前田弘二監督×高田亮脚本×根岸洋之プロデューサー
“シリアスな”変人たちの行方
根岸
『卒業』が1967年で、大きくはニューシネマ枠に入るのかもしれないけど、あのラストって、ダスティン・ホフマンがキャサリン・ロスを結婚式場から引き剥がして連れ帰るという設定じゃないですか。あれは“Runaway Bride”(「走る花嫁」→編注:『或る夜の出来事』(34)の結末にあった神話的イメージ)という意味では非常にスクリューボール・コメディ的でしたけど、あの映画自体にはビターな雰囲気が滲んでいる。車で教会まで駆けつけるシークエンスにサイモン&ガーファンクルの「ミセス・ロビンソン」が断続的に流れていて、二人が一緒に参列者と揉みくちゃになりながら教会を出て、走り去っていくだけでは終わらずバスに乗るんだけど、興奮した感じで後ろの席に座ったそのすぐ後に、キャサリン・ロスが「これで本当に良かったの?」って顔で一瞬ダスティン・ホフマンの方を見るんですよね。二人の未来がどうなるか分からないという不安要素を少しだけ滲ませたところで、名曲「サウンド・オブ・サイレンス」が流れてくる。
曲の構成はすごく気持ちいいんだけど、どうみてもスクリューボール・コメディ的な楽天性からは遠い。ベトナム戦争もあった時代の苦いラブコメというか、ニューシネマ的な匂いがある。スクリューボール・コメディ的なものも含めて、あそこでハリウッド・システムは一度終わった感じがする。同時に楽曲と映像のコラボ具合が後に花咲くMV的な手法を彷彿もさせて、その遠い手本になっているかのようでもある。俯瞰すると、そんな端境期の一本に見えましたね。そこからまた時代が下って、いろいろなコメディが再興していく。
前田
スクリューボール・コメディの変人っぽさをシリアスに捉えていけば、カサヴェテスや後のスコセッシにも繋がりますね。スコセッシの『カジノ』(95)なんて、ギャング映画に出てくるおかしな奴らがスクリューボール・コメディの人物に見えたりしますからね。ジョー・ペシなんてめっちゃ早口じゃないですか。感情を露わにするケイリー・グラントなんですよ。ジョー・ペシは(笑)。
根岸
イタリア系の早口。暴力性が半端ないけどね。スコセッシ本人も超早口だし。
前田
でも、やってることって『ヒズ・ガール・フライデー』のケイリー・グラント的だったりするじゃないですか。面白いんですけど、出てくる人が余計なことばかり喋ってるシーンがあったり。スコセッシも好きなんだと思います。
高田
脇役たちの粒が立っているしね。
前田
『カジノ』の三角関係はもうコメディだよなって思う。シャロン・ストーンとジョー・ペシの関係性も変だし(笑)。ギャングもののなかで、コメディ的な欲求をシリアスに捉えている。カサヴェテスの『こわれゆく女』(74)も異常な世界なんですけど、笑いにもっていったらスクリューボール・コメディになってしまうような世界ではあるよなと思って。
根岸
カサヴェテスの場合は『ミニー&モスコウィッツ』がスクリューボール・コメディ的構造を一番分かりやすく持っていましたね。『カサブランカ』(42)や『マルタの鷹』(41)の一場面が出てきて、お婆さんとジーナ・ローランズがハンフリー・ボガートの話をしていたり、シーモア・カッセルがジーナ・ローランズに向かって「君はローレン・バコールに似てるね」と言っておだてたり。実際に似てると言われていたわけですけど。あるいは「シャルル・ボワイエみたいないい男は現実では会ったことがない」ってお婆さんに言わせたり。そういう黄金時代のハリウッドの夢のイメージと、現実の寂れたロサンゼルスとの生々しい落差があったうえで、おとぎ話のようにはいかないにせよ、ボーイ・ミーツ・ガール的なことをやってみせる。
高田
駐車場係とキャリア・ウーマンの恋愛ですもんね。
根岸
カサヴェテス自身が演じる男との不倫もあったり。第三者的ポジションは普通だと直前で振られるけど、カサヴェテスは振られる前に面倒臭くなって「もう別れるよ」と先にいなくなったりする。俺はジャンルとも戯れるがその規則には従わない、気ままにやるよという感じ。結果として、型を崩すように新しい形を打ち出してくる斬新さがあった。それで思い出したのが、少し前の日本映画で濱口竜介監督の『永遠に君を愛す』(09)という作品。これがスクリューボール・コメディ風なんですよね。増村保造やゴダールを思い起こさせる箇所もあったけど、結婚式場に昔の彼氏が現れて花嫁姿の元カノにイチャモンをつけるという設定で、スクリューボールの成分を感じさせる。その姿勢は『ミニー&モスコウィッツ』のカサヴェテスにも近くて、ジャンル性を匂わせながら作家性で制していくつくり。女性の脚本家の方が入っていました。前田=高田コンビの場合はジャンル性をはっきり打ち出していく傾向が強いから、タイプ的には真逆ですけどね。
高田
ええ。そういうジャンル性を外そうとしても、寄っていってしまうんですよね。やはり僕は基本的にプログラム・ピクチャーが好きで、ある型があって、その中でどう違いを出していくのかということにすごく憧れがある。そこから全然抜けられないというか。ある種の型からどう距離を取るかという感じでつくっている感じはありますね。
根岸
ちなみに『ミニー&モスコウィッツ』のシーモア・カッセル自身はかなりの変人でしたけどね。
前田
大事な髭を最後にね。
高田
大事な髭を(笑)。ああいう記号感のあることもちゃんとやるっていう。
根岸
偶然の一致ですけど、髭を剃るといい男だったというのはプレストン・スタージェスが脚本でウィリアム・ワイラーが監督した『お人好しの仙女』(35)でもやっておりまして、髭もじゃのハーバート・マーシャルが最後に髭を剃ったら「めっちゃいい男じゃん」ってなる。シーモア・カッセルが怒鳴ってる感じの芝居って、強引に前田監督作品に結びつければ、スクリューボール・コメディではないけれど、深夜ドラマでやった『太陽は待ってくれない』(12)の宇野祥平の芝居に近いのかなっていう気がしないでもなかったけどね。
高田
僕、そういうのをやりたいんですよ。カサヴェテス的な気持ちの動きをちゃんと乗っけて、それをギャグにしていくっていう。いまのエロコメを見ていても、実はカサヴェテスをやっているんじゃないかなと思ったりしますけどね。『ハズバンズ』(70)とか、どうでもいい遊びのシーンを延々と映すみたいなことをやるのがカサヴェテスじゃないですか。『ハズバンズ』のそういう男同士のホモソーシャルな感じをエロコメもやっている。
前田
例えば『スーパーバッド 童貞ウォーズ』(07)なんかもバカみたいなことを延々とやっているんだけど、後半で急に「お前たちの別れの話だったんだ」ぐらい、急にグサっとくるところがある。
根岸
切ない終わり方でしたね。
前田
突然放り投げてくるんですよね。楽しさを維持しながら、後半で急に違うものが掛かってくるっていうのもまた、アメリカのコメディならではの面白さだと思う。
根岸
なかなか楽天的には終われなくなってしまった、ということではあるんだろうけどね。
高田
でも一番大きいのは、その気持ちの心理描写的なものをちょっとでも入れ込まないと……。
根岸
ウケないっていう(笑)。
高田
ええ。ドタバタだけではなく、そういう流れが見えてこないと受け入れられないんじゃないかと自分でも思います。
根岸
スティーブン・フリアーズの『ヒーロー 靴をなくした天使』(92)はプレストン・スタージェスの『偉大なるマッギンティ』(40)を意識してますよね。他にもいろいろ狙っていて一種のブリコラージュにしてましたけど、スクリューボール・コメディを律儀に模したことによって、逆にスクリューボールはつくりえないと証した感もある。ああいう擬古典的なものって難しいんだろうなと思いました。
前田
好きだけど、崇めてしまうとつくれない。むしろ『潮風のいたずら』(87)のほうが上手くいってましたよね。スクリューボール・コメディ的な感じというか、利用する、されるみたいな感じも。
高田
カート・ラッセルね。80年代のラブコメはロン・ハワードの『ラブINニューヨーク』(82)とか、かなり良いものがあるんですよね。
根岸
スピルバーグ以降の世代っていうのは、ニューシネマ的なものをくぐってはきてるけど、昔のハリウッド映画を自分なりにもう一回咀嚼しようとしてきた人たちだから、現代性は保ちつつ、昔の黄金時代の美味しい成分もちゃんと入れておく。ロン・ハワードもその一人だし、イーストウッドにしても、意外にも『ブロンコ・ビリー』(80)が『或る夜の出来事』に近かったりして、その傾向が強くある。
高田
フランク・キャプラ的なものを狙ったんですよね。
根岸
資産家の娘の遺産問題に絡めた、ちょっとしたロードムービーになっている。ソンドラ・ロックがそういう風に見えるのかどうかは少し疑問でしたけど、いま見てもすごく面白かったですね。