南山城地方に集中した、平安時代の仏教彫刻の変遷を辿る数々の名品
平安時代中後期の仏像の特徴が凝縮された「その8」の像と同時期に造られたはずなのに、「その1」の像には平安時代初期の、より野太く力強い、どこか人間離れしたような荘厳さを漂わせ、やさしさよりも畏怖の感覚に通じるものがある。平安時代中後期に確立したいわゆる「定朝様」の仏像としては、かなり異例の姿とも言える。
浄瑠璃寺がある南山城地方には、その平安時代初期の仏像も数多く残り、この展覧会では同じ地方の仏像の時代の変遷を自然と比較しながら、定朝様の最も完成された姿と言える浄瑠璃寺の阿弥陀如来坐像「その8」に至る表現の変遷を、時系列で追うことができる。
あるいは実際に南山城地方に行っても、たとえば浄瑠璃寺から岩船寺まで足を伸ばすと、ここの本尊は平安時代初期の巨大な、仏典に書かれた仏の身長を再現した丈六(1丈6尺、立った状態で身長約4.85m)の、主要部分を一本の巨木から彫り出した阿弥陀如来坐像だ。
平安時代に入ると、日本の仏像は圧倒多数が木像になり、初期には「一木造り」と言われる頭から足先まで主要部分を一本の木材から彫り出す手法が主流(手や腕、坐像なら膝の部分は別材を組み合わせることが多い)だった。
その一木造りの代表的な作例である岩船寺の本尊は、無骨なまでに重厚な存在感の像である。大自然の威容を体現するかのような迫力は、同じ阿弥陀仏のはずなのに1〜2世紀ほど時代を遡るだけで、浄瑠璃寺の九体阿弥陀とまるで雰囲気が異なるのだが、しかし今回展示されている「その1」には、こうしたより前の時代のスタイルに通じるどっしりとした重量感、ずんぐりとして堂々たる体型の威容がどこかしら残っていて、木の仏像の表現が「その8」の流麗でたおやかなスタイルの完成形に至るまでの、様式的な変遷の通過点のようにも思える。
日本には仏教伝来以前の古代から、巨木や岩を信仰対象にした文化があった。一木造り、つまり一本の木を仏の姿に変換した仏像、ないし一本の木の生命の営みの中に仏の姿を見い出したとも言える仏像の造り方は、おそらくそうした古代の「聖なるもの」への感受性と無関係ではあるまい。
現に霊木を仏像にした、という伝承も奈良と鎌倉の長谷寺観音、日光の輪王寺の奥之院にあたる中禅寺の立木観音など、各地に数多く伝わっている。
今日、素材の木そのものが見えているのは長い歳月を経ているからで、造立当時は経典の記述に基づく色指定の彩色や漆箔(漆を塗って金箔を貼り付ける技法)で覆われ、木の表面は直接には見えなかったはずだ(ただし霊木や貴重な香木を彫った仏像の場合には、木の素地を露出させる場合が多い)。しかしそれでも、素材となった一本の太く大きな木の存在感を反映したかのようなあり様は確かに感じられただろうし、また人体の再現的なリアリズムに徹するよりも、あくまでそれが木の彫刻であることを印象付けるような彫り方が、平安時代初期の仏像には多い。
衣も布地の質感を再現するよりも、深く鋭く彫り込んで、時に凸部の頂上部分にエッジを効かせるなど、木を彫ったことの質感そのものを、仏の身につけた衣であることと同時に表現したかのようだ。
平安時代初期の、まだ政治がなかなか安定せず疫病や天災、政変も多かった時代の人々は、仏像が仏や菩薩の姿の表彰であるのと同時に、大自然に宿る神々の表象としての木そのものの質感の中にこそ、なにかしら超越的なものの存在を信じ、そこに救いを求めたのかもしれない。
こうした二重の信仰表象ともいうべき彫刻のありようは、その前の奈良時代とはかなり異なっていたのかもしれない。
木が主流になる以前の日本の仏像では銅像や塑像、漆におがくずを混ぜたペーストで浅布を固めたり盛り上げて造形する乾漆像など、素材を彫り込んでいくのではなく自在に盛り上げていく(銅像も原型は粘土を整形した塑像だ)、より自由度の効く多様な手法が用いられていた。自由が効く造形でリアリズムが意識され、より人間的で肉体の張りのある存在感、衣の質感は特に襞を精緻かつ忠実に、布地の柔らかさまで、再現されていた。
この菩薩像の場合、特に手の、指先に至るまでとても繊細な表現は、子供の手のような柔らかささえ感じさせる。おそらく針金を芯に乾漆を盛り上げているのだろうが、木から彫り出すのではなかなか、ここまでの表現は難しいだろう。