元祖「マンガ」であるよりも、800年前に先取りされていた元祖「映画的表現」

しかも「鳥獣戯画」は作者不明ながら(我々の小学校時代には「鳥羽僧正」作と習ったが、これは誰のことだったのだろう?)絵師があまりにうまいので、ひとつひとつのディテールに見入るだけでもそこで語れてしまうことがまた膨大になる。結果、実に多くのことが「鳥獣戯画」について語られて来ていながら、我々はこの「流れ」について、つまりは「鳥獣戯画・甲巻」をその「全体」として捉えることに、かなり鈍感になってしまっていたのかも知れない。

画像1: 国宝 鳥獣戯画 甲巻(部分) 平安時代 12世紀 京都・高山寺 通期展示

国宝 鳥獣戯画 甲巻(部分) 平安時代 12世紀 京都・高山寺 通期展示

その認識が、今回の展示では根底からひっくり返った。

細かな筆致の巧みさのユニークな表現に注目したり、なにをやっているのかがパッと見ただけでは理解不能なシーンがあれば、立ち止まって見入って考え込みたくなってしまうところも確かにあるし、今回のベルトコンベア方式ではそこに不満が残る人もいるかも知れない。しかしこの絵巻の全体像とその流れを堪能するには、これは思ってもみなかった賢い展示方法なのだ。

なにしろ言語化されたストーリーの説明がないので、その「流れ」がどんなものなのかを言葉で説明するのは難しい。これはもう、とにかく本物をこの展覧会でぜひ見て頂ければ分かる、としか言いようがないわけだが、とても心地よい流れがあって、確かに言葉による説明を一切要しない、純粋に視覚的なストーリーを自由に読み取れることだけは、ここに明言しておく。

強いて言えば、筆者にとってはちょっと速すぎた。所要時間は2分半ほどだが、少なくとも3分が筆者にはちょうどいいスピードに思えるし、5分くらいならなおのこと良かった。最も、これは筆者自身の映画作品を見た人には、「お前の場合がかなり特殊なケースなだけだ」と言われてしまうに違いない。横移動でもパンでも素早いキャメラ移動はめったになく、普通の商業映画からすれば1.5倍くらいの遅さで、ワンショットが平気で5分とか10分に及ぶのも稀ではない撮り方なので…。

この展覧会の場合、入場制限をかけて密を避けても、やはり「甲巻」を見るにはソーシャル・ディスタンスを保った行列で10分から20分程度の待ち時間にはなるので、この2分半強の速度でなければ、もっと長く待たされることになって行列も密になってしまうだろう。またあまりに遅いと今度は細部に注目してしまって流れを感じられなくなる。

リュミエール兄弟の800年前に「映画を発明」していた平安後期の日本人

絵画や写真はそもそも、一瞬の光景を捉えるのが基本的な原理だ。そこに時間的な経過を表現するのは難しいというか、原則的には不可能となる。

ところが絵画や、後には写真でも、そうした視覚的表象を需要する社会の側からすれば、古代どころか先史時代、それこそ新石器時代の洞窟壁画にまで遡っても、視覚表現を人類が必要として来たのはまずなによりも、共同体が共有するなんらかの物語的情報の伝達手段としてだった。

物語である以上は、そこに時間の経過と展開の順序、その因果関係が描き込まれなければならない。だが絵画にせよ写真にせよ、そこで描写できるのは原理的に、ある空間を一定の静止した瞬間に切り取ることだけで、時間の経過や物事の展開を直接描き込むこと自体は、異時同図法などの特定の約束事を用いない限りは難しいし、異時同図法つまりひとつの画面に異なった複数の時制を描きこむのは、その約束事を教わっていなければ内容を読み取るのが難しいどころか、一人の人物を複数の別人と誤解してしまいかねない。

逆に言えば、19世紀の終わりの映画の発明が革命的だったのは運動・アクションを直接描写できたこと以上に、空間と時間を同時に切り取り再生・再現する手段を人類が手にしたことだったし、そこにこそアンドレ・バザンの「リアリズム論」「ミイラ・コンプレックス」理論の本質がある。アンドレイ・タルコフスキーの詩的な言語表現で言えば、映画は「刻印された時間」あるいは「時間の彫刻」なのだ。リュミエール兄弟が最初に発表した、それぞれに1分前後の世界最初の映画群はいずれも、『シオタ駅への列車の到着』でも『リュミエール工場の出口』でも、単に昼休みに工場から出て来る労働者たちや、駅のホームに近づいて停車する蒸気機関車の動きを捉えたことが革新的だったのでない。その一定の時間の中の一連のアクションの展開を捉え、そこにシンプル極まりないとはいえひとつの映像による「物語」が描かれていたからこそ、動く映像は投影できた魔法幻燈や、産業革命の時代に乱立した先端科学技術を応用した珍しい見せ物を超えて、「映画」という全く新しい表現を生み出す永続的な成功に至ったのだ。

ちなみにリュミエール兄弟社の『シオタ駅への列車の到着』の上映で、観客が列車が本当に迫って来ると思い込んでパニックになった、というのは「都市伝説」もいいところで、実際にそんなパニックが起こったという記録はない。一方で『工場の出口』も『列車の到着』もNGテイクがいくつも現存していて、つまり何テイクも実験が繰り返され、アクションの時間的な起承転結の流れを最も的確に捉え、かつ音楽的なリズムの抑揚が視覚的にも明確な決定版が興行に採用されていたことが、今では明らかになっている。

つまり「動く映像」としての「映画」の発明が革命的だったのは「動き」を表現できたからではない。動き、アクションの表現なら、実は静止した一瞬を切り取る絵画や写真でもまったく不可能ではないし、他ならぬ「鳥獣戯画」の「甲巻」の、縦横に動き回る動物たちの描写こそが、その分かりやすい実例だ。

画像2: 国宝 鳥獣戯画 甲巻(部分) 平安時代 12世紀 京都・高山寺 通期展示

国宝 鳥獣戯画 甲巻(部分) 平安時代 12世紀 京都・高山寺 通期展示

だが瞬間を切り取ることで動きは描写できても、時間の経過や流れは絵画や写真に表現することはできない。動く映像が「映画」という芸術表現として確立できたのは、「時間」とその経過に伴う展開を捉えられるからこそだった。

「映画」が19世紀の終わりに発明される以前に、絵画や写真の視覚表現という手段の一瞬を切り取るという特性とその社会的な目的のあいだにある齟齬・矛盾、つまり瞬間を静止させて描くので時間の経過と前後関係や因果関係を描写できず、物語を不完全にしか伝達できなかった問題について、ほとんど唯一の合理的な解決策に到達していたのが、平安時代後期の日本で成立した「絵巻物」ではないだろうか?

その「絵巻物」の芸術表現が成立した平安時代後期の、三大絵巻と呼ばれる「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)、「信貴山縁起絵巻」(信貴山朝護孫子寺蔵)、「源氏物語絵巻」(「隆能源氏」、徳川美術館と五島美術館に分かれて所蔵、なお上記3作品はいずれも国宝)に加えて、別格で例外的な最高傑作とも言われ、時にそれも含めて「四大絵巻」とも称されるのが京都・高山寺の「鳥獣人物戯画」全4巻だ。

11世紀や12世紀の日本で「絵巻物」がすでに「映画」を先取りしていたことの最も分かりやすい実例が「伴大納言絵詞」の冒頭・上巻の、応天門炎上事件の描写だろう。詞書による言語的な説明は皆無で、この絵巻を紐解いた者はまず冒頭、画面左方向に馬を進める検非違使(都の警護の任を担う役人)の姿を見る。右から左へと展開する絵巻物の約束に従うと同時にその走るアクションにも自然に誘導されて左へ、左へと見進めて行くと、野次馬たちも走り出し、その人数が増え、揃って左へ、左へと走っていくのを追っていくとやがて朱雀門(大内裏の南の正門)を抜け、そこには群衆が集まっていて、上には火の粉がチラチラと目に入る。彼らの視線を追ってさらに左に見進めると、応天門が猛然と黒煙と赤い炎を舞いあげている。

絵巻物は本来は全体を広げてではなく、肩幅程度に広げて右側に巻き取りながら見ていくものだ。そうやって見ることを前提とすれば、「伴大納言絵詞」の冒頭の表現は映画に喩えて言えばキャメラが朱雀大路の左側を北上する長大な横移動のトラベリングに等しい。その視覚的なクライマックスで燃え上がる応天門に至る描写の展開は、空間の移動と時間の経過が完全に一致して、まさに「映画」そのものの表現である。絵巻を右から左へと追って観る者の視点(映画ならキャメラ)はさらに横移動を続け、宮中の清涼殿前で(つまり群衆の反対側から)炎上する応天門を、今度は視線を右に向けて見ている黒い衣冠束帯姿の男の背中で、上巻は終わる。

後ろ姿の謎の人物は、この絵巻のいわば原作にあたる「宇治拾遺物語」における応天門の変の解釈(あるいは当時の朝廷が出した捜査結果と処罰)に従えば、放火した真犯人の大納言・伴善男とみなされるだろう。ただし一連の事件が伴善男を宮中から追放する藤原氏の陰謀と解釈することも可能だし、現にこの絵巻は発注主が一説には後白河法皇と考えられ、だとしたら後白河院は伴善男が藤原氏の陰謀で失脚させられたと考えていただろう。その後白河院的な立場で見るのなら、黒衣の人物は頭中将・藤原基経か太政大臣・藤原良房なのかも知れない。

あえて後ろ姿だけで解釈の多義性を残しているところまで含めて、この純粋な視覚表現による物語展開はまさに「映画」のナラティブそのものであり、放火事件の真相の捜査が進む中巻、真相の暴露が一大政治スキャンダルになり主人公・伴善男の失脚に至る下巻へと続くのも、一級の政治サスペンス映画とみまごうばかりだ。

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