元は神社にあった仏像で国宝として、今回は奈良国立博物館の所蔵になっているもとは京都・若王子社にあった薬師如来坐像と、もとは大神神社(奈良県桜井市三輪)の神宮寺で祭司一族・三輪氏の氏寺・大御輪寺にあった地蔵菩薩立像も展示されている(現・法隆寺蔵)。
国宝 地蔵菩薩立像 平安時代・9世紀 奈良・法隆寺
旧・大神神社神宮寺・大御輪寺伝来
明治維新で大御輪寺が神仏分離令により廃寺になり(三輪山のもうひとつの神宮寺で聖徳太子創建と伝わる平等寺は徹底的に破壊された)、この平安初期の地蔵菩薩立像は、奈良時代の十一面観音立像(国宝)と共に多武峰(妙楽寺、明治以降は談山神社)の麓の聖林寺に密かに運ばれて破壊を免れた。十一面観音は聖林寺に残り(本展では光背の断片を展示)、この地蔵菩薩は法隆寺に引き取られた。元興寺の薬師如来立像、京都・神護寺の薬師如来立像と並ぶ平安時代初期の「一木造り」の立像の傑作だ。
国宝 薬師如来坐像 平安時代・9世紀 奈良国立博物館
奈良国立博物館の薬師如来坐像は、明治維新・神仏分離令以前には若王子社の本地仏だった。体と衣の彫りは平安時代初期の日本の彫刻の技法の精確さと技術の高さをよく示す最上の例のひとつである一方で、目鼻立ちの彫りが深い丸顔とくっきりしたれ切長の大きな目は、同時代の唐の流行に影響されてエキゾチックなインド風なのも興味深い。
明治維新の当時には、聖林寺の住職のような個々の寺院や個人の意志と勇気、国立博物館の創立以降はその博物館がなければ、この薬師如来坐像のような傑作も破壊されてしまったり、海外に流出して行方不明になっていたかも知れない。
「世界文化の見地から価値の高い」「類いない国民の宝たるもの」
奈良国立博物館であえて国宝展(これまで「国宝」をテーマにしたような展覧会はあえてやって来なかった)を開いたコンセプトのひとつは、この博物館で護られ、展示紹介された過去があるゆかりの深い作品のいわば「同窓会」とでもいうか、「百済観音」もかつての博物館本館(旧館、なら仏像館)の西側の正面入り口を入ってすぐに展示されていた。江戸時代までのように金堂の北面に安置されていたままだったら、法隆寺の金堂自体が滅多に立ち入れる場ではない神聖な空間である上に裏側では、ほとんど人目に触れなかったかもしれない。和辻哲郎が「百済観音」と呼び、有名な国宝になったのも、博物館という展示の場があり続けたことが、大きかったはずだ。
元興寺は本堂と禅堂も国宝で、鉄筋コンクリートの宝物館が建てられて国宝の五重小塔などの寺宝が収蔵されているが、以前にはそれらも奈良国立博物館で展示されていた時代もあったことが、本展の写真パネルで分かる。
展示風景、唐招提寺の所蔵する、鑑真が唐から伴った工人の手になると考えられる奈良時代の薬師如来立像と、平安時代初期の元興寺の薬師如来立像が並べて展示され、その影響関係と相違点を通して、仏像が日本的に変容していく過程がよく分かる展示。
元興寺の薬師如来立像はその元になったというか、その歴史的な延長上にこの像があると言える唐招提寺の、奈良時代に同様に一本の材木から主要部分を彫り出した「一木造り」の像が、並んで展示されている。
国宝 薬師如来立像 奈良時代・8世紀 奈良・唐招提寺
唐招提寺に伝来する薬師如来立像だ。鑑真が来日を果たした際に同伴した中国・唐の仏師の作だろう。並べて展示されているのでほとんどそっくりなところと、違いがよく分かる。衣の上からでもパンパンに張り詰めていると分かる太く逞しい太腿の膨らみなど、プロポーションは極めて似通っているし、衣も基本的なパターン、どこに皺やひだがあるのかまで共通している。
一方で、そのひだの彫り方はまったく異なった様相を呈する。
国宝 薬師如来立像 平安時代・9世紀 奈良・元興寺
奈良時代の唐招提寺の像では衣のひだは比較的浅い彫りの、適度な様式化でスッキリまとめられているのに対して、元興寺の像の衣はひだを深く彫って丸みを帯びさせ、ビロードのようなぬめる質感まで醸し出し、執拗なまでに凝りに凝った、リアルを超えたリアルというべき描写になっている。
国宝 薬師如来立像 奈良時代・8世紀 奈良・唐招提寺
中国から入った技術が、木の仏像が日本の彫刻の主流となっていく中で、日本ならではの独自の技術と表現の深化があったことが見て取れるというか、元々は外来のものだった仏像が「和様化」「日本化」していくプロセスが手に取るように見えるというか、日本人のこだわりがどこにあったのか?
それにしても、この衣の表現の凝り方は、いったい何事なのだろう?
国宝 伝獅子吼菩薩立像 奈良時代・8世紀 奈良・唐招提寺
鑑真が日本に伴って来た唐の工人の作と考えられ、これら唐招提寺の一連の木像は平安時代以降の日本の彫刻の発展において重要な契機になった