実在した釈迦の体である舎利が五智如来に、そして運慶の大日如来と向き合って生まれる曼荼羅世界

国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、鉄宝塔 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺

叡尊が舎利を納めるために造らせた宝塔には、金銅のものと、鉄製のものがある。鉄の宝塔は通期の展示で、前期の展示を紹介した前記事でも詳しく触れたが、金銅の宝塔は文永7年(1270年)、鉄のものはその14年後の弘安7年(1284年)に造られている。

この間には二度の元寇が起こっている。金銅の宝塔が造られた文永7年には、すでに元が日本に何度か国使を派遣しては拒絶され続けた中で、両国間の緊張は増していた。もう一方の鉄宝塔は、弘安の役の3年後の製作だ。

叡尊による舎利の宝塔の製作がそうした政治情勢とどう関係しているかは分からない。だが源平合戦と鎌倉方の武家どうしの内紛、そして承久の乱と、戦乱や軋轢が繰り返された末にやっと安定した中世の新しい社会体制に、またもや不穏な動乱の気配が忍び寄っていた時代に造られたものなのは確かだ。

叡尊がそんな時代にこそ釈迦が説いた修行マニュアルの「戒律」、悟りと救済に至れる(かも知れない)道への教えを広めていたことは、頭の片隅には留めておきたい。現世が戦乱などで苦しければ苦しいほど、過去の人々、それも政治権力を握っているわけではない例えば庶民は、祈るしかなかったのだ。

国宝 鉄宝塔および五瓶舎利容器、五瓶舎利容器 鎌倉時代・弘安7年(1284)奈良・西大寺
この五つの瓶形の舎利容器が、中央のより大きな容器を中心にして鉄の宝塔に収納される。中央のより大きな瓶型の容器が大日如来、五つで金剛界曼荼羅の中心の五智如来を構成する。

鉄の宝塔には五つの容器に分けた舎利が納められるようになっていて、つまり金剛界曼荼羅の中心である五智如来を表しているはずだ。

前の記事では「なぜこうなるのかよく分からない」と書いたのだが、後期の展示ではここまでが叡尊の分身像の前に展開していること、つまり叡尊の視野の中で鉄宝塔の五智如来と、運慶のとても人体のリアリティに則った表現の大日如来坐像が向き合っている、それが叡尊坐像の真正面に展開し、つまり叡尊が運慶の大日如来と向き合っていることに気づいて、ようやく意味が腑に落ちた。

展示風景、叡尊坐像、叡尊が崇敬した舎利容器二件、叡尊が造らせた五智如来を表す鉄宝塔と、五智如来の中央・大日如来(運慶作)が一直線に並ぶ。運慶の大日如来の後ろには、台座に墨書された銘文と現代語訳のパネル。

そもそも釈迦が説き、鑑真が日本に伝えた「戒律」とはなんだったのか? 「戒律」と言われると現代人はルールや禁止事項、それを犯すことは「罪」と捉える西洋的な考え方は、仏教の「戒律」は必ずしもそういうものではない。

殺生をしてはいけないとか飲酒を戒めること、物欲や執着を律することや、他者を思いそのために尽くす「利他行」を奨励する「菩薩戒」など、いずれも道徳を説いていると同時に、邪な心や迷いを排除して悟りに至るための修行マニュアルでもある。鑑真が聖武天皇と藤原光明子、孝謙天皇に授けたのも「菩薩戒」だったし、叡尊もまた「菩薩戒」を重んじて社会事業にも尽力した。

鑑真とともに叡尊の思想の根幹を形成しているのが、空海の密教だ。金剛界曼荼羅の中心である五智如来、大日経とその視覚化である胎蔵界曼荼羅と併せて世界の中心であり世界そのもの、宇宙の存在する根本論理とされた大日如来(別の呼び名は盧舎那仏、つまり東大寺の大仏)というのが空海がもたらした曼荼羅の世界観だが、空海もまた利他行を重んじたと信じられて来たことは、日本の全土にある空海が溜池や水路を造った、ここで教えを説き寺を開き病を癒した、といった無数の伝承からも窺える。

鑑真の律宗、あるいは叡尊の真言律宗とは、釈迦の説いたそうした戒律を守ることで釈迦をお手本として悟りを目指す教えだ。

一方の空海によれば悟りとは、世界が大日如来であって自分もその世界の一部である、つまりは自分もまた大日如来の一部であることを実感として理解することで、ひいては自分の意識が大日如来と同一化することへとつながるのが、空海のいう「即身成仏」だ。それが本当に体感的に、実感として理解できた時、利他行つまり他者に尽くすことは、その他者も自分も宇宙=大日如来の一部であることを通して、自分自身のための行いにもなるはずだ。

実存した人間であった釈迦の肉体の名残である舎利が五つに分けられ、それが五智如来になり、そして大日如来になるということは、つまりは生身の人間のまま悟りに至って大日如来と同一であることを実感する「即身成仏」を、具象的なシミュレーションとして、表現しているのではないか?

しかも金剛界曼荼羅の中心である智拳印を結んだ大日如来を表す運慶の像を中心に、展示空間が曼荼羅を構成していることに、運慶の大日如来坐像の横を見ると気付かされる。つまり第三章の『釈迦を慕う』と第四章の『美麗なる仏の世界』の展示は、叡尊の五智如来を表す鉄宝塔と運慶の極めて肉体的・身体的なリアリズムの大日如来坐像が向き合うことで、実は叡尊の主観が見ているひとつながりの展示になっているのだ。

展示風景、運慶の国宝・大日如来坐像(円成寺)の横に、現世での行いに応じて輪廻転生で生まれ変わる先々を描いた六道絵(鎌倉時代・13世紀、聖衆来迎寺、国宝)と、阿弥陀如来の来迎が大自然の風景と一体化した山越阿弥陀図(鎌倉時代・13世紀、京都国立博物館、国宝)が並ぶことで、展示室内に曼荼羅の世界観が構成されている。大日如来坐像の後ろには、六道の思想を表現した絵巻物の地獄草子(奈良国立博物館)と餓鬼草子(東京国立博物館)が並ぶ。

「美麗なる仏の世界」という題名も、実はダブルミーニングだろう。

「美しく華麗な仏教美術」という普通の受け取り方の一方で、「仏の世界」とは大日如来を中心とする世界、この宇宙そのものこそが「仏の世界」でもあり、国宝指定を中心とする仏教美術それ自体と同時に、そこに描かれたもの、後期の展示作品ではいずれもひとつの情景や光景、風景であったりするもののひとつひとつもまた「仏の世界」だ。

展示されているのは京都国立博物館の国宝「山越阿弥陀図」と聖衆来迎寺の「六道図」という、普通の理解では浄土信仰の教えの代表的な絵画化だ。さらに後白河法皇の周辺で作られた「地獄草子」の奈良国立博物館所蔵の部分、同じく「餓鬼草子」(東京国立博物館)が続く。

国宝 六道絵 阿鼻地獄・人道不浄相 鎌倉時代・13世紀 滋賀・聖衆来迎寺 展示期間 5月20日〜6月15日
右は最悪の罪を犯した者が堕ちる地獄のひとつの光景、左の「人道不浄相」は人道、つまり人間として生まれ変わった時に待ち受ける運命で、人はやがて必ず死に、遺体は腐敗し、野犬や野鳥に貪られ、朽ち果てていく。

こと「六道絵」や「餓鬼草子」が描くのは決して「美麗なる」光景ではない。しかしそこまでもひっくるめて「仏の世界」=大日如来であり大日如来の慈悲に満ちた宇宙であることは、間違いない。

仏教では死後は別の生命に輪廻転生すると考え、生まれ変わり先は現世での行いに応じて地獄、餓鬼道、畜生道つまり動物、果てしなく争い殺し合いを続ける修羅道、人道つまり人間、そして天上界の天道、この六つに分けられる。六道絵とはその生まれ変わり先のそれぞれの世界を描いて現世での戒めとし、あるいはどこに生まれ変わっても結局は虚しいので悟りに達して解脱するか、阿弥陀如来の救済にすがって極楽浄土への生まれ変わりを祈るよう説くものだ。

全15幅からなる聖衆来迎寺の六道絵は、大画面に達観するような距離感の微細な小さな人物像で、西洋絵画ならヒエロニムス・ボシュに通じるような達観した表現で、それぞれの生まれ変わり先に待ち受ける冷酷だったり過酷だったり虚しさに覆われた運命を描く。

なかでも「人道不浄相」が大日如来の横、釈迦の遺骨とされる舎利を納めて五智如来を表す五つの瓶型容器の向かいにあることには、深く考えさせられる。

描かれるのはいわゆる「九相図」、野原に打ち捨てられた人の遺体が次第に腐敗し、野生動物に食い荒らされ、白骨となりち果てていく過程を画面上から下に向けての時系列の異時同図法で描く。つまり私たちの命とはしょせんそんなもの、何事も不変ではなく時間の流れの中ではすべてが虚しく、その先に「地獄草子」「餓鬼草子」の二つの絵巻が続き、ということは・・・つまり人として生まれた私たちが死に、私たちの遺体が朽ちていくことすらこの世界の摂理、という現実を受け入れることだろう。

だがその私たちの命が潰えた肉体が、時の経過で自然に帰っていく光景が、世界そのものでありその根本論理である大日如来の背景にある。 つまり人が死にその遺体が朽ちていくこともこの世界の摂理であり、私たち自身が自然の一部へと回収され、自然の一部となることもまた、この展示の組み合わせは意味していないだろうか?

国宝 餓鬼草子 平安時代・12世紀 東京国立博物館 展示期間 5月20日〜6月15日
六道のうち、生前に貪欲で食べ物を貪ったり無駄にした者が転生する「餓鬼道」の世界を、我々人間の世界(「人道」)に目に見えない形で寄り添って存在しているものとして描き、風俗描写としても価値が高い。平安時代後期、後白河法皇の宮廷に関わって描かれたとみられる。現存部分の二番目の場面は、出産する高貴な女性の生まれたばかりの赤子を餓鬼に食わせようとする周囲の女官たちや僧侶たちの陰謀を描き、空恐ろしい。
なお死体を貪り喰らう餓鬼ないし夜叉は、空海が伝えた胎蔵界曼荼羅のいちばん外側の周縁部にも描かれている。

「山越阿弥陀図」は阿弥陀来迎図の一種で、死者の魂を極楽浄土に連れていくために阿弥陀如来が観音・勢至両菩薩を引き連れてやって来る姿を日本の風景の山越しに、来迎を受け入れ死にゆくものの視点から描いたものだ。その臨終の主観の中では、山々と仏が同一化・一体化して見えるはずだ。

つまりは究極のところ、浄土とはこの現実世界とその大自然であり、自分もまた宇宙そのもの=大日如来の一部で一体だと気づき、その大宇宙に魂が回帰してゆくことを受け入れることこそが悟りであり究極の心の安寧、とも解釈しえる。

密教ではこの世界と大自然、宇宙そのもの=大日如来、その中心にある根本論理の擬人化が大日如来であり、この像の分析は前の記事に詳しく書いたが、その真理の体現を人間の身体のリアリズムで表現したのが、若き運慶だった。

国宝 大日如来坐像 運慶作 平安時代・安元2年(1176) 奈良・円成寺
大日如来を中心に横に山越阿弥陀図と六道絵、地獄草紙、向かって左に釈迦如来、奥に阿弥陀三尊とその前に(観音)菩薩という、展示室内に再構成された金剛界曼荼羅

その身体的リアリティに満ちた運慶の大日如来坐像を中心に置いた「仏の世界」としての展示の中で、「山越阿弥陀図」も、「六道絵」の阿鼻地獄も人道不浄相も、「地獄草子」の地獄も、「餓鬼草子」の餓鬼の苦しみですら、それぞれが金剛界のひとつひとつの区画に相当するのではないか?

金剛界曼荼羅は三掛ける三の九つの区画からなり、中心の成身会に向けて螺旋状に、悟りに至る各段階を示す。個々の区画では成身会の五智如来と実は同じ基本構造が、それぞれ形を変えて繰り返され、実は同じ真理が間接的であるぶんより分かり易い、身近な形で表されていて、段階を追って徐々に真理の本質に近づく、というコンセプトだ。

ひとつの究極の真理の異なった見え方で、山々が阿弥陀の救済と同体になって見えるのも、遺体が朽ちていく自然の摂理も、そして因果応報の地獄ですら、そこに隠れた真理イコール大日如来をそれぞれに見出すことの積み重ねが、世界をありのままに「仏の世界」として認識することになる、つまり悟りで「即身成仏」と考えるべきなのではないか?

国宝 地獄草子 「鉄磑処」 平安時代・12世紀 奈良国立博物館 展示期間 5月20日〜6月15日
生前に人のものを騙し取った者たちが鉄の臼に上から入れられて、下からすり潰された身体になって出て来る。グロテスクな光景ながら絵師のズバ抜けて的確な筆力が際立つ

「餓鬼草子」の現存部分の二つ目の場面では、高貴な女性が出産しているが、その生まれたばかりの赤子を餓鬼に喰わせて亡き者にしてしまおうと、周囲の女官や僧侶までが陰謀をめぐらせている。出産の痛みに耐えるのは天皇の女御か有力貴族の妻なのだろう、その子の命を奪ってしまうことも権力争いでは重要になった。

女官達も僧侶も笑っていて、いかにもおぞましい場面だが、これに近い状況は天皇の皇子を自分の娘に産ませることで権力を掌握してきた藤原氏の摂関政治で、実際に繰り返されて来たことかも知れない。たとえば道長の父・兼家の時代には花山天皇の寵愛した女御が妊娠中に亡くなっていて兼家の呪詛が疑われるし、その花山院を退位に追い込んで即位させた孫の一条天皇の時には、中宮で道長の姪・藤原定子が出産直後に亡くなり、その死が定子の兄・伊周の失脚と道長の最高権力者としての道につながっていった。

この絵巻を作らせたのが後白河院だったとしたら、この場面は法皇の、そうした藤原氏への批判や敵意を反映したものとも考えられる。

だがリアルな肉体的存在感たっぷりの運慶の大日如来を囲むような場所でこの光景を見ると、そんなおぞましい悪意と権力闘争ですら、ただ敵意や憎悪を向ける対象ではなく、それでもなお人間の世界の一部としてありのままに受け入れ、まず知ることも自らの学びであり考える糧とすべきではないか、と思えて来る。悪ですら否定して破壊しようとするのでなく、まずその存在を認めないことには、「世界平和」もあり得ないではないか。

釈迦の戒律は「煩悩」を戒めるが、金剛界曼荼羅の理趣会では、性欲や官能の煩悩に一時は身を任せることすら悟りに向かう一段階、煩悩を理解することも重要と説く。

国宝 阿弥陀三尊および童子像 平安時代〜鎌倉時代・12〜13世紀 奈良・法華寺 展示期間 5月20日〜6月15日

そして北側のギャラリーの最奥には、五智如来と大日如来を挟んで叡尊坐像と向き合っているかのように究極の救済の仏である阿弥陀如来、法華寺の阿弥陀三尊図と、その阿弥陀の前に分身・救済の実行のための仮の姿であり修行段階の前身でもある菩薩の半跏像(観音)がいるのだ。

法華寺の阿弥陀三尊および童子図の前に、阿弥陀如来の分身であり救済の実行のための仮の姿ともみなされる観音菩薩(正確には尊格が未判別の菩薩半跏像、宝菩提院願徳寺)

その宝菩提院願徳寺の菩薩半跏像の肩越しに、斜め前に見えるのは釈迦の入滅(死)を描く涅槃図の、その後の光景を描いた珍しい仏画だ。

国宝 釈迦金棺出現図 平安時代・11〜12世紀 京都国立博物館 展示期間 5月20日〜6月15日

釈迦が死期を悟って涅槃に入ろうとした時(つまり亡くなろうとする時)、母の麻耶夫人が天上界からその場に駆けつけようとした。自分が間に合わないので薬の布包みを先に使わすが、その布包みは開かれることなく、薬も使われないまま釈迦は入滅した。涅槃の釈迦の横の木にぶら下がったままになっている布包みも含めて、涅槃図の約束事の絵柄だが、この「釈迦金棺出現図はその後の出来事を描く。

麻耶夫人が棺に納められた釈迦の遺骸のものにようやく辿り着くと、亡くなったはずの釈迦が棺から立ち上がって、母に最後の説法を行ったという。中央に、無数の小さな黄金の仏の光背を前に合唱しているのが甦った釈迦、その目線の先に赤い衣に緑の頭巾と肩衣の麻耶夫人が周囲よりも大きめに描かれている。釈迦の左の白い布包は、截金の金箔の格子が鮮やかだ。

この絵が釈迦の遺骨とされる舎利を収めた5本の瓶型容器の並びにあり、また「六道絵」の人道不浄相との対比で言えば人は必ず死にその肉体は潰えていくが、釈迦の涅槃に間に合わなかった母・摩耶夫人の悲痛な願いのような特別な情愛の瞬間には、一時的な刹那にせよその摂理が覆えることもある、そんな自然で真摯な情愛も真理の一面であると伝えるために舎利の並びに、親子の最後の情愛の光景が観音菩薩の斜め前に展開しているのかも知れない。

だがここで誤解してはならないのは、釈迦は決して基督のように復活したわけではない。ただ母が自分の死を受け入れられるようにするために、最後の説法を行っただけで、悟りに達した如来である釈迦であっても生身の人間である以上、いつか命は潰えて肉体は朽ちていく大宇宙の摂理は受け入れる他ないのだ。

そういえば叡尊坐像に、叡尊はさまざまな経典や自誓文書などに交えて、自らの父母の遺骨も納めさせていた。