このように東京はまぎれもなくそこにありながら、語りえないがゆえに不在の空間であり、老夫婦が東京を見ているというより、不在の空間としての東京が年老いたふたりを見ていると言うしかなかったのである。そして小津さんがわれわれに伝えようとする隠された啓示とは、空気枕が人間のうかつさ、愚かさとはかかわりなく、事物としての眼差しを注いでいたのと同様に、語りえない不在の空間がたえずその眼差しで老夫婦を眺め、またわれわれ観客をも見つめていることを深く黙示していたのではなかっただろうか。
――吉田喜重『小津安二郎の反映画』
「事物」あるいは「不在」の眼差し
小津安二郎の盟友である脚本家、野田高梧(のだ・こうご)に由来する名前を持つコゴナダ。深く敬愛する小津を筆頭に、ブレッソンやゴダール、ヒッチコックにベルイマンといった巨匠のビデオ・エッセイを手がけていた彼が長編デビューを飾った監督第1作『コロンバス』(2017)は、モダニズム建築が立ち並ぶインディアナ州の街を舞台に、二組の親子の喪失と再生が描かれていた。そこには単なる「小津的スタイル」への模倣やオマージュといったうわべの影響にとどまらない、小津が描き続けてきたテーマにも深く関連した作り手の姿勢が見てとれるように思える。
では、小津作品がココナダの作品にもたらしたものとは何か。吉田喜重の言葉を借りれば、それは「事物」あるいは「不在」の眼差しといえるものだ。吉田は小津の代表作『東京物語』(53)において、尾道から子どもたちを訪ねて来た老夫婦が見た東京の風景を評し、そこにあるのは「遊覧バスの窓から眺められた」「ありきたりの絵葉書」のような、凡庸で匿名的な風景であると指摘する。小津が映し出すのは、東京を「見る」老夫婦の視線や背中であり、夫婦によって「見られた」東京の風景はそこにない。明晰で敬意に溢れた吉田の論考が明かすのは、映画を愛するがゆえに映画の「まやかし」を知り、それと「戯れる」ことで映画の本質に最も近づき得た、小津安二郎という映画監督の姿勢であり肖像だ。