当初は昨年の夏に予定されていた展覧会だ。「鳥獣戯画」(正式には「鳥獣人物戯画」)全4巻を、巻き替え・場面替えなしに、全巻をまるごとすべて一度に展示する。ところが思いもかけなかった新型コロナ・ウィルスのパンデミックが起こった。

2015年の東京国立博物館での特別展「鳥獣戯画─京都 高山寺の至宝─」では、会場に入るまでの待ち時間が2時間3時間となるのも稀ではなく、しかも全4巻でもっとも有名な、1巻めにあたる「甲巻」の行列が会場内でさらに2時間待ちだったりした。

そもそも、そんなに大きな作品ではない。全4巻で長さこそ合計で約44メートルになるが、縦はたった30センチ強。コロナ禍が1年以上続いている今では当たり前になった事前予約制(予約サイトはこちらをクリック )で人数制限は厳格にできても、元々は一人で、巻物を自分の肩幅程度だけ広げて見るために描かれたであろう作品を目当てに、子供も含めて大勢の人が殺到するとなると、どうやっても「密」になるのは避けられそうになかった。

それが今年はなんと、満を持して開催されている。4月25日からは東京での緊急事態宣言発令が美術館・博物館の休館要請を含んでいたために中断されたものの、会期を6月20日まで延長し、開館時間も30分前倒し、閉館を1時間延長して再開されている。

画像: 「鳥獣人物戯画」を所蔵する京都・栂尾の高山寺(世界文化遺産) 国宝・石水院 鎌倉時代13世紀

「鳥獣人物戯画」を所蔵する京都・栂尾の高山寺(世界文化遺産)
国宝・石水院 鎌倉時代13世紀

「鳥獣戯画」の見方を変えた画期的な展示方法

2015年の展示では、「甲巻」にたどり着いた時には、係員や警備員が「立ち止まらないで下さい」と言い続け、とてもゆっくり落ち着いて見ることも難しかった。それも会期の前期に前半、後期に後半と半分ずつだけの展示だったので、あっというまに見終わされてしまった。今では飛沫防止で、そういった声かけもはばかられるし、2時間もの会場内の待ち時間だけでも「3密」になりかねない。

そこで出て来た解決策には驚かされた。いわゆる「動く歩道」を「甲巻」に並行して設置し、観客は歩くのでなく、動く歩道で絵巻に沿って移動しながら見るという。

これなら「密」は防止できるだろう。ただ、話だけ聞くとなんだかベルトコンベアーに載せられるみたい、と思ってしまうのも確かだ。ところが実際に行ってみると、単に「密」防止という以上の意外な効果で、感染防護の苦肉の策には留まらない、おもしろい展示方法になったどころか、これまで見落としがちだった「甲巻」のある本質が、ほとんど初めて今回明らかになった気がする。

まさに目から鱗の体験だ。

画像: 国宝 鳥獣戯画 甲巻(部分) 平安時代 12世紀 京都・高山寺 通期展示 冒頭、水遊び

国宝 鳥獣戯画 甲巻(部分) 平安時代 12世紀 京都・高山寺 通期展示 冒頭、水遊び

一定の速度で見進めることで、画面は順次目の前を流れて行く。ウサギとサルとカエルたちの様々な擬人的なアクションは、冒頭の水遊びから、全てがその川から始まる大きな流れのなかに位置付けられる。あいまあいまの繋ぎの部分に描かれた山や草花がこの流れの中で絶妙に機能し、場面は流れるように転換し、言葉は一切ないなかで、視覚情報によってこその、物語が展開しているのだ。

これはまさに…「映画的」としか言いようがない。あたかも長大な横移動のトラベリング・ショットを堪能するかのようだ。

「鳥獣戯画」といえば「甲巻」の愛くるしく滑稽な動物たちのイメージは、日本では誰もがどこかで見覚えがあるものだろう。現代日本の漫画やアニメーションの豊かな文化の源流としても賞賛されて来たのもかなりの部分、個々のウサギならウサギ、サルならサル、カエルやキツネそれぞれの動物たちの、単体の「キャラ」としての認識に多くを負って来た。

手塚治虫以来あらゆる漫画家やアニメーション作家がほとんど崇拝対象のようにこの国宝を絶賛し、高畑勲や宮崎駿が熱心に研究して来たこともよく知られているが、彼らがその詳細な分析を語る時はたいてい、個々のシーンを中心にした言及だ。

そうなるのもやむを得まい。全体を一気に、キャラクター描写中心にではなく絵巻の全体像をアクションの流れとして見る機会が、今までほとんどなかったのだ。なにしろ「甲巻」を前後に分けてではなく全体が一度に展示されること自体、今回が初めてである。これまでは動物たちが人間の真似をして水浴びしたり、踊ったり、相撲をとったり荷物を運んだり、袈裟をまとってお経をあげたり、というように個々のシーンを取り上げることになるのも自然な流れだったろうし、また個別のシーンまでは説明が可能だが、絵巻物としては極めて例外的なことに、この作品にはまったく言葉によるストーリー情報がない。絵と絵のあいだの解説となる詞書もないので、全体の物語らしきものを語るのは不可能に近く、そもそも本当はなにを描いた絵巻だったのかすら謎に包まれ、諸説が乱立して来た。

紙に墨で描かれた日本の古典美術は、保存の関係上本物を直に見る機会自体が限られる。展示できるのは連続して1ヶ月前後が標準で、だからこれまでの展覧会では前期と後期で半分ずつ巻き替え、という見せ方になっていた。一部の研究者などの特別な機会に恵まれた者を除けば、本物を全部一気に見られるのは今回が初めてなのだ。また絵巻物はその特異なフォーマットからして画集や雑誌でも、テレビなどの映像で紹介するのでも、どうしても一部を切り取ってとなる。だから当然、個々のシーンが中心の議論になってしまって来た。

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