重要文化財 薬師如来立像 平安時代・9〜10世紀 東京・寛永寺蔵

全国から集められた数々の秘仏の公開に見る、最澄とのつながりと信仰の広がり

寛永寺の根本中堂はその後、かつて39あった子院(現在は19が存続)のひとつ大慈院のあった場所に再興され、薬師三尊は通常はそこに安置されている。

右)重要文化財 薬師如来及び両脇侍立像 [薬師如来 平安時代・9〜10世紀、月光菩薩・日光菩薩 平安時代 ・11〜12世紀] 東京・寛永寺蔵 
左)重要文化財 梵天・帝釈天立像のうち 梵天 平安時代・10世紀 滋賀・善水寺蔵

今も秘仏で、何年に一度、何十年に一度とか、毎年この日に、といった開帳の期日も定められておらず、厨子の扉が開かれるのは徳川宗家が参拝した時などに限られるそうだ。上野戦争の時にもその厨子ごと辛うじて燃え盛る根本中堂から運び出された、めったに見る機会がないこの仏像が、今回の展覧会では惜しげもなく(?)公開されている。

寛永寺の本尊だけではない。今回の展覧会では普段は秘仏とされて見られる機会が極めて限られるか、まず見られるチャンスはないはずの仏像が全9体も展示される。なかにはあまりに恐れ多くて本当に見ていいのかどうかすら憚られそうな像もあって、それが寺外で公開されていることにはひたすら驚く。

秘仏といえば天台宗では、比叡山延暦寺根本中堂の本尊、最澄が自ら彫った薬師如来立像がそもそも開帳されることがない絶対秘仏で、歴史上ほとんど人に見られたことがない。京都の南東の日野にある、浄土真宗の開祖・親鸞の出生地としても知られる法界寺(日野薬師)の薬師堂に安置されている端正な薬師如来立像は、その最澄の自刻像の姿に近いと考えられている像のひとつだ。

重要文化財 薬師如来立像 平安時代・11世紀 京都・法界寺蔵

この像自体がめったに見られない秘仏で、もっとも最近の開帳が5年前、その前は50年以上前だという。「日野薬師」こと法界寺は、日野の地域に荘園があって本拠とした藤原氏の一門・日野家の氏寺として平安時代・永承6(1051)年に創建された。記録によればこの本尊像には日野家の初代の念持仏で、それも最澄自身に彫ってもらったという高さ3寸(10cm未満)の小さな薬師如来像が胎内に納められたとある。創建はもっとを早かったという伝承もあり、その日野氏の初代・藤原宗家が弘仁13(822)年に開山に最澄その人を招き、3寸の薬師像を最澄に彫ってもらって本尊としたという。なおこの同じ年に、最澄は亡くなっている。

現在も3寸の薬師如来の小像が納入されているそうだが、最澄の作ではないようだ。いずれにせよ硬い一本の材木(サクラと推定される)から彫り出されたこの像は、木の素地を活かしシャープで端正な彫りが隅々まで行き渡ってとても優雅で美しい。

その隙のない端正さは、側面にも背面にも及んでいる。この特別展では展示室の中央に展示ケースが置かれているので、ぜひ後ろにも回り込んで見て頂きたい。

重要文化財 薬師如来立像(背面) 平安時代・11世紀 京都・法界寺蔵
サクラ材と思われる硬い材木から彫り出され、漆や彩色を施さずに木の素地を活かした代用檀像だが、衣には金箔を細く切り抜いて貼り付ける截金の装飾がびっしり施されていて、背中側はとくによく残っている。左と右の袖で文様が異なる(右は亀甲文)など、衣の部位によって使い分けられている。

彩色や漆は施さず木の素地の質感を活かしていながらも、衣の全体に金箔を細く切って張り付けた截金(きりかね)の装飾が施されていて、とくに背面には綺麗に残っている。端正で精緻な金の文様は、衣の部位によって柄が使い分けられている。

重要文化財 薬師如来立像(背面) 平安時代・11世紀 京都・法界寺蔵
袖にもびっしりと截金(きりかね)の亀甲文様が施されている。サクラ材と思われる硬い材木を使っているから可能だったのだろうが、袖の下の方のまるで本当に布のような薄さも驚異的。

そこで改めて正面から見ると、袖の内側や腕と胴体の間、衣のヒダがくぼんだ部分にも、優雅で緻密な截金の文様が残っている。右の袖の文様は亀甲紋、左の肩は菊の花のようだ。両脚の衣のひだが優雅な円弧状の曲線を描いて近接している部分にも、目を凝らすとうっすらと金の文様が見える。

重要文化財 薬師如来立像 平安時代・11世紀 京都・法界寺蔵
脇の下や衣のひだなどのくぼんだ部分、膝の周辺に金箔を細く切って貼り付けた截金が残っている。

硬い材木を使っているからこそ可能だったのだろうが、まっすぐ下に垂れた袖がとても薄く、かなりの長さで体幹から離れて彫られているところなどは並々ならぬ高度な彫刻技術が見られる。右手を正面に掲げた施無畏印(相手に「恐れなくていい」と示すポーズ)と、薬壺を載せた左手の指の一本一本の繊細な造形は実に柔らかで、童顔にも見える丸顔の穏やかさも相まって、やさしさと、凛とした気品が併存している。

延暦寺の根本中堂は承平5(935)年に火災に遭って焼失しており、その際に秘仏本尊は大きく重い厨子から取り出され運び出されたはずだ。その時に、わずかでも人目に触れた可能性がある。

比叡山延暦寺 国宝 根本中堂〈内陣中央の厨子〉の再現
延暦寺根本中堂の中央の厨子には絶対秘仏の本尊が納められ、その前の銅灯籠には最澄が灯して以来1200年以上守られて来た「不滅の法灯」が輝く。これだけの大きさの厨子を火災の緊急時にそのまま運び出すのは難しく、やはり封印を解いて中の仏像を取り出して運び出したのだろう。
現在の根本中堂は織田信長の焼き討ちを経て江戸時代・寛永19(1642)年に再建されたものだが、基本構造は変わっていないはず。今回この再現に当たって比叡山から運ばれた梵天・帝釈天・十二神将の子神・丑神も江戸時代の復興像。

そのためか、10世紀以降しばらくのあいだ、この最澄自刻の比叡山本尊をモデルにしたと考えられる薬師如来立像が多く作られているという。

重要文化財 法界寺 本堂(薬師堂・日野薬師)
法界寺の薬師如来立像は通常ここに安置される秘仏。建物は室町時代・康正2(1456)年建造の、奈良県斑鳩町の旧 伝燈寺の本堂を移築したもの。伝燈寺は龍田神社の神宮寺で、明治の神仏分離令で廃寺となった。

なお法界寺には、平安時代中後期の末法思想と阿弥陀信仰・浄土教の隆盛に伴って阿弥陀堂も建てられた。鎌倉時代初期にいったんは焼失したが、まもなく再建されていてその建物も国宝、経典に基づく仏の「等身大」である丈六(身長が1丈6尺)の、平安時代中期の阿弥陀如来坐像も国宝に指定されている。

法界寺の境内。手前右が薬師如来立像が通常は安置されている本堂・薬師堂(重要文化財)、奥に阿弥陀堂(鎌倉時代12世紀、国宝)。

のちに徹底した阿弥陀信仰の新境地を突き詰めて浄土真宗を開いた親鸞は日野家の出身で、この法界寺は氏寺だった。浄土信仰は比叡山・横川の恵心僧都源信が著した『往生要集』をきっかけに平安貴族のあいだで流行し、この阿弥陀堂もその影響下に建立されたものだ。内部には阿弥陀如来坐像を中心に装飾壁画も駆使して阿弥陀浄土の光景が再現されていて、これが親鸞の信仰哲学の原風景となったのかもしれない、と想像も膨らむ(ちなみに地理的に醍醐寺に近いこともあるのか、現在の法界寺は天台宗でも浄土真宗でもなく、真言宗醍醐派に属する)。

重要文化財 薬師如来立像 平安時代・11世紀 京都・法界寺蔵
右足を少しだけ前に出し、左足を少しだけ開いて、硬直しない自然な動きを表現した立ち姿や、両手の指先にまで神経が行き届いた柔らかな造形も美しい。