「荒ぶる神」「祟り神」としての三輪山=大物主大神と、「神を鎮める」ための十一面観音

子持勾玉 奈良県桜井市 三輪山禁足地出土 古墳時代 5〜6世紀 奈良・大神神社

だが纏向遺跡が「卑弥呼」の宮殿、箸墓がその陵墓、ヤマト王権は三輪山の麓で始まった、と断言していいほど、ことはそう単純でもない。周知の通り「古事記」「日本書紀」によれば日本の起源は「高天原」つまり天上界から太陽神・天照大神(アマテラスオオミカミ)の子孫が降臨して「中津国」の大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)を王とする出雲系の神々から「国譲り」を受けて東征し、その「天孫」が初代のスメラミコト・神武天皇となって建国した、とされる。

こうした神話と、纏向遺跡の考古学的な発見に、いかなる整合性を見出せるのだろう? 

記紀の記述には天皇中心の律令国家を目指した天武・持統朝の政治的意向が強く作用しているから史実と無関係で信用できない、などという極論は必ずしも成り立たない。それが目的の創作ならば、例えば三輪山が「天孫」が降臨した聖地である、というように記述した方がよほど王朝の正当性を主張できそうなのが、「国譲り」神話をはじめとして政治的な解釈が難しい、謎めいた記述が多過ぎるのだ。

史実そのままではなくとも、なんらかの事実が神話化されてその伝承が広く信じられていたからこそ、記紀もその内容を踏襲したと考えた方が合理的だろう。

大国主大神立像 平安時代・12世紀 奈良・大神神社
袋を背負った姿は仏教の「大黒天」でもある。こうした大黒天像・大国主像は鎌倉時代以降に一般的になるが、この像はその先駆的なもので平安時代後期の作。

一方で「古事記」には崇神天皇以前に大国主大神が国づくりに当たって大物主大神の協力を得て、三輪山に祀った、という記述もあり、大物主大神をその大国主大神の「和魂」つまり分身とする信仰もあった。

大神神社にも、出雲系のカミで大国主大神(大己貴神、オオナムチとも呼ばれる)の国づくりに協力したとされる少彦名神(スクナヒコナ、えびす信仰のカミと同一視されるのが一般的)を、大物主大神に協力して共に国土の開墾に努めた神、さらには医薬治病を広めた薬の神として祀る磐座神社がある。

大神神社・磐座神社
古代の神社の形式に則り、岩(柵に囲まれている)を少彦名神の神霊が降臨する場とみなして礼拝対象とする。少彦名神は出雲の神で大国主大神(大己貴命)に協力して国造りに励んだとされるが、大神神社では大物主大神に協力した神として祀られている。

箸墓古墳の建造と三輪山をめぐっては、「日本書紀」に詳細な記述があるのだが、これがまた非常に謎めいている。

まず数多い巨大前方後円墳の中で箸墓だけが、「日本書紀」で唯一その築造が記述されているのも不思議だ。なにしろ箸墓以外では、最大の前方後円墳である大阪府堺市の百舌鳥古墳群(世界遺産)の大山古墳(大仙陵古墳)ですら言及は記紀にはなく、今日「仁徳天皇陵」とされているのも江戸時代後期の国学者の推定だ。言い換えるなら、宮内庁が天皇家の陵墓として指定しているうち、記紀の神代の古代の古墳で根拠がはっきりしているのはこの箸墓、あるいは「大市墓」だけなのだ。

箸墓古墳の前方部の先端にある礼拝施設と宮内庁の看板

天皇家の陵墓として宮内庁に管理されているため、箸墓古墳本体の考古学的な調査はほとんど行われていないが、近年のレーザー測量技術などの発達で外形的な構造は詳細が判明している。

しかも建造についてわざわざ記述がある唯一の古墳・箸墓は、「日本書紀」によれば天皇(大王)の墓ではない。葬られているのは第7代孝霊天皇の皇女で、10代崇神天皇の時に大物主大神の妻となった倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)だという。

予言の能力があり、カミガミが憑依してその言葉を伝えるシャーマン的な皇女だった倭迹迹日百襲姫は、夫となった大物主大神とは夜に、暗闇の中でしか会うことができなかった。姫は夫の姿を見たいと訴え、その願いに抗しきれなくなった大物主大神は翌朝、本性である蛇の姿で姫の前に現れる。驚いた姫は思わず叫び声をあげ、己の姿を恥じた夫は三輪山に戻ってしまった。後悔した姫が腰を落とした時、箸が陰部に突き刺さり、姫は亡くなってしまう(あるいは、箸で性器を突いて自殺した、という意味の婉曲表現だろうか?)。

そこで石を大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)から、昼間は纒向まで大勢の人々が列を作って手渡しで石を運び(つまり、それだけ多くの民衆が協力し)、夜は神々が石を運んで築造されたのが箸墓だ、と「日本書紀」は記している。

箸墓古墳の後円部と三輪山

この神話を、一体どう解釈したらいいのだろう?

倭迹迹日百襲姫の物語には前段がある。

崇神天皇が即位して5年、国内に疫病が蔓延し、国民の死者が半数にのぼるほどだった。年が明けても疫病はいっこうに治らず、土地を離れて離散する者も増える。なかには反乱を企てる者まで出て来るほど治世は混乱し、国力の低下に外国からの侵略さえ憂慮される事態になった。

崇神天皇は娘の姫たちに従来は宮中で祀っていた祖先神・天照大神ら高天原のカミガミを宮中の外に祀って祈るように命ずるが、姫の一人は髪が抜け落ち痩せ衰え、神事を司ることもできなくなってしまう。それまでヤマトの王権が知っていて信仰していたカミガミは、この厄災を前に無力だった。

磯城瑞籬宮(シキミズガキノミヤ)伝承地 、志貴御縣坐神社
大神神社の南、桜井市の金屋にある神社で、記紀の記載にある崇神天皇の御所はここにあったと伝わる

疫病は翌々年になっても続き、いよいよ追い込まれた天皇が占いを行わせようとすると、倭迹迹日百襲姫に未知のカミが憑依して「自分を敬えば自然に疫病は平らぐ」と告げる。天皇が名を訊ねると、その未知のカミは「大物主大神」と名乗った。そこで「大物主」を名乗るカミを祀る神事を行ったものの、一向に効果はない。

切羽詰まった天皇は自ら身を清めて床につき、夢のお告げを請うと、はたして大物主大神が夢枕に現れ、「なにも恐れることはない。国が治まらないのは私の意志による。我が子の大田田根子(おおたたねこ)に私を祀らせたら、疫病はたちどころに治まり、国内外の敵も降伏する」と告げた。

崇神天皇の御所・磯城瑞籬宮伝承地 (志貴御縣坐神社境内)

そこで天皇が大田田根子(大神神社における神としての名の表記は「大直禰子」)という人物を探索させると、和泉国(現在の大阪府)で見つかり、父は大物主大神で母は陶津耳の娘の活玉依媛だと名乗った。天皇がこの人物に大物主大神を祀らせたのが、大神神社の起源とされる。「日本書紀」によれば疫病はたちどころに収まり、国は栄えて崇神天皇はその後61年も安定した治世を実現、全国に軍を派遣して平定し、国民の戸籍を作って税制を整備するなどの功績を遺した。つまり中央政府による支配の国家的な体系を最初に確立し、国の制度的な礎を作ったのが崇神天皇、と読める。

その一方で、倭迹迹日百襲姫と箸墓の築造をめぐる物語は、崇神天皇が大神神社を創建させることで疫病を治め、大物主大神の力を得た後で起こった悲劇だ。

志貴御縣坐神社 二ノ鳥居

つまり大物主大神が憑依し、そのシャーマン的な立場になった倭迹迹日百襲姫が、最後には自らそのカミの生贄になった、ということなのだろうか? だからこそ大勢の民衆が参加して、そのコミュニティの結束を確認して絆を強めるようなリレー方式で石を運んで箸墓を造って姫の犠牲を悼んだ、という意味なのだろうか?

陰部つまり女性の性と出産の象徴に箸が刺さって死ぬ、というのも、生命と死と再生の神話としていかにも生々しいが、しかもその死の契機となった、本性を顕した大物主大神は、蛇の姿だったというのだ。

大神神社、拝殿に向かう石段

また「日本書紀」には21代・雄略天皇が三輪山の神の姿を見たいと言い出し、巨大な大蛇が捕えられて天皇の前に連れて来られると、その大蛇は目を赤く光らせて雷鳴を響かせ、畏れた天皇はその大蛇を三輪山に解き放った、という記述もある。

本性が蛇・大蛇で雷鳴を轟かせたとはつまり、水と天候を司って豪雨や洪水を起こすカミ、機嫌を損ねれば日照りも起こすカミということであり、また国の半分が命を落とすという恐ろしい疫病も、大物主大神が崇神天皇に自らの意志だったと告げている。

つまりは大物主大神は天災を象徴する恐ろしい、荒ぶるカミ、祟り神でもあり、その怒りイコール疫病、あるいは旱魃や水害を鎮める役割を負ったのが大田田根子(ないし大直禰子)、大神寺・大御輪寺はその氏寺であり、その本尊だったのが聖林寺の十一面観音菩薩立像、ということになる。

展示風景 かつて大御輪寺にあった4体の仏像

大田田根子(大直禰子)は大物主大神の子ないし子孫(「古事記」では5代後)で、「日本書紀」によれば母は「玉依媛」だという。この名は記紀に何度も登場し、たとえば下鴨神社の祭神でもある。神武天皇の皇后の母ともされるので大神神社創建に関わる伝承となると崇神天皇の時代、神武の10代も後なので時系列がなんだか混乱してしまうが、大直禰子は単に大物主大神の息子だから神主に指名されたというより、父もカミ、母もカミである特殊な血統から、荒ぶるカミである大物主大神を鎮める力があった、ということではないのか?

大神神社・大直禰子神社 社殿(旧 大御輪寺 本堂)

法隆寺の地蔵菩薩立像は密教、つまり平安初期の真言宗・天台宗の様式も反映した仏像と言われる一方で、元々は地蔵菩薩ではなく僧形の神像(カミを仏に帰依し修行する姿として表す)だったのではないか、という指摘がある。僧形の神像というともっともよく知られるのが、奈良時代の東大寺の創建にあたってその鎮守神として九州の宇佐地方から勧請された八幡神だ(東大寺の鎮守社は手向山八幡宮で、その本尊だった快慶作の僧形八幡神坐像は国宝。他に薬師寺の鎮守も八幡神で、その僧形八幡神像も国宝)。神仏分離以前の神号は「八幡大菩薩」、悟りを目指して修行中の神、という意味になる。

だがむろん、僧侶の姿で表される神は別に八幡神だけではない。たとえば最澄が比叡山にこもって後の延暦寺となる一乗止観院を開いた時、比叡山の地主神・大山咋神を「小比叡」、対する「大比叡」として勧請したのが三輪山の大物主大神だった。比叡山もまた花崗岩が主な京都の東の山地の中で、ここと大文字山だけが風化しにくい接触変成岩、高熱のマグマに接して硬くなったホルンフェルスと呼ばれる地質で、斑糲岩の三輪山と同じように美しく独立した形が残った山だ。その延暦寺の根本中堂にはかつて、秘仏本尊の薬師如来を囲む仏像群の中に僧形の大比叡(つまり大物主大神)の像があった可能性があるという。

だとすると、この大御輪寺にあった地蔵菩薩立像もまた、本来は大物主大神の僧形像だった、ということはあり得ないだろうか? 先述の通り手は別の木材で彫ってはめ込まれたものであり、地蔵菩薩であることを示しているのは左手に持った宝珠なので、元は違った形の手を付け替えて別の尊格とするのは、この時代の「一木造り」の仏像としてそう珍しいことではない。そういえば、左腕の衣と別材で彫られた手首から先は、角度がいささかズレているようにも見える。

国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺

その荒ぶるカミ・祟り神の、恐ろしい神でもあった大物主大神を鎮める役割を担った一族の氏寺が、大神寺(大御輪寺)だったと考えるなら、本尊である十一面観音立像が、人の目線で見上げた時には端正な長身の、いささか憂いを帯びた表情の美しい仏であると同時に、カミの目線と言ってもいいだろうか、正面から水平の角度で対面した時にはその顔が畏怖を覚えさせるような厳しさに見えるというのも、納得できることなのかもしれない。

平安時代、空海が密教とその明王などを日本に導入することで、疫病や天災などの災厄を退散させる「怖い顔」の役割はそうした憤怒相の仏像が担うようになる。身近なところでは今日でも、歌舞伎の市川宗家・團十郎や海老蔵の「睨み」は、正月公演で睨まれると1年間無病息災で暮らせる「縁起物」扱いになっているが、初代團十郎の当たり役のひとつが不動明王で、舞台上で暗殺された初代の名跡を息子の二代目團十郎がその名のまま継いだことには(歌舞伎の「襲名」の最初の例)、團十郎を不動明王の化身とみなす、という意味合いもあったと言われている。

ふだんは二枚目の荒事の美男の役者が「睨み」によって「魔」を退散させる。見上げた時には凛々しい美男に見えた聖林寺十一面観音が、顔に正対するとその厳めしい顔とまっすぐ正面を睨む鋭い目で「荒ぶるカミ」を鎮めるために造られていたのだとしたら、そうした感受性が奈良時代以来ずっと、日本人の感性と自然観の地下水脈として、脈々と続いているのかも知れない。