鎌倉時代の新しい潮流? それとも奈良時代の古式を踏襲した伝統復興?
「全てを見る者」の本来の役割で、日本で最古の四天王の飛鳥時代・法隆寺金堂の広目天や、奈良時代の東大寺戒壇院と東大寺法華堂(三月堂)の塑像の四天王、唐招提寺金堂の四天王や、平安時代初期の例えば出雲の大寺薬師の四天王では、広目天は見たものを記録するために右手に筆、左手に巻物を持っている。この像も、その古代の形に倣っていたのではないか?

四天王立像(広目天)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良・興福寺(奈良国立博物館寄託) 重要文化財
胸の前にかかげた手は巻物を持っていたとしたら納得できる。下げ気味の右腕の手先は失われているが、筆を持っていたのではないか?
広目天の踏みつける邪鬼は部分的に木彫の上から塑土で形成されていて、これも奈良時代の影響を感じさせる技法だ。その土で作られていたであろう頭部や片足が欠損している。なくなっている部分を補って勘案しても、力強く踏み締めて立つ像を支える割には、非常に細いというか、身体が薄い。
実は邪鬼が不釣り合いに細い・薄いのはダイナミックな動きの多聞天も同様だ。腰を大きくひねって腕を激しく上下させたポーズは、ちょっと間違えると不安定で倒れかねないギリギリの表現が、かえって迫力と緊張感を産んでいる。

四天王立像(多聞天)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良国立博物館 (興福寺旧蔵) 重要文化財
令和6年度保存修理 助成:バンク・オブ・アメリカ 施工:公益財団法人美術院
四天王本体の大きさ・重量感に比べて邪鬼が小さい四天王というのは、法隆寺金堂の次に古い奈良・當麻寺の金堂の四天王立像もそうだ。この白鳳時代(飛鳥時代後期)の作例の場合、脱活乾漆像でおかくずを混ぜた漆で固めた麻布で中は空洞、実は軽く木造のムクの邪鬼に重心があって立っていられるのは分かるが、この興福寺伝来の広目天・多聞天の場合は巧みな重量配分を計算していないと立っていられないのではないか?
ところで、昨年このサイトの東京国立博物館の特別展「運慶ー祈りの空間 興福寺北円堂」の紹介記事で、やはり興福寺の運慶作ではないかと強く推定される四天王立像の多聞天について、宝塔を高々と頭上に掲げるポーズを「他に類例がない」と書いてしまったのだが、これは間違いだったことを、この場を借りて訂正・お詫びさせていただきたい。

四天王立像(多聞天)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良国立博物館 (興福寺旧蔵) 重要文化財
令和6年度保存修理 助成:バンク・オブ・アメリカ 施工:公益財団法人美術院
いやだって、この多聞天がまさに…その「類例」じゃんか! なんで忘れていたんだろう?
さらにいうと多聞天の定番の持物である宝塔を高々と掲げるポーズには、もっと古い先例がある。奈良時代の塑像の、東大寺戒壇堂の四天王の多聞天(奈良時代の塑像)も宝塔を高く掲げているのだ。

四天王立像(多聞天・部分)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良国立博物館 (興福寺旧蔵) 重要文化財
東大寺公式サイトより、戒壇堂と四天王の紹介はこちら www.todaiji.or.jp/information/kaidando/
運慶は興福寺の僧侶で大仏師・康慶の息子、つまり奈良育ちだ。この四天王像を手掛けたのも奈良の仏師だろう。広目天が筆と巻物を持ち、多聞天が宝塔を高く掲げる。同時代の例えば京都には見られないポーズは、彼らがそんな奈良時代・天平の仏像を見ていたから、ではないだろうか?

四天王立像(多聞天)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良国立博物館 (興福寺旧蔵) 重要文化財
令和6年度保存修理 助成:バンク・オブ・アメリカ 施工:公益財団法人美術院
如来像や菩薩の像は、経典に基づく約束事でポーズが限定されている(というか、悟りに達した如来や、修行で瞑想していたり救済の象徴の菩薩が七転八倒して躍動していたら、たぶんあまり有り難みは感じない)が、四天王も持っている道具や守護神として鎧を着用したり、役割に応じた肌の色などの決まり事はあるが、ポーズは決まっていない。
悪鬼・悪霊を退散させる意味もあって怒った、怖い顔(憤怒相)が多いが、そうした表情を露わにした顔と合わせて、躍動感や肉体的な力強さ、迫力を強調する自由なポーズは、とくに鎌倉時代以降に大いに発展した。

四天王立像(多聞天・部分)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良国立博物館 (興福寺旧蔵) 重要文化財
この激しい動きの多聞天は鎌倉時代っぽい典型というか、下げた左腕から宝塔を高く掲げた右手への力強いヴェクトルと激しい腰のひねりなど、極端とすら言える一方で、奈良時代の東大寺戒壇院の四天王のようなリアリズムの仏像に触発されたとも考えられる。
だとしたらもっと時代の早い、平安時代の後期に、天平の表現にインスパイアされたことが、結果として同時代では先駆的になったのではないか?

四天王立像(多聞天・部分)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良国立博物館 (興福寺旧蔵) 重要文化財
広目天の邪鬼が部分的に塑像だったのも古代に由来する技法だし、特に多聞天は眼差しの強さが印象的だが、その目も鎌倉時代以降に一般的になる玉眼(ガラスや水晶で作った目を、頭部の内側をくり抜いて裏から嵌め込む)ではない。

四天王立像(持国天)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 滋賀・MIHO MUSEUM (興福寺旧蔵) 重要文化財
異なった素材の瞳を埋め込むのは、奈良時代の塑像の仏像などに見られた手法だ。今回の修理にあたってX線CTや蛍光X線分析など科学調査も行われ、瞳には一方の先端が半球状で、反対側が尖った銅の鋲を、打ち込んでいると分かった。

四天王立像(増長天・部分)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良国立博物館 (興福寺旧蔵) 重要文化財
全体の構造は、パーツ分けして彫った部材を組み合わせる寄木造りが普及していた平安時代後期以降ではかなり珍しく、「ほとんど丸太」だという。
腕は別材だが、胴体から脚の主要部分はほぼ一本の木から彫られた構造だ。奈良時代から平安時代前期の木像で一般的だった一木造りに近く、その意味で古い時代の技法で、平安時代中後期以降では珍しい。

四天王立像(広目天)平安〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良・興福寺(奈良国立博物館寄託) 重要文化財
木造の像だが身にまとった装飾品には銅の部品も
