「菩薩戒」、修行者=菩薩、つまり全てが平安に生きられるための努力とは?

聖武天皇が戒律の権威である高僧を招聘しようとした理由について、最近の研究ではまったく別の動機も指摘されている。出家を公的な管理下に置くことよりも、天皇自身が鑑真から戒を授かることにこそ、重要な政治的な意味があったのではないか、というのだ。

つまり、聖武太上天皇と妻の光明皇太后、孝謙天皇が鑑真から授かった「菩薩戒」こそが、最も重要な政治的目的だったのではないか?

聖武天皇の母は藤原不比等の娘・藤原宮子だ。以前の天皇はほぼ全て、父親だけでなく母親も天皇家の家系だったが、宮子は天皇家の血を引いていない。なんと不比等の実の娘ですらなく、庶民の出で元は海女だったのがあまりに美人なのでその養女になった、という俗説まである(能楽の演目にまでなっている)のはさすがに後代の創作だろうが、それだけ聖武帝の血統的な正統性に疑念があったことを示唆する噂が元になったのかも知れない。

そして光明皇后も藤原光明子(ないし「安宿媛」)、やはり不比等の娘(宮子の異母妹)で、天皇家の血統ではない。聖武帝だけでなく2人の娘の孝謙天皇や、2才で夭折した長男も、その意味では天皇としては血統的な正統性に欠けるのではないか、と疑われかねない立場になる。

しかも血統主義のみの天皇位の継承は結果として、たびたび天皇家の親戚同士がそれぞれを支持する豪族を巻き込んで殺し合って来た。聖武天皇の母方の祖父で光明皇后の父・藤原不比等の少年時代には、皇位継承をめぐる大内乱「壬申の乱」が起こり、不比等も養父が負けた近江方に近い立場だったせいで若い頃は不遇だったと見られている。それでもやがて持統天皇の信頼を得て、法と秩序による安定した国家統治の基本となる大宝律令の制定に尽力し、天皇の正当性を内外に示す正史「日本書紀」が編纂された後でも、不比等の没後・聖武天皇の統治初期には「長屋王の変」もあったし、天然痘の大流行もあって律令国家の先行きは決して安泰とは言い難かった。

聖武天皇はだからこそ、そんな既存の血統相続体制にさらなる道徳的権威を加えて、当時見えていたであろう天皇制の限界を超えて刷新するためにも、「仏国土」としての国作りを理想としたのではないか?

その重要な一部として鑑真を招いた目的の一つが、自らがその高僧を師として授戒を受けること、それも「菩薩戒」によって天皇そのものを「菩薩」とすることだったのだとしたら、つまり自らの悟りに至るための修行として衆生の救済に尽くす義務を天皇自らに課し、そうして自らを律することを表明して「天皇」を新たな国民のお手本の道徳的権威として「仏国土」たる国家の中心とすることが目的だったとしたら、「私度僧」防止説・僧侶の国家管理説よりも筆者には説得力が感じられるし、だったら鑑真が決して日本への渡航を諦めなかったのも分かる。

聖武天皇ゆかりの眉間寺の旧本尊・阿弥陀如来坐像 平安時代12世紀 奈良・東大寺蔵 重要文化財
現世を憂い来世の救済を約束する阿弥陀信仰・浄土信仰は、社会の変化と混乱、武士が勃興し戦乱も増えた平安後期から鎌倉時代にかけて特に盛んになるが、この本尊像は平和な治世を願ったと伝わる聖武天皇のイメージを反映しているとも考えたくなるほど、やさしげで上品だ。
眉間寺は東大寺戒壇院の末寺で、聖武天皇陵の山腹にあったが、天皇陵そのものの上に仏教寺院などということが明治維新後の神仏分離・廃仏毀釈の嵐の中で許されるはずもなく、廃寺に。宝物は東大寺に引き継がれている

そういえば直接の関連があるかどうかは不明ながら、鑑真が来日する前年に始まったとされる東大寺二月堂の修二会(お水取り)がコロナ禍の今年はライブ中継された。

長時間に及ぶ儀式の中には全国の神々と歴代天皇の霊が勧請される下りがあり、そこで練行衆と呼ばれる11人の僧侶たちが祈るのは、神々と歴代天皇が「悟り」に到達することだ。天皇の諸霊は「悟り」を得るための修行中の身、つまり定義通りの「菩薩」である。

だいたい国立の戒壇を作っても私度僧を直接禁止することにはならないし、問題の根幹はそこにはない。貧困と社会の安定性の欠如、ひいては天皇の権威と天皇の治世への信頼が社会の全般に行き渡っていなかったこと、つまり朝廷に「菩薩心」が欠けていたのだ。むろん「菩薩戒」を授かることだって直接の貧困対策にはならないが、それでも宗教に裏打ちされた社会的な信頼の有り難みは現代と違って古代には大きかったろうし、古今に関わらず、政治には統治される側からの信頼が本来なら必須だ。今ならば、感染症対策の徹底に必要な政府に対する信頼がなかなか成立していない現代の日本の問題も、根本には同じことだ。その信頼が欠如した形だけの「ルール」や文言だけをいくらでも曲解できる「法」は、モラルハザードにしかなるまい。

言葉だけで「ルール」はちゃんと伝わるのか?

唐招提寺金堂 天井支輪板 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

それに鑑真が日本にもたらした本格的な仏教修行の中心が「戒律」と、そのテキストとしての「梵網経」を中心とする経典の体系だったことは確かながら、ただ文献にある規則を杓子定規に伝えて「ルールだから守るべき」と教えたわけではまったくないだろう。今に残る唐招提寺の伽藍も、そのような字面だけの教条主義的な空気の場ではない。むしろ華麗な建築やさまざまな仏像による空間演出で仏の世界を実感し、ただ言葉で学ぶ以上のことを体感的に伝えようとする意思を、今でも感じさせる空間だ。

たとえば金堂は、もしかしたら世界で現存する唯一の唐の様式の木造建築ということになるのだろうが、とても美しく均整の取れた建物であるだけではない。細部に至るまで見事な建築技術の高さが見られる以外にも、構造そのものに大きな特徴がある。

古代には仏堂の内部は仏の空間とされ、人間は外から拝む形式が普通だった。仏堂の中に入って拝む寺院建築は平安時代も後期に入ってから、むしろ鎌倉時代以降のもので、奈良時代や平安時代の御堂に中世以降に屋内で礼拝できる外陣や礼堂が増築された例も多い。

だが唐招提寺金堂の場合は、確かに堂内は仏の空間で人が滅多に入れる場所ではないものの、正面の壁面が柱一間ぶんセットバックされている。堂の外からといっても大きな屋根の下で、風雨に晒されずに拝めるよう、静かに仏と向き合って、落ち着いて考えて自らを省みられるようにする工夫にも思えるが、だとしたら、それが鑑真の考えの反映であったとしても驚かない。

世界文化遺産・唐招提寺 金堂 奈良時代・天平宝宇3(759)年 国宝

写真左の内開きの扉の向こうに三体の本尊を中心とする仏の世界が広がり、柱や天井には極彩色の宝相華や菩薩、天神天女の姿が描かれている。

今回の展覧会ではその金堂の、天井の羽目板の4枚が展示されているが、横から見るとその優雅な曲面にまず驚く。奈良時代当時に鉋(かんな)はまだ発明されていなかったはずで、こうした木材の加工は手斧で行われたはずだが、大変な技術と努力を要したのはもちろんのこと、そんな努力を感じさせないほどに、ただ美しい。

このように目につかない細部に至るまで規律・規範が美意識として徹底された、神経の行き届いた建築空間もまた、鑑真が伝えようとした「律」とはなんだったのかを考えさせられる。

唐招提寺金堂 天井支輪板 奈良時代・天平宝宇3(759)年 奈良・唐招提寺 国宝

1250年以上の歳月で褪色はしているが、優雅に湾曲した表面には、浄土に咲く宝相華、天女や龍、天空から地上に舞い降りる菩薩の姿がかつては極彩色で描かれていたこともはっきり分かる。

今回出品されている「獅子吼菩薩立像」(国宝)をはじめ、唐招提寺には「旧講堂木彫群」と伝わる五体の一木造りの仏像がある。顔立ちが、玄奘三蔵がインドから帰国して以降の唐で流行していたインド風だったり、七頭身の均整の取れた体躯の堂々たるふくよかな表現、それに硬いカヤ材に施されたシャープで精緻な彫刻技術の高さから、鑑真が来日時に連れて来た仏師の作ではないかという説が根強いが、このような一木造りの木の仏像が、その後の平安時代初期の日本の仏像の主流になって行く。

伝獅子吼菩薩立像 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 国宝

とくに特徴的なのが豊かなボリューム感の太ももと、その太ももを覆う衣で、伝獅子吼菩薩立像よりも衣がシンプルなぶんよりはっきりしているのが薬師如来立像(国宝)と、頭部と手が失われていて「唐招提寺のトルソー」との通称で親しまれている尊格不明の如来立像(重要文化財)だ。どちらも普段は唐招提寺の新宝蔵で見ることができる。

こうした表現の特徴が共通するのが、奈良時代末から平安初期にかけての一木造りの仏像で、たとえば京都・神護寺の薬師如来立像(国宝)、奈良・元興寺の薬師如来立像(国宝)、奈良・大神神社の神宮寺だった旧大御輪寺の地蔵菩薩立像(明治以降は奈良・法隆寺に移され、国宝)などが思い浮かぶ。やや時代が下って、それが引き継がれ発展した姿と考えられるものとして、奈良・室生寺金堂の中尊・釈迦如来立像(元は薬師如来として作られたとみられる・国宝)や奈良・子嶋寺の十一面観音菩薩立像(重要文化財)と言った例も挙げられるだろう。

黒漆彩色華盤 奈良時代8世紀 奈良・唐招提寺 重要文化財

鑑真が生前に使っていたかも知れない、供物台と思われる小さなテーブルも出品されている。唐の銀器のデザインを踏襲しているそうだが、精緻な加工でとても優雅、シンプルで華美にならず、現代的でさえある。

「戒律」の思想というものを、鑑真はただ言葉の上だけの「ルール」ではなく、こうした文物や、もちろん釈迦その人を体現する仏舎利なども含めて、心身で感じ取れる総合的な体験として伝えようとしていたのではないか?