解明されればされるほど、逆に深まる「夏秋渓流図屏風」のミステリー
なぜ其一はこの屏風のあちこちにこうも不可解な要素を、それも手間のかかる超絶技巧や卓越した画力が必須になるやり方で、わざわざ配置しているのだろう? あまりに謎めいた「夏秋渓流図屏風」に組み込まれた様々なモチーフに、実はそれぞれに原典があることを、この展覧会ではそのインスピレーションの源を示して解明して行く。
其一が決して突然この不思議な屏風を描いたのではなく、先行作品と先人たちの影響やそこから借用した要素・モチーフの混合、「ハイブリッド」の成果だったとは、目から鱗的に納得させられる。
だがその納得と同時に、かえって「しかし、なぜ?」という疑問がますます深まってしまうのだ。
遠目には水ではなく群青の複雑なパターンに見えてしまうのが近くで観ると遠近感たっぷりの渓流の描写もそうだ。鈴木其一はぱっと見たときに誤解されかねないこと、観る者を混乱させかねないことを、意図的に、わざと、確信を持ってやっているのではないか?
遠目には群青のフラットな色面にしか見えないものに近づいて見れば、鈴木其一は円山応挙のような「写生」に学んだ巧みな計算を「夏秋渓流図屏風」に用いていて、西洋画の遠近法も明らかにマスターしていて、これが「琳派」的に様式化されたのとは異なった水の表現、いや水というより「川」「渓流」の描写を意図したものだったことが分かる。だがそれは同時に、鈴木其一があえてその「写生」的な表現を、ある意味対極にあって場違いな「琳派の金屏風」のコンテクストの中にわざわざ組み込んでいることにもなる。
なぜわざわざ、そんな複雑なことをやったのか?
西洋絵画の遠近法について言えば、「鎖国」の江戸時代とは言っても徳川吉宗の享保の改革で宗教書以外の西洋文献の輸入は解禁されていたので、江戸時代中期にもなれば書物の挿絵の銅版画などを通じて日本の絵師たちも学んでいた。一部では油絵具も輸入されて使われていたし、新しい物好きな江戸庶民をターゲットにした浮世絵では「浮き絵」という、手前のものは大きく遠くのものは小さく、画面中心の消点に向かって収斂していく数学的遠近法の理論を極端に誇張したジャンルも流行していた。
鈴木其一もまた明らかにその理論を習熟していたことが一目瞭然な作品も、今回展示されている。
あまりに洒落ていて突飛なので念のため説明しておくと、浅草の浅草寺の大きな楼門の柱の上にしつらえた足場からお札がまかれ、柱の下にはお札を求める群衆が殺到している光景だ。遠くを小さく、近くを大きくという数学的遠近法を其一がマスターしていたどころか、その「約束事」を極度に誇張しつつ、視点と消点の関連性はあえてズラして、その代わりに遠近の関係性を引力で真下に落下するお札の運動で表現する、と言うひとひねりもふたひねりも加えた洒落たセンスが見事で思わず笑ってしまうのと同時に、浮世絵版画の「浮き絵」ならば一目でなにをやっているのか分かるように描くであろうところ、鈴木其一がここでもそんな「分かりやすさ」は巧妙に避けていることに気づかされる。
浅草寺の節分の絵は軽い遊びのように、洒落で描いた一枚だと思うが、そこにも明確な「一目でわかる分かり易さ」は避けるアプローチは、「夏秋渓流図屏風」にも共通しているのではないか?
さらに言うなら「夏秋渓流図屏風」は「屏風」であり、つまりは生活空間のなかに立てられた時には平面ではなく立体になることを、鈴木其一はかなり意識していたように思える。円山応挙の「保津川図屏風」や「雪松図屏風」の発想が応用されてもいるのではないか? たとえば「雪松図屏風」は距離と角度によって右隻の雄松の太さや表情がまるで異なって見えるように描かれていた。
この記事のタイトル画像の写真は真っ正面から望遠レンズ(85mm)で、少し距離を置いて撮影した。遠近感は圧縮され、よりフラットに写る。さらに図版などとなると画面上の情報を忠実に記録するため、屏風は立てられた状態ではなく平らに広げた状態の写真を使うのが通常だ。ポスターやチラシなどでもしばしば同じ画像が使われるが、そうした完全にフラットな状態では、「夏秋渓流図屏風」の水は濃厚な群青の色面であることが強調され、水が奥から手前へと、遠近感のベクトルで立体的に流れているようにはほとんど見えなくなるだろう。
だが屏風であるのだから、そのような平板な見方は本来想定されていなかったはずだ。曲げなければ屏風は倒れてしまうし、日本家屋に置かれるのであれば床に座る生活なので、立った時と座っている時でも視点は大きく異なり、部屋の中に歩いて入って来て座るだけでも、近くだったり少し離れたり、さまざまな角度から観られるものだったはずだ。
こうした記事で、写真で美術品を紹介する時の限界で、やはり本物を見なければ分からないのだからから「ぜひ展覧会へどうぞ」と言ってしまえばそれまでのことではあるが、「夏秋渓流図屏風」のような美術品は、動きながら観ることでこそ、表面的には見えないなにかが立ち上がって来るのではないか?
絵画・美術品そのものは動かないからこそ、逆に静止した写真ではなく、それこそ運動と時間を捉えることが基本機能のメディアである映画でも作ってしまった方が、こうした屏風の本質は映し出せるのかも知れない。「夏秋渓流図屏風」ならばまずファーストショットで正面から望遠で捉え、ゆっくりと凝視するような垂直移動で近づいて行きながらズームを開いて広角にして行く。セカンドショットでは屏風を取り囲むような円弧状の曲線に沿ってキャメラをゆっくり横移動させて行けば、絵の中で最初は静止して凍りついたかのように見えた水流がやがて動き出し、青の色面だったものが渓流となって流れ出す瞬間を、捉えられるのかも知れない。
いやまあ、もちろんこれはしょせんただの紹介記事であり、読者諸兄にはぜひ展覧会で本物を前に、それぞれ思い思いに動きながら、視点を変えながら観ていただくのがいちばんなのが、当たり前ではあるが。
関東の絵師・鈴木其一、西へ
円山応挙の四条派・円山派の「写生」と江戸琳派の鈴木其一では流派が違う、という先入観に関しては、根津美術館ではただ「夏秋渓流図屏風」と「保津川図屏風」を並べて展示するだけでなく、其一の様々な作品を集めた第二展示室でこんな「タネあかし」まで準備してくれている。
見るからに応挙のスタイルというか、こうした寿老人を中心にした吉祥の三幅対のやわらかなタッチの絵を、応挙はさまざまな注文主の求めに応じて何枚も描いていた。だがそこで、中央の寿老人の軸の署名落款に注目してみよう。
これは鈴木其一が円山応挙の絵を署名まで含めて克明に模写した作品で、そこに自分の署名で「写した」と書き込んでいるのだった。
1年の12ヶ月のそれぞれに一枚ずつ絵を当てた其一の連作が、前期と後期で6点ずつ展示されているが、その1枚もいかにも応挙風のタッチだ。
実はこの鮎、そっくりな描写が応挙の「保津川図屏風」の左隻にある。
鈴木其一は江戸の琳派の絵師だが、京都の円山応挙との意外な関連性も含めて、「夏秋渓流図屏風」の成立についても非常に重要な、貴重な資料も今回展示されている。其一の京都旅行の日記だ。原本は残念ながら現存していないが、息子の守一による写しが残っている。
この日記によれば、其一は大徳寺などを訪れては所蔵された絵を見せてもらっている。応挙など円山派・四条派の絵を見る機会もあったに違いないし、その絵師たちのとの交流もあっただろう。だが「夏秋渓流図屏風」の成立についてもしかしたらそれ以上に重要だったのは、京都盆地を訪れたことそれ自体だったのかも知れない。
広大な関東平野で江戸は城から西は広くてほぼ平坦な台地、東側は大部分が埋立地で真っ平らで、そうでなくとも南にかけては緩やかな堆積土壌だ。起伏が激しく渓流が流れるような土地はあまりないので、珍しく断層性の起伏がある目黒や目白が大名家の下屋敷の人気の立地になったり、大名庭園にはわざわざ人工の築山を建造しているところも多かった。
それこそ滝ともなれば、関東平野の北限の日光にでも行かなければ目立ったものはない。其一の京都訪問日記に克明に写生されたスケッチを見るに、京都盆地とそれを取り囲む山々の立体的な風景は新鮮な刺激だったようだ。
滝といえば応挙の「保津川図屏風」と其一の「夏秋渓流図屏風」の共通性についてもう一点指摘しておくと、「保津川図屏風」の左右の水の流れの始まりは、右隻側には大きな滝がある。
円山応挙もまた決して、愚鈍なまでに忠実に「写生」する古典的絵師ではないことも、この滝の最上部の描写を見てもよく分かる。と同時に、これは応挙自身の有名な鯉の滝登り(「龍門鯉魚図」兵庫・大乗寺蔵)を踏襲した描き方でもある。そこで応挙は滝の垂直の水流そのものは白く塗り残し、その白い水流の向こうに見える鯉の身体を墨の縦線部分にのみ描いていた。こうした作品は円山応挙がある意味、たとえばフランス印象派を1世紀ほど先取りしていたと言えそうなほどの前衛的な画家だったと気付かせてくれると同時に、最晩年・最後の大作である「保津川図屏風」は、その集大成にもなっているのだ。
応挙の右端に描かれた水源の滝に対し、「夏秋渓流図屏風」で鈴木其一はその左右を反転させたかのように、左隻川の左端に描かれた水の流れの始まりに、やはり滝を描いている。
あるいはこうして並べてみると、直立する檜の幹に仮託された、「夏秋渓流図屏風」の画面上半分を支配する縦分割の垂直線は、応挙が滝の激しく速い流れを見せるのに用いた無数の垂直線から触発されたものなのではないか、とすら思えて来る。