傑作彫刻の宝庫・浄瑠璃寺の諸仏

浄瑠璃寺 三重塔 平安時代・治承2(1178)年 国宝

浄瑠璃寺の境内で西方阿弥陀浄土を表す池の西岸の本堂と向かい合う、東側の三重塔に安置され、東方にあるとされる薬師瑠璃光浄土を表す薬師如来坐像も、この展覧会に出品される。毎月8日が薬師如来の縁日で塔の扉が開かれるため、その開帳の日を避けての7月9日から8月6日までのの展示で、この取材時にはまだ写真パネルが代わりに置かれていたのだが、この像とともに薬師如来の眷属である十二神将立像が、今回はほぼ140年以上ぶりに同じ場所に集められた。

重要文化財 十二神将立像 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館(左の2体)、静嘉堂文庫(右4体)

明治維新に伴う神仏分離令と廃仏毀釈、寺院の経済基盤だった寺領の没収などが相次いだ困難な時代に、十二神将は二度に渡って寺外に流出してしまった。

寺が財政的に困って売り払ったというよりは、どうも詐欺的なやり方で騙して持ち出されたような話で、一時は所有者がバラバラになったものの、幸いにして散逸は免れた。最初の5体は東京帝室博物館(戦後の東京国営津博物館)に納められ、7体は三菱財閥の岩崎弥之助が買い集め、静嘉堂文庫の所蔵になった。これはとても幸運なことである。明治時代の初期の苦しい状況下に寺を離れた仏像の多くが、日本に来訪するようになった欧米人に買い求められ(あるいは日本人の美術商によって売買され)、海外にまで散逸してしまったままなのだ。

重要文化財 十二神将立像 鎌倉時代・13世紀 東京国立博物館(右から2体目、3体目、5体目)、静嘉堂文庫
写真パネルは 重要文化財 薬師如来坐像 平安時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 [木津川市](7月9日〜8月6日の展示)

運慶に近い工房で製作されたと推測される鎌倉時代・慶派の傑作(重要文化財)で、以前にも東京国立博物館の「運慶」展で12体が再結集したことがあったが、薬師如来坐像とともに本来の形で展示されるのは、明治10年頃に最初の5体が流出以来初めて、となる。

重要文化財 十二神将立像 鎌倉時代・13世紀 静嘉堂文庫

ここでどうにも不思議なことがある。浄瑠璃寺の三重塔は平安時代の建造で、平安京の近辺にあったものを移築したらしいのだが、どう考えても薬師如来に加えて十二神将を並べるスペースはない。江戸時代には薬師如来が十二神将を合わせて本堂に並んでいた、という記録があるそうだが、そうすると今度はその本堂には九体阿弥陀がずらりと並び、その四方を守護する大きな四天王もあって(現在、増長天と持国天は本堂に、広目天は東京国立博物館、もう多聞天は京都国立博物館に寄託・いずれも国宝)、それだけでいっぱいになる。

とてもではないが、さらに薬師如来坐像と十二神将立像を並べられるスペースはない。

そして今は薬師如来が安置される三重塔には、江戸時代には大日如来坐像があったそうだ。

大日如来坐像 平安〜鎌倉時代・12世紀 京都・浄瑠璃寺 [木津川市]

大日如来は現在は灌頂堂(通常非公開)に安置されて年に一回、お正月にだけ開帳される秘仏だが、この像も今回の展覧会に出品されている。

一方で現行の配置の、境内の東に薬師瑠璃光浄土を表すように薬師如来を安置するのは、興福寺の東金堂と同じだ(なお興福寺の西金堂は焼失したままで、運慶作の本尊像は頭部だけが残り国宝館に展示されている)。浄瑠璃寺に宗派は今日では真言律宗だが元は奈良・興福寺に属し、場所も今日の行政区分では京都府、旧国名で山城国の南部に位置するものの、歴史的に見ても一貫して奈良との結びつきがより強かった。

真言律宗の密教寺院ならば、大日如来は密教では世界の中心にして世界そのものであり、世界はあまねくその慈悲に満ち溢れている、と考えられている中心の仏だ。仏塔に大日如来、本堂に薬師如来と十二神将というのは密教ではよくあって、それはそれで納得できる配置だし、そもそも名前が薬師如来の瑠璃光浄土に由来する寺でもあるのだから本堂に薬師如来がいても不思議ではない。だがそうなると、今度は九体阿弥陀の行き場がなくなる。

浄瑠璃寺が今も所蔵している数々の仏像に加えて、かつてそこにあった仏像の大きさと数を考えると、ここが山中にありながらいかに栄えた寺で、かつては多数の堂宇が並んでいたと考えるべきなのだろう。