十一面観音菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・海住山寺 重要文化財

薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財

平安時代後期に確立するような、穏やかで安らぎを与え仏による救済を予感させるような顔とは別次元のなにか、極端に丸っこいのだが太く力強い鼻や、尖って屹立しているように錯覚してしまいそうな頭髪の螺髪、厳かな無表情は怒りにさえ見え、落ち着きと安らぎを与えるのが如来像だというのに、畏れを超えて怖さすら感じる。

薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財

右手を正面に向けているのは施無畏印と言って、「恐れないでよい」という意味のポーズのはずだが…とてもそうとは思わせない威容をこの像は湛えている。

古くは飛鳥時代には、法隆寺を聖徳太子が建立した時の最初の本尊が薬師如来だったり、この阿弥陀寺の像と同時代ならば比叡山延暦寺の絶対秘仏本尊が最澄自らが彫った薬師如来、空海の開いた高野山も密教では大日如来が宇宙の中心で宇宙そのものでもある最高位の仏なのに金剛峯寺の本尊は薬師如来、京都での本拠地となった東寺(教王護国寺)も本尊は薬師如来坐像、空海自身が長く住んだ神護寺の本尊は阿弥陀寺の像にも似通った怒りすら感じさせる顔貌の重厚な一木造りの薬師如来立像と、飛鳥時代から平安時代初期にかけて薬師如来を本尊とする寺院はとても多い。さらには今は釈迦如来として祀られている仏像が元は薬師如来として造られたと推定されるのも室生寺、南山城では笠置町の法明寺などがある。

この時代、薬師如来は単に個々人の病気の恢復や予防、疫病の退散だけでなく、水害や地震、火山の噴火などの天変地異で社会全体が傷つくことも同列にみなされていたという。さらに「古事記」や「日本書紀」に記された仏教伝来以前の日本の神話では、そうした疫病や天変地異の災厄がカミガミの怒りや悲嘆、天岩戸伝説のようにその気まぐれに起因する世界観が読み取れる。

この薬師如来像が長らく安置されていたのは枇杷庄天満宮社、つまり菅原道真を「天神」として祀る場所だが、道真が天満宮や天神社で神格化されるようになったのは、別にただ天皇に忠孝の思いが強く学術に秀でた、実直で優れた官僚だったから、ではない。左遷され、その不可解な死に方に憤死が疑われ、しかもその死後にその怒りが現出したかのように宮中の清涼殿への落雷などの天変地異が相次ぎ、「道真の祟り」とみなされたからだ。

荒ぶる神と怨霊の祟りを、かつての日本人は疫病・天災の原因として恐れていた。それ自体は悪とも善とも判然しない「荒ぶる神」や怨霊に起因する、人智を超えた大自然の猛威そのものでもある厄災からどう人々を守るのか?

薬師如来立像 平安時代・9世紀 京都・阿弥陀寺 重要文化財

薬師如来が左手に載せているのは、薬壺だ。

本来は生きる苦しみを取り除くか軽減することで人々を悟りに導こうとする存在で、転じていわゆる現世利益の、たとえば病を癒し疫病を退散させる仏への信仰が古代の日本で強まったのには、それなりの現実があった。

恭仁京が木津川のほとりに置かれたり、その上流には日本で最初の貨幣の富本銭や和同開珎が鋳造された銭司があったのも、木津川の水運の役割が大きかったはずだ。だが同時に、その木津川こそが地形図を見ると山間部からの急流が盆地で曲がりくねった流路を描いていて、現地を見ても上流から大量の土砂を含んで流れ込んで来た痕跡が分かる、いかにも氾濫を起こしそうな川でもある。木津川市加茂地区の、恭仁京や銭司、少し下流になる高麗寺などがあった平地の部分は、地形的に見るからにそうした氾濫で運ばれた土砂が広がって形成された土地だ。

大自然の営みの恵みが時に人間の営みに牙を剥くとき、人間はあまりに無力だ。だからと言って洪水を避けて川のない場所に定住しようとしても、水運はおろか今度は農業用水にすら事欠くことになるし、農地になる平地すらないかも知れない。同じ自然現象が恵みにも、危機にもなり得るのは、実は現代でも根本的には変わらない。とはいえ科学技術が未発達な古代に、そのことはより切実なリアリティだったはずだ。

あるいは海住山寺の十一面観音菩薩立像に象徴されるような海外との活発な交流も、天然痘などの伝染病もまた海を渡ってやって来る。海住山寺の前身・観音寺が創建されたとされる天平7(735)年は、九州の太宰府で天然痘が発生した年だ。2年後には平城京での大流行に至り、最終的には日本の全人口の3分の1が亡くなったとも言われ、聖武天皇の大仏建立、国分寺と国分尼寺の設置、鑑真の招聘といった仏教浸透政策もこのパンデミックの悲劇を乗り越える意味があったのだろうし、墾田永年私財法もパンデミックの極度な人口減で公地公民制度が立ち行かなくなり、農業生産も激減したからだ。そして天然痘は、その後も何度も流行した。

枇杷庄天満宮社と阿弥陀寺は、木津川の中洲や支流が入り組んだほとりにある。つまり豪雨があれば真っ先に氾濫しそうな場所であり、同時に、その川の氾濫が運んだ土砂があったからこそ平坦な土地が広がっていて、豪雨さえなければ人間にとって居住や利用に最適の場でもあった。

この薬師如来立像も、水害防止が目的だった可能性が高い。

日本の伝説的な仏教僧の、平安時代初期なら弘法大師空海、奈良時代では民衆救済に励み生き菩薩と崇められた行基には、無数の治水工事に関する伝承が遺る。仏教は文明先端地域とみなされた中国大陸やさらにはその先のインドから伝わった教えとして、その世界観に根ざした論理的な道徳律と同時に、土木工事の知見と先端技術を伴った、今日に当てはめていえばある種「科学」のような意識で日本人に受け入れられていたのだろう。とは言っても行基や空海の時代の土木技術や医学知識だけでは、いかに唐から学んだ最先端でも、それで天災疫病が避けられたわけではもちろんなかった。

牛頭天王坐像 平安時代・12世紀 京都・松尾神社
牛頭天王は古代インドの神々が仏教に取り入れられた「天王」(四天王、十二天など)とは異なり、神仏習合の信仰の中で生まれた日本独自の尊格

荒ぶるカミガミや怨霊を鎮めてほしいという、仏教伝来以前から日本人に根ざしていた直感的な祈りにも応えなければならない必然から、古来のカミ信仰も仏教に取り込まれて自然と神仏習合の信仰体系が成立したのだろうし、川が氾濫すること、つまり川のカミが暴れることを抑止しようとして、この薬師如来立像は大自然の神秘と神聖さを反映した木の質感をあえて残すと同時に、畏れを抱かされるような造形になったのではないか?

日本の荒ぶるカミの典型が、「古事記」「日本書紀」に登場する素戔嗚(スサノオ)尊だろう。「古事記」には抑えきれない激しい愛情で相手を絶命させてしまった素戔嗚が膨大な涙を流し、それが洪水を引き起こしたと読める記述もある。そんな激情を抑えきれずに暴れる弟の素戔嗚に、姉の太陽神・天照(アマテラス)大神が機嫌を損じて天岩戸に隠れてしまい、皆既日食のような暗闇になってしまうのもまたある種の荒ぶるカミ、理解を超えた天変地異に恐れ慄いた古代の人たちの産んだ神話だろう。こうして天上界を追放された素戔嗚が地上で八つの頭と尾を持つ大蛇・八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治するのも、氾濫を頻繁に起こす支流が多い河川の治水を行った、とも解釈できる。

カミが宿りそうな大木から彫り出した一木造りの仏像というのは、現代人が神社の境内の巨木の御神木をパワー・スポットと考える感覚に、通じる意味を持っていたのではないか?

だからこそ「木はあくまで木である」、そのことを活かした表現が生まれ、とりわけ厄災をもたらす怨霊を退けたい、鎮めてほしいという願いから、その顔が悪霊を威圧して寄せ付けないような険しく厳しい表情にも、なったのではないか?

なおこの写真の像の牛頭天王とは、修験道の蔵王権現などと同様に、神仏習合の過程で日本で生まれた独自の「天王」だ。

牛頭天王坐像 平安時代・12世紀 京都・松尾神社

仏の格としては四天王や十二天と同格で、のちには素戔嗚尊ともしばしば同一視された。代表的な例が京都東山の、現在の呼称は元の地名から取られた「八坂神社」、かつての呼称は「祇園社」で、ここは明治の神仏分離以降の主祭神は素戔嗚尊だが、本来は牛頭天王を祀る「祇園感神院」という、元は興福寺系の寺院だった。「祇園」はもちろん仏教の祇園精舎が語源で、のちに有名な花街となったこの門前が「祇園」と呼ばれているのもむろん「祇園社」から来ている。

高さほぼ3メートル! 桜の巨木から彫り出された十一面観音菩薩

十一面観音菩薩立像 平安時代10世紀 京都・禅定寺 重要文化財

禅定寺は南山城の北部、木津川ではなく宇治川の上流にあたり山間部を複雑に曲がりくねって流れる瀬田川沿の、宇治田原町にある。滋賀県の県境、かつての言い方では近江の国との国境も近い。川を水運に使えたとはいえ、遡って高さ3m近い巨大な仏像をここまで運ぶのは大変だったはずだ。

しかもこの寺は東大寺の別当によって末寺として10世紀末に創建され、本尊の巨大な十一面観音菩薩は、その東大寺で活躍した仏師が関わったと想定されている。つまり奈良からここに運ばれたはずだ。

平安京に遷都して200年ほど経った時代の、もちろん木の仏像だが、気のせいか、どこかしら奈良時代の乾漆の観音像、たとえば東大寺法華堂(三月堂)本尊の国宝・脱活乾漆不空羂索観音菩薩立像や、とくに聖林寺の国宝・木心乾漆十一面観音菩薩立像に似通った雰囲気を感じるのも、そのせいだろうか?

十一面観音菩薩立像 平安時代10世紀 京都・禅定寺 重要文化財

一方で、これだけ大きな像でありながら、9世紀の仏像のような、畏怖するしかないような厳しさ、険しさ、威圧感はそう感じない。全体に漆を塗って金箔を貼る漆箔の、漆の層が厚めなののかもしれないが、上腕部の腕輪などの彫りの精緻さの一方で、衣の表現などはずいぶん控えめで目立たないというか、以前の時代の激しさや重厚さが抑えられて、どこか柔らかになった印象がある。

横から見ると、この印象の違いがどこから来るのかが分かる。

十一面観音菩薩立像 平安時代10世紀 京都・禅定寺 重要文化財

衣のひだの彫り込み方が、9世紀に比べてずっと浅い。また胸や腹部は堂々たるボリューム感の一方で、下半身、特に足先に向けて前後が薄くなっている。こうした特徴は日本の彫刻史のなかで「和様化」と言われる。

顔立ちはずいぶん丸顔だ。眼窩の彫りもそう深くなく、一見優しげで親しみやすくも見えるが、鼻の稜線と眉の線はシャープで、細く開けた目の奥に見える眼差しは厳しい。仏像の眼球に水晶やガラスを入れる玉眼は鎌倉時代の技法で平安時代にはまだ用いられていないが、おそらく彩色なのだろう、瞳の周りに赤が塗られていて、眼差しの鋭さを強めている。

十一面観音菩薩立像 平安時代10世紀 京都・禅定寺 重要文化財

漆と金箔に覆われて木は直接には見えないが、サクラ材の一木造りなのだそうだ。

先述の通りサクラは目が詰まって硬いので、日本で檀像を模倣した際に白檀や黒檀の代用として使用されることが多かった木材だが、これだけの大きさの像の基本部分を彫り出せるということは、枝が生えるとそこに節ができるので、幹がまっすぐの部分だけで3m以上なくてはならず、相当な巨木だったはずだ。今日、日本で見られるサクラはその後の品種改良で造られた新しい種が多く、当時は野生のヤマザクラなどが主だったはずなので単純には比べられないだろうが、これだけの大木があればそれだけで名木として今なら観光名所にもなりそうというか、かつての日本では神木、霊木としてそれ自体が崇拝対象になりそうだ。

顔の鋭い彫り口や上腕の飾りの腕輪の緻密さなど、硬いサクラ材を活かした彫刻技術も確かなもので、用材の確保、彫刻、完成した仏像の運搬も含めて、相当な労力・財力が費やされたことがうかがえる。

その像が決して開けた場所とは言えない山の中にあるというのは、本山である東大寺が当時持っていた力も想像できる。しかも禅定寺は、この展覧会にはこの本尊の十一面観音の巨像と、やはり10世紀の作と思われる文殊菩薩騎獅像の2件が出品されているが、他にも平安時代の仏像が多数伝来している。

文殊菩薩騎獅像 平安時代・10世紀 京都・禅定寺 重要文化財