19世紀の江戸で先取りされていた「現代芸術」

根津美術館の今回の展示は、「夏秋渓流図屏風」のミステリーを「ハイブリッド」という観点で、この謎めいた奇異な屏風を構成する様々な先行する絵画などのソースを解析することで解明してくれる。だがそれでこの絵の謎が氷解して腑に落ちるわけではなく、むしろこの異質で奇異で異様にも見える屏風が、それでも確かに日本の伝統絵画の流れの中に位置づけられ得ることが分かれば分かるほど、かえって謎は深まる。

鈴木其一はなぜ、こんなに幾重にも不思議なハイブリッドをやったのか?

なぜ我々はこの屏風に、不安すら覚えるような奇異さ、得体の知れなさを見てしまうのか?

画像1: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財

もしかしたらここで鈴木其一がやっているハイブリッドは、20世紀芸術の「コラージュ」の先取りだったのかも知れない。

いやいっそ極論を言ってしまうなら、現代芸術の扉を開いたのはパブロ・ピカソの「アヴィニョンの娘たち」(ニューヨーク近代美術館)と「ゲルニカ」(マドリッド、ソフィア王妃芸術センター)と言われるが、鈴木其一が「夏秋渓流図屏風」でやっていたことは、それらに比肩する絵画的実験の革新なのではないか?

「キュビズム」の発端となった「アヴィニョンの娘たち」は、最終段階で導入されたアフリカの仮面に目が行きがちだが、その全体の構図・主題・人物の配列・構成は、ルネサンス以降の西洋古典絵画の遠近法や構図理論のさまざまな伝統的な約束ごとを踏襲しつつ、それらをいったん整理分類した上で理論レベルに単純化し、そのすべてを脱構築的に組み合わせている。「キュビズム」自体が「世界を見たまま、ありのままに描く」ことを目標とした西洋古典絵画の、近くのものは大きく、遠くは小さく、すべてが消点に向けてむけて収斂して行く幾何学的遠近法の理論を転倒させて、複数の視点と消点の関係を同一のフラットな平面上にいくつも並立させることで解体・脱構築する理論だ。

画像: 鈴木其一 桜花返咲図扇面 江戸時代19世紀 細身美術館蔵 秋の紅葉した桜に花が咲くことは吉祥の、おめでたい光景とされ、「返り咲き」と言う慣用句の語源でもある。

鈴木其一 桜花返咲図扇面 江戸時代19世紀 細身美術館蔵
秋の紅葉した桜に花が咲くことは吉祥の、おめでたい光景とされ、「返り咲き」と言う慣用句の語源でもある。

自由な表現、世界を客観的・数学的・科学的な「ありのまま」ではなく自分が見たまま、感じたように描こうという「新しい表現」なら、フランス印象派の登場で「近代絵画」が始まっていたわけで、その「近代絵画」が黄金時代を謳歌していたエコール・ド・パリに突然「アヴィニョンの娘たち」が出現し、「現代絵画の誕生」へと一気の時代を先に進めたのは、ピカソが「見たまま、感じたまま」に描こうとする「近代絵画」をさらに超えるために逆に古典時代に遡って、ルネサンス以来の西洋絵画の「世界をありのまま」に捉えつつ「理想化して」描こうという歴史の根幹をあらためて踏まえながらも、逆にその基本哲学をクリティカルに解体する中に、絵画というメディアを成立させて来た根本的な概念それ自体を問いかけたところにある。

言い換えるなら、印象派が「絵画はどのように描かれるべきか?」と言う問いを解放することで近代絵画が始まったのだとしたら、ピカソが「絵画とはなにか?」「われわれはなぜ絵画という平面に描かれたものに三次元の世界を見て、そこに美を求めるのか?」という根源的な問いを解き放ったことでこそ、現代芸術は始まった。そして以降の20世紀、21世紀の芸術は、絵画に限ったことではなく、誰もがそのピカソが問い始めた命題を好むと好まざるに関わらず共有することを宿命づけられて進展し、時には後退もし、逡巡もし続けて来ている。

「夏秋渓流図屏風」の絵画的「出自」のハイブリッド性を理解していけばいくほど、かえって沸き上がって来る根本的な疑問の数々は、「アヴィニョンの娘たち」が問いかけている絵画の根源に関わる疑問に、どこかで明らかに通じている。

画像: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 左隻(部分) 紅葉した桜の葉が秋を表象している。

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 左隻(部分)
紅葉した桜の葉が秋を表象している。

いわば「ピカソ革命」に始まった現代芸術という巨大な問いの、最重要の手段のひとつであるコラージュと既存の文脈を無視した新たな組み合わせ、この展覧会で「夏秋渓流図屏風」に当てはめられた概念で言えば「ハイブリッド」は、「アヴィニョンの娘たち」が描かれた当時に黎明期からほんの2、30年ですでに最初の黄金期と完成期に入ろうとしていた「映画」という芸術メディアとも無関係ではない。つまりこのハイブリッドや画面空間上のコラージュを時間軸に敷衍すればそれはモンタージュになり、撮影した素材から一定の部分を恣意的に切り取って、その要素をもともとは異なった別の文脈の中へと観客の体験する時系列上に配置することで新たな意味を作り出す編集こそが、映画表現の根幹ともなった。

「夏秋渓流図」におけるハイブリッドあるいはコラージュの効果、鈴木其一が先人達の先行する要素を取捨選択しつつ画面上に組み合わせて行った創作手法には、これに共通する機能がいくつもありそうだ。あるコンテクストに別の要素を組み込むことで新たな意味を作り出すこと。分かりやすいところで言えば、この屏風で其一は右に「夏」、左に「秋」を描きながら、その夏の右隻と秋の左隻をあえて描き分けず、むしろ均質な表現を当てはめている。

画像: 鈴木其一 桜・銀杏図扇 江戸時代19世紀 個人蔵 【11月30日以降は裏返して銀杏の面を展示】 紅葉した秋の桜の葉と返り咲きの花。

鈴木其一 桜・銀杏図扇 江戸時代19世紀 個人蔵 【11月30日以降は裏返して銀杏の面を展示】
紅葉した秋の桜の葉と返り咲きの花。

檜は常緑樹なのでそれ自体には季節感はなく、岩もその岩肌や檜の幹の上にこびりつくように増殖している苔もまったく同じだ。夏の渓流も秋の渓流も色は同じ濃厚な群青で、背景もまた均質な、同じ金箔だ。夏には苔や下草が生い茂り、秋にはそこに落葉が散らばっているはずの地面も、同じ均等でフラットな緑青の緑に塗られている。

季節感の唯一の違いというか、その左右同じコンテクストに「夏」の表象、「秋」の表象という意味をそれぞれ付け加えているのは、夏には百合と熊笹、秋には桜の紅葉が描かれる…というか即物的に持ち込まれてあたかもコラージュする(貼り付ける)ようにそこに配置されることだけが、季節の違いという意味を画面上に生成しているのだ。

この夏の側、右隻に付け加えられた百合と熊笹がまた、この屏風に直面した我々を悩ませる。まるでピカソやブラックが実験的に絵画に新聞を貼り付けたり場違いに新聞を克明に書写したキュビズムの実験のような、違和感というか「異物感」が凄まじい。

画像1: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分)

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分)

まず百合のスケール感が明らかにおかしい。檜の幹の太さを超える大きさの百合の花、渓流とはいえその川幅の何倍もある長さの百合の茎なんてものは、もちろん存在しない。

それでも百合はまだ、フラットであえて立体感を殺した描き方がされているとはいえ、その上の檜の幹に止まっている蝉と同じくらい、精緻に細部まで描き込まれていて、リアルというかリアルを超えた描写になっている。

それに対しその下の熊笹は(琳派の約束事通りの図象ではあるのだが)極度に単純な図様に抽象化され、意匠化・デザイン化されていてまったくリアリティがなく、完全に「異物」のようだ。

同じ描かれ方の熊笹は、酒井抱一の意図的に平面的で装飾的な「青楓朱楓図屏風」の中では、琳派のデザイン化された要素の中でなんの違和感もない。

画像: 酒井抱一 青楓朱楓図屏風 江戸時代・文政元(1818)年 個人蔵 左隻の紅葉した楓の下に図様化・抽象化されて平面化された熊笹が描かれている。

酒井抱一 青楓朱楓図屏風 江戸時代・文政元(1818)年 個人蔵
左隻の紅葉した楓の下に図様化・抽象化されて平面化された熊笹が描かれている。

だが鈴木其一の「夏秋渓流図屏風」の中では明らかに、そして意図的に、まさに「異物感」としてそこにある。なにしろこの絵画を構築する他のモチーフとは明らかに描き方が異質な上に、ちょっとしたアクセントと言うには量が多過ぎて、まったく生命感のない描写なのに、妙にたくましく増殖までしているのだ。

画像2: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分)

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分)

この不思議に平面的で単純化された熊笹と、スケール感がおかしい、つまりは遠近法的に考えてもどう考えても場違いに大き過ぎる百合は、非常に複雑でやっかいな問題をこの絵を観る我々の受容に(鈴木其一からすれば明らかに意図的に)引き起こしている。

屏風を完全に広げたり、遠くから見てフラットになった画面では、直立して並ぶ檜の木は画面を縦方向に分割する抽象的な線にも見えるのが、屏風を曲げて立てた状態で、より近づいて角度を変えた時には、実は一本一本のそれぞれの太さが絶妙に描き分けられている。だからこそ、最初は遠くから平板に見えた空間も、近づいた途端に遠近法的な立体感を持ち始める。

その遠近感の奥行きは、この厄介な巨大な百合とフラットに増殖する熊笹がない秋の画面の左隻の方だけを見れば、より一目瞭然になる。

画像: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 左隻

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 左隻

ところが右隻には、生えている場所の位置関係からして遠近法的に明らかに大き過ぎる百合が咲き、極端に平板な熊笹が、無視しようがない存在感で、まるでそこにペタっとコラージュされたようにそこにある。その下の群青が、近くで見れば実は金の線の適確な描写で明らかな遠近感を持って渓流としてこちらに迫って来ているだけに、その遠近法的な空間性をあえて破壊するかのような百合の存在は、いったいどう受け取ればいいのだろうか?

画像: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分) 百合が咲いていることで季節が夏であることが示されるが、近づいてみれば明らかに遠近感を持って手前に流れてくる水流の上に、その遠近法をまったく無視したかのような巨大な百合は異様。

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分)
百合が咲いていることで季節が夏であることが示されるが、近づいてみれば明らかに遠近感を持って手前に流れてくる水流の上に、その遠近法をまったく無視したかのような巨大な百合は異様。

この部分など、手前の木と奥の木の位置関係も奥から手前に向かって流れて来る水も自然な遠近になっているはずが、完全に場違いに巨大過ぎる百合が、あえてそこに描かれている。

ピカソはその最高傑作となる「ゲルニカ」の創作中、民間人を含む無差別爆撃の人道犯罪という重大なテーマと、自らのフランコの軍事クーデタへの怒りの感情に向き合わざるを得ない中で果てしなく試行錯誤を重ね、何度も描き直し、構想を変貌させて行くうちに、完成作の個々の直接の要素はほとんどが、自作を中心とする先行作品のモチーフのコラージュの構成になって行った。しかも当初は無差別爆撃を受けたゲルニカの街頭を舞台にした絵だったのが、太陽として描いたフォルムの内側に電球のフィラメントが描き込まれ(つまり同じフォルムでも表象する意味が変わって)、全体が屋内に、そして地下室のような暗く狭い空間へと再設定された。結論から言えばこれは、あたかも既存の伝統的な戦争画の奥行きのある広大な戦場のドラマチックな空間性に決然と背を向けたピカソの意思を示す変更にもなった。同時に、その元は太陽として描いたはずのフォルムを完成作にも残すことで、ピカソは「ゲルニカ」の創作のプロセスをもその作品の一部としている。

主題の重さを別にすれば、「夏秋渓流図屏風」の画面上で起こっている問いは、「ゲルニカ」とその創造プロセスに近いのかも知れない。

絵画とはなんなのか?

写真でも同じことが言えるのかも知れないが、なぜ我々人類は一瞬の静止した瞬間しか描写できないはずのものに動きを感じ、時間の経過や物語すらそこに見い出そうとするのか?

「夏秋渓流図屏風」の画面下部の群青は遠目には静止した不定形のフォルムに見え、屏風の全体もまたフラットに凍結されているかのように静止しているのが、近寄って見れば渓流は勢いよく、画面の奥行きの方向でこちらに迫って来ている。だがそれは、あくまで我々が勝手にそう見ているだけで、塗られた絵の具が動いているはずもない。それでも我々はアニメーションで川が流れていてもなんとも思わず、映画や映像でも水流の効果音なしにはどんなに美しく撮った川でも背景情報くらいにしか受け取らないのに、絵画や写真でその流れの一瞬だけを切り取られると、それを見るだけで心を動かされてしまう。

完成された「ゲルニカ」の、半地下のような暗く平面的な室内のなかで、ほとんどの要素は静止し、画面の左で死んだ我が子を抱えて泣き叫ぶ母親にすらもはや動きはない。その静止=死の瞬間が永久に凍結された、狭く平面的な暗闇の世界で、唯一動いている存在は泣き叫ぶ母親と反対側の右から入って来るランプを持った女性像、あるいは女神像だけだ。彼女だけが運動を担っているという、ある意味異質な違和感こそが、「ゲルニカ」を20世紀絵画の最高傑作にしてこの時代の最も重要な芸術作品たらしめている。

「夏秋渓流図屏風」の大き過ぎる白い百合と熊笹は、ある意味この「ゲルニカ」の死と静止の空間の入り込んだ異質な女性像、より詳しく言うなら彼女が持っているランプの存在に近いのかも知れない、というのは言い過ぎだろうか?

画像3: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分)

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻(部分)

それでもこのように思えて来てしまう理由は、巨大な百合とフラットな熊笹の前に立つ、一際太い檜にある。今までさんざん、この屏風の檜は真っ直ぐ過ぎるほど真っ直ぐに直立していると書いて来たが、この一本の、それもこの屏風の中で最も太い木が、実はそうはなっていないのだ。

右隻で最も手前にあって、その背後に大きすぎる百合が咲き、平板過ぎて抽象化され過ぎた熊笹が無機質なのに生命感たっぷりに生い茂っている木でもあり、なぜか真横から描かれた蝉が止まっているその幹だけが、実は画面の内側に向かって緩やかに、しかし確実に湾曲しているではないか。

見る角度によってはこの木こそがこの絵の中心、主人公にも見えて来る。

画像: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財 右隻

本来ならいちばん目立っていておかしくない木なのに、なぜかそれだけがまっすくではなく曲がっていることに気づかないのか? 実はこの木が湾曲していること、そのフォルム自体に運動性があることにこそ、最初は一見すべてが凍りついたかのように静止しているように見えてしまう「夏秋渓流図屏風」の中で、群青の色面を水流として動かす秘密を握っているのかも知れない。このように、さまざまな要素が集合してひとつの絵画を形成するとき、それぞれの個々に描かれた各要素が目に見えない関係性を育んで、それ自体は静止しているはずの絵画全体に運動性や時間性、そして美を生み出すミステリアスな作用は、絵画芸術の本質そのものでもあろう。

芸術の現代性、あるいは現代芸術を語るとき、その定義は人それぞれいろいろあって当然だ。だが一点、その多種多様な「現代性」の概念に共通するものがあるとしたら、それは絵画なら絵画でその表現メディア自体を問う営みが、作品の本質に組み込まれていることだろう。だからこそその問いそのものを作品とした「アヴィニョンの娘たち」が現代美術の扉を押し開いたのであり、「ゲルニカ」が偉大な傑作なのも単に近代戦争の人道犯罪を問うた主題の重要性ゆえではなく、世界の問題や政治の非道をプロパガンダや感情的な扇動に陥らずに糾弾する絵画とはなんなのかという問いがピカソの創作の全過程を貫いていて、そのプロセス自体が作品に刻印されているからだ。映画ならばだからこそ、ゴダールの『勝手にしやがれ』から現代映画が始まった(いや筆者個人はそうではなく、溝口健二の『残菊物語』に始まって一部の日本映画が先行していた、とは言いたいところだが)。

だとしたら、「夏秋渓流図屏風」は実は、そうした絵画なのではないか? 鈴木其一が実のところなにを考えてこの不可思議な屏風を描いたのかは分からない。これだけ良質の、高価な画材をふんだんに用いた屏風を誰が注文したのかも不明だ(あまりに異次元な作品であることに、おそらく相当に面食らったのではないか、とは想像するが)。

だがそれもまた「現代芸術」の特徴として、作品は作品として、完成された瞬間から作家個人の人格とは切り離されて、別個の独立した存在としてそこにあるはずだ。

そしてこの「異様」で「奇異」な屏風は、その「まがまがしい」までの不可思議さで、観る我々の視線をあまたの理解不能な謎めいたモチーフで誘導し、我々を誘惑し続ける。

画像2: 鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財

鈴木其一 夏秋渓流図屏風 江戸時代19世紀 根津美術館蔵 重要文化財

重要文化財指定記念特別展 鈴木其一・夏秋渓流図屏風

画像: 宗峰妙超墨蹟 法語 鎌倉時代・元享2(1322)年 根津美術館蔵 重要文化財 同時開催のテーマ展示では「筆墨の魅力 禅僧達の書」を開催中。2F・展示室5

宗峰妙超墨蹟 法語 鎌倉時代・元享2(1322)年 根津美術館蔵 重要文化財
同時開催のテーマ展示では「筆墨の魅力 禅僧達の書」を開催中。2F・展示室5

開催期間:2021年11月3日(水・祝)~12月19日(日)

(※展示替え・ページ替えがあります)

休館日毎週月曜日
開館時間午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
入場料オンライン日時指定予約
一般1500円
学生1200円
*障害者手帳提示者および同伴者は200円引き、中学生以下は無料
会場根津美術館 展示室1・2

文化庁「ARTS for the future!」補助対象事業

オンライン予約: http://www.nezu-muse.or.jp/jp/timed-entry-reservation/
・ご来館前日までに日時指定入館券をご購入ください(クレジットカード決済のみ)。
・根津倶楽部会員や招待はがき等をお持ちで入館無料の方も予約が必要です。
・一回のご予約は4名までとさせていただきます。団体でのご来館は当分の間ご遠慮ください。
*障害者手帳提示者および同伴者は200円引き、中学生以下は無料。

※オンライン予約を行う環境が無いお客様のため、各日とも若干の当日受付枠をご用意いたしております。ただし、ご来館時にすでに当日受付が終了している可能性もあります。また、事前予約のお客様が優先のため、ご入館まで相当のお時間お待ちいただくことがございます。決済可能なクレジットカードならびにスマートフォン、またはパソコンとプリンタを利用できる環境をお持ちの方は、事前のオンライン予約をお願いいたします。

画像: 鈴木其一 群鶴図屏風 江戸時代・19世紀 個人蔵 会場及び作品写真は主催者の特別な許可により本展覧会の紹介のため撮影(通常、展示室内の写真撮影は禁止です) 撮影:藤原敏史 Canon EOS-RP, RF50mmF1.2L, RF85mmF1.2L, RF35mmF1.8

鈴木其一 群鶴図屏風 江戸時代・19世紀 個人蔵
会場及び作品写真は主催者の特別な許可により本展覧会の紹介のため撮影(通常、展示室内の写真撮影は禁止です) 撮影:藤原敏史 Canon EOS-RP, RF50mmF1.2L, RF85mmF1.2L, RF35mmF1.8

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