仏教の本質への「原点回帰」としての「戒律」研究と、その現世での応用還元

「悟り」の中身そのものは他人には伝えられず、「悟り」は自分の修行で自ら到達するしかないと説いた釈迦が、悟りに近づけるいわば「修行マニュアル」として遺した「戒律」を守ったり復興させるためには、その戒律に従った生活や行動を実践することと並行して、いわば車輪の両輪のように「戒律」そのものを解釈するための研究と思索が欠かせない。

そうした学究的なアプローチによる「釈迦への原点回帰」もまた、「戒律」の思想運動の重要な一部になった。代表的な例のひとつが、宋に留学して13年間も滞在して学んだ俊芿が、宗派を超えた修行道場として整備した京都・東山の泉涌寺だ。

俊芿律師像 自賛 鎌倉時代 嘉禄3(1227)年 京都・御寺泉涌寺 重要文化財

泉涌寺は伝承では元は空海が開いたとされるが、天台、東密、禅、浄土の四宗兼学の道場として俊芿が後鳥羽上皇の援助を受けて復興した寺院だ。のちには天皇家の菩提寺ともなり、よって「御寺」とも呼ばれる。

宗派を超えて仏教を学ぶということは、その全てに共通する上部概念であり、すべての基本となって重要になるのが、釈迦の説いた「戒律」だ。俊芿が自ら賛を書き込んで泉涌寺で大切にされて来たその肖像画(重要文化財)が「律師」像であることからも、「戒律」がどれだけ重要な思想的な核だったことが伺われる。

東山泉涌寺図 室町時代 15世紀 京都・御寺泉涌寺
俊芿が復興した当時の泉涌寺は、当時の宋の寺院に倣った最新式の七堂伽藍だった

ここで気付かされるのは、現行の思考や思想、規律やルールの体系が「時代に合わなくなった」と言うのなら、そこで安易に変えたりねじ曲げたりするのではなく、常に真摯に原点に帰ってきちっと基本から研究し、考え直すことの大切さだ。

このように「戒律」を改めて見直そうという運動の歴史的な変遷は、日本史の節目節目で価値観の変動があった時に、「だからこそもう一度原点に帰って」という心掛けがあって、時には「戒律」が軽んじられたり、「破戒」が標榜されることもあったりした中でも、だからこそ「原点回帰」が度々日本の精神史の中で重要な意味を持って、何度も何度も考え直されて来たもののように思えて来る。

等龍 真盛上人像 滋賀・西教寺 室町時代 文亀3(1503)年

江戸時代になって社会が安定して豊かになると、釈迦への原点回帰としてサンスクリット語を学んだ、真言宗の慈雲のような人まで現れる。

慈雲 梵学神梁 巻五(1000巻のうち)江戸時代18世紀 大阪・高貴寺

なんと慈運は、サンスクリット語を習得して膨大なサンスクリット語の文章すら書いていただけでなく、釈迦に倣って自ら古代インド風の服装までしていたらしい。

原在中 慈雲巌上座禅像 江戸時代 天明3(1783)年 大阪・高貴寺

そう言われると「浮世離れ」した人だったのかと思えばそんなことはなく、真言宗の僧侶で大坂を拠点とした慈雲は、その大坂で商人たちの崇敬を集め、著書の「十善法話」は商道徳の基本として広く読まれていたというのだから、なんだかすごいことである。

宗覚 天球儀(右)、地球儀(左)江戸時代17〜18世紀(地球儀は元禄15(1702)年)大阪・久修園院
戒律の研究や仏教史の研究は世界の在り方についての学術研究でもあり、西洋から入って来た新しい科学的知見も研究・思索の対象となった