明治維新以前は当たり前だった、神社にあった仏像
聖林寺の十一面観音菩薩立像は江戸時代まで、奈良・三輪山の麓にある大神神社の神宮寺・大御輪寺の本尊だった。明治維新でこの大御輪寺が廃寺になった際に密かに持ち出されて聖林寺が保護、再発見されたのは20年ほど経ってから、そして明治30年の古社寺保存法(いわゆる旧國寶制度)の制定に伴い、最初に国宝に指定された。
神宮寺とは神社の境内にあるか、その神社に付随する仏教寺院のことで、江戸時代にはほとんどの神社には少なくとも仏堂のひとつくらいや仏塔があるのが当たり前だった。
明治新政府の宗教政策は神社とその信仰を日本古来のものとして尊重し、外来宗教である仏教から分離・独立させようとするもので(神仏判然令、神仏分離)、仏教と土着のカミ信仰の一体化が最も端的に分かる場であった神宮寺はほとんどが強制的に廃絶させられ、建物も破壊された。仏像や仏画などの寺宝は破壊されるか流失・売却され、その後運良く美術館や博物館に所蔵されたもの、地元コミュニティで守られて来たものもあるが、海外にあるものも少なくない。もともとどれだけあったのかの実態もはっきりとせず、行方不明になったまま、近代史の闇に隠れてしまったものも多いはずだ。
大御輪寺はそんな中で、稀有な例外かも知れない。
廃寺にはなったものの、境内はそのまま大神神社の若宮・大直禰子(おおたたねこ)神社になり、本堂は社殿に転用され、かつての姿がほぼ保たれている。神宮寺の貴重な、数少ない遺構として、この社殿は国の重要文化財にも指定されている。
大神神社は「古事記」「日本書紀」(以下「記紀」)によれば第10代の崇神天皇の時代に、三輪山の神である大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のために創建されたとされる。また「古事記」にはその前に、まず出雲の大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)が少彦名神(スクナヒコナノカミ)の助言で三輪山にこの神を祀ったとも書かれている。
奈良時代にはすでに「大神寺」としてこの神宮寺があり、その後鎌倉時代に真言律宗の叡尊がこの寺に入った際に「大御輪寺」と改称した。読みは音読みで「だいごりんじ」だが、「輪」が仏教の法輪を表し世界を支配する因果律や輪廻転生を象徴すると同時に、訓読で「御輪」を「みわ」とも読めることにも由来するのだろう。
叡尊の時代には密教の、世界のすべてとあらゆる神仏が大日如来を中心に、その変化・転生の連鎖で体系化される、いわゆる「曼荼羅」の世界観に則って、日本のカミガミも仏が日本のために姿を変えて顕現したもの、という「本地垂迹説」の考え方が定着し、日本独特のいわゆる「神仏習合」の信仰文化が完成していた。大神神社・三輪明神の場合、本地仏は大日如来、ないし聖観音菩薩とされる。
大御輪寺の本堂はその叡尊によって再興され、その後も何度かの修理改築を経て室町時代ごろに現在の形になったものだ。内陣などの一部の柱は、奈良時代の創建時にまで遡るという。
神社になった今では、内陣が本殿の役割に充てられ、柱で区切られて床を張った外陣や、中央を折り上げの格天井にしているところなど、中世の真言宗や天台宗の寺院によく見られる構造だ。
屋根裏からは、奈良時代の「脱活乾漆」造りの大きな仏像の断片が発見されていて、本展でも展示されている。粘土で仏像の原型を作り、その上に麻布を何重にも重ねて乾漆で塗り固めて造形する手法(完成後は原型の粘土は取り除かれて内側から木組みで支えられる)で、聖林寺十一面観音に用いられている「木心乾漆」はその応用形だ。
この螺髪(如来像の頭部の、とぐろを巻いたような独特な毛髪)の断片のサイズから想像するに、相当な巨像だったのだろう。経典にある仏(如来)の大きさに倣った丈六像(立った場合に約4m80cm、坐像でも2m40cm前後に台座がつく)だとしたら、奈良時代の創建時にはもっと大きな堂だったのかも知れない。これは十一面観音菩薩立像についても言えることで、像の本体は2m強だが、今は壊れて断片が丁寧に保存されている光背が完全な形だったなら、この本堂には大き過ぎたかも知れない。
いずれにせよそれだけ大きな仏像と、それを収める仏教のお堂が大神神社の神域にあったわけで、明治の神仏分離令の影響で神社と仏教寺院は別のものと考えがちな現代人の先入観を遥かに超えて、仏教と日本のカミガミへの信仰が奈良時代には既にいかに一体化していたかが想像できる(ただしカミを「本地垂迹説」に基づいて特定の仏と同一とみなすような信仰は、まだなかったはずだ)。
逆に言えば、大神神社にも見られる神仏習合の永い歴史を省みても、仏教の信仰体系から神社を分離させていわば「国教」の「国家神道」を創り出した明治政府の宗教政策がどれだけ強引で苛烈、不自然なものだったのかに、愕然ともさせられる。寺院だったものを仏教を廃して神社にしなければ全山を焼き払う、と脅されたというような話も同じ奈良県桜井市の談山神社(旧・多武峰妙楽寺)、奈良県の修験道の聖地・吉野山金峯山寺(本尊は大き過ぎて運び出せないとして守り抜かれたが、一時はその厨子が封印されて神社とされた。戦後に本来の寺院に戻る)、京都の八坂神社(旧・祇園感神院)、鎌倉の鶴岡八幡宮(旧・八幡宮寺)、大分にある全国八幡社の総本社である宇佐神宮(旧・宇佐八幡宮弥勒寺)、山形の出羽三山神社などなど、各地に残っている。
大神神社は崇神天皇の創建とされ、古代から朝廷とゆかりの深い由緒ある古社だっただけに、神仏分離令の強制も苛烈だったと想像される。
現にやはり三輪明神の神宮寺で、別当寺つまりこの神社を管理していた寺院にして、修験道の重要な拠点でもあった平等寺は、徹底的に破壊されてしまった。寺宝の一部は近隣の住人らによって密かに守られ、かつての境内地より西南に曹洞宗の心ある僧によって復興されたのは1977年のこと、奈良時代の様式の本堂は1987年の建立だ。
平等寺が耐え忍んだ苦難や、もうひとつあった神宮寺の浄願寺が完全になくなってしまっていることを考えても、大御輪寺の本堂が残され、その仏像が聖林寺や正暦寺、玄賓庵(鎌倉時代の不動明王坐像を引き継ぎ、今回は写真パネル展示)に保護されて、今日こうした形で博物館に再結集できるだけ、破壊もされず散逸もしなかったのは奇跡というか、寺はそのまま神社に改めて建物を守り、寺宝は聖林寺や正暦寺、玄賓庵に移して守り抜こうとした関係者の、強い意志があったに違いない。
聖林寺に遺された、明治元年当時の覚書には、地蔵菩薩立像も当初は聖林寺に預けられたことが記されている。その後明治6年頃に法隆寺に移され、しばらくは金堂の北側(つまり裏側)に、玉虫厨子や伝橘夫人念持仏厨子、百済観音と並んで安置されていたという。