、鎌倉時代にはこの配置になっていたと考えられている。冠に阿弥陀如来の化仏があるので観音菩薩のはずだが、薬師如来の脇侍は月光菩薩・日光菩薩。

観音菩薩立像(伝金堂薬師如来像脇侍・左脇侍「月光菩薩」) 飛鳥時代7世紀
かつて薬師如来坐像の両脇に置かれていた金銅の菩薩像で、鎌倉時代にはこの配置になっていたと考えられている。冠に阿弥陀如来の化仏があるので観音菩薩のはずだが、薬師如来の脇侍は月光菩薩・日光菩薩。

画像: 天人(法隆寺金堂天蓋付属) 飛鳥時代7世紀 奈良・法隆寺 国宝 法隆寺金堂で仏像の上に吊り下げられた天蓋の一部

天人(法隆寺金堂天蓋付属) 飛鳥時代7世紀 奈良・法隆寺 国宝
法隆寺金堂で仏像の上に吊り下げられた天蓋の一部

画像: 法隆寺五重塔・塔本塑像群 北面・涅槃図より 羅漢坐像 奈良時代 和銅4(711)年 奈良・法隆寺 国宝 法隆寺の五重塔の初層の四面にはそれぞれに、釈尊の生涯の場面や仏教説話が塑像群で再現されている。この像はなかでも最高傑作とされる釈迦の臨終を描く涅槃で、嘆き悲しむ釈迦の弟子の1人。

法隆寺五重塔・塔本塑像群 北面・涅槃図より 羅漢坐像 奈良時代 和銅4(711)年 奈良・法隆寺 国宝
法隆寺の五重塔の初層の四面にはそれぞれに、釈尊の生涯の場面や仏教説話が塑像群で再現されている。この像はなかでも最高傑作とされる釈迦の臨終を描く涅槃で、嘆き悲しむ釈迦の弟子の1人。

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