藤田美術館の快慶作・地蔵菩薩立像はどこから来たのか?
藤田美術館の安阿弥様の阿弥陀如来立像も、端正な造形や袖の薄さなど、彫刻技術で決して遜色なく、もしかして快慶作かも知れないが作者が特定されていないのに対して、地蔵菩薩立像が快慶の作と分かったり、製作時期による快慶のスタイルと表現の変遷が分かるのは、署名が見つかっているからだ。

木造金彩阿弥陀如来立像 鎌倉時代・13世紀 藤田美術館
こちらはほぼ等身大の大きな像
仏像が台座に立っているのは、ただ乗っているだけではない。足裏に「ほぞ」という板が垂直に伸びていて、台座に開けた細い長方形の穴にぴったり納まることで、地蔵菩薩でも阿弥陀如来でも台座が斜めになっていても安定して立たせることができて、地震などでも倒れないようになっている。
地蔵菩薩立像ではこのほぞに書かれた署名から快慶が造り弟子の行快が補佐、頭部を内側からくり抜いて空洞にして水晶の眼球をはめ込んだ玉眼を入れたのは行快と分かり、快慶の署名は「法眼快慶」という仏僧の階級が入っていることから、彼がこの階級に昇進した1208年(承元2年)以降、最晩年までのあいだ、とまで特定できる。
快慶 木造地蔵菩薩立像 鎌倉時代・13世紀 藤田美術館(部分) 重要文化財
藤田美術館は明治に大阪を中心に活躍した大実業家・藤田傳三郎とその息子たちのコレクションに基づき、大阪の淀川の岸に構えた大邸宅の蔵の跡地に立つ美術館だ。戦後に開館した時の初代の建物は大阪大空襲で焼け残った藤田家の蔵を改装したものだった。なお広大な庭園の一部は大阪市の公園になっている。
尾形乾山 作・尾形光琳 絵 銹絵絵替角皿 江戸時代・18世紀 藤田美術館 重要文化財
Exhibition 1 「数」1月31日まで
コレクションの大きな二本柱が、明治の経済人に多かったように藤田もまた茶人だったので茶の湯の茶器と、並んで仏教美術だ。明治の神仏分離・廃仏毀釈で海外に流出しかねかった寺宝を国内に留める意味があった一方で、藤田の母が仏教の信仰が篤かったこともあったという。
大般若経(薬師寺経) 奈良時代・8世紀 藤田美術館 国宝
Exhibition 1 「数」1月31日まで
快慶作の地蔵菩薩立像は、以前から元は興福寺にあったものではないかと言われて来たが、興福寺に残る明治39年の古写真から、この時まで興福寺にあったことが確認された。このサイトの前記事で紹介した奈良国立博物館の多聞天・増長天立像などと同時に実業家で三井財閥の大番頭、三井物産の創立者・益田孝(鈍翁)が引き取った「破仏」に含まれていたのだ。

大倉喜八郎から藤田傳三郎宛の書簡
四行目から五行目にかけて「興福寺破仏の件」とある
益田鈍翁はのちには旧大名の佐竹家が家宝にしていた三十六歌仙絵巻があまりに高価で一人では買い取れず、共同で購入して絵巻を三十六に切断して分け合うことになるが、どうも興福寺から多数の仏像を譲り受けたのもその先例みたいなことだったようで、古美術コレクターで近代茶人の実業家仲間たちを代表してのことだったようだ。そうした古美術コレクターで茶人の実業家の一人、大倉喜八郎(そのコレクションが大倉集古館に)から藤田に宛てた書簡もあり、「興福寺破仏」の中に快慶作の地蔵菩薩がある、と勧めている。
こんなに美しく保存状態がいい仏像が「破仏」つまり壊れて破棄される仏像というのも驚くが、状態よりも興福寺で維持できなくなって破棄するか手放さざるを得ない、という意味だったのだろう。
まあ実際、明治39年の古写真に写った快慶作の地蔵菩薩立像は宝珠を持つ左手が欠損していたので、まったく破損していなかったわけでもないのだが。
快慶 木造地蔵菩薩立像 鎌倉時代・13世紀 藤田美術館(部分) 重要文化財
なお現在の左手と宝珠は修理で補われた部分で、オリジナルのままの右手首には腕輪があるのが、左手にはない。
※快慶作 木造地蔵菩薩立像の展示は1月31日まで





