怒りの顔、「怖い仏像」で有名だった国宝・薬師如来立像の、意外な「素顔」

空海が密教をもたらした後の仏像である五大虚空蔵菩薩と対照的に、神護寺本尊・薬師如来立像は密教以前の仏の造形だ。この像、実は「怖い顔の仏像」として有名だ。

薬師如来立像 平安時代・8〜9世紀 京都・神護寺 国宝

確かに神護寺の金堂で拝観するとまずなにより印象が強いのは、その顔があまりにいかめしく、後の時代の仏像・如来像に見られる安らぎ、落ち着きといった情感とはかけ離れた険しい表情で、不動明王のような憤怒相(怒りの顔)にすら見える、その「怖さ」だった。

土門拳の有名な写真も鬼のような憤怒の形相を強調する激しい撮影で、この薬師如来立像の顔が「怖い」というイメージを広く定着させて来た。

だが憤怒の表情の、まるで鬼のように恐ろしげな顔に見えて来たのは、黒い漆塗りの厨子の中で下から照らされていたから、だったようだ。というのも今回の特別展の展示では背景は白、そこに東京国立博物館に蓄積されて来た仏像展示の照明技術が駆使されると…

薬師如来立像 平安時代・8〜9世紀 京都・神護寺 国宝

まったく「怒って」なぞいないし、まるで「怖く」ないではないか。

むしろ清々しいまでに簡潔さと適確なバランスで、すっきりして美しい顔だ。表情は超然と落ち着き払って、感情を露わにはしていない。目は見開いたというほどでもないが、如来像の定例である半開きよりは大きく、正面を見つめている。決して睨みつけているわけでもないが、ただその見透かすような眼差しに、見るものの心のうちが反射されるのかも知れない。

眉から真っ直ぐ通った鼻筋にかけてのラインはすっきりと、明快な彫り口で一切の迷いなくその明晰さはシンプルでさえあるが、とても丁寧に面取りされて二重の線になっている。

繊細な照明は、頬から生え際に至るまでに微かに残る鑿跡まで浮き上がらせ、一気に彫られたかのような洗練されたシャープさを見せる。その彫り口が、衣の丸みを帯びてうねるように複雑で凝りに凝った体部や衣の表現とは彫り方そのものが対照的であることにも、今回の展示で初めて気付かされた。

薬師如来立像 平安時代・8〜9世紀 京都・神護寺 国宝

彩色が施されていた痕跡の、唇の赤も鮮やかだが、原本が平安時代に遡る「神護寺最略記」では、薬師如来の「白檀」製で「五尺五寸」の像としている。

禅盛 写 神護寺最略記 江戸時代・文政7(1824)年書写 京都・神護寺【8月12日までの展示】
本尊を「白檀薬師如来五尺五寸」、脇侍の日光菩薩・月光菩薩を「四尺七寸」で「大師御作」と記す。

白檀は東南アジア原産で日本では産出しない香木だ。奈良時代や平安時代なら唐(のちに北宋)を経由するしか入手手段がなく、この大きさでまるまる白檀というのもちょっとあり得ないが、ならばこの像自体、一時期は渡来仏ともみなされていたのだろうか?

白檀や、日本で代用として用いられたカヤやサクラなどの硬い材木の仏像は「檀像」と呼ばれ、彩色や漆箔(漆を塗って金箔を貼ること)を施さずに木の素地の質感を活かすものだったので、この像も彩色があったのは唇だけだったのかも知れない。

いずれにせよ、憤怒や鬼の形相といった印象は、まったくない。

あるいは、電灯などない時代の仏堂の暗がりの中で見上げることを想定すれば、こと夜間の儀式では火を炊くことになり、その火で下から照らされると恐ろしげな憤怒相に見えることが計算されていたのだろうか?

同じものが状況によって見え方がまったく変わるように思えてしまうのは、我々の主観性を問いそこからの脱却を悟りの重要な一部とみなす、ある意味で仏教思想の根幹にも通じる。

薬師如来立像 平安時代・8〜9世紀 国宝
右奥)日光菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・神護寺 重要文化財

神護寺を訪れたことのある人は今回の展示で以前とは違った表情を発見するか、今回初めて見る方はぜひいずれ、神護寺の金堂で憤怒相が怖いほどの迫力も体験して、比較して頂きたい。

これまで知られてきた「怖い顔」の仏像、確かにまずなによりも畏怖を覚えるこの圧倒的な存在感から、この像は奈良時代から平安時代初期にかけて盛んに行われた「悔過」の儀式のために作られたのではないか、とも考えられている。仏の前で罪過を懺悔し、罪報を免れるために行う儀式だが、現代に至るまで1300年も行われ続けている代表的な「十一面観音悔過」である奈良・東大寺二月堂の修二会(通称「お水取り」)に見られるように、奈良時代の朝廷と仏教界で国家護持のための重要な儀式として位置付けられたものだ。

薬師如来立像 平安時代・8〜9世紀 京都・神護寺 国宝

空海が住んで本拠地として朝廷の直接の庇護と崇敬を受ける「神護寺」となる以前の、和気氏の氏寺だった時代から引き継がれたはずの薬師如来立像だが、奈良時代末期に重要な政治的地位にあった和気清麻呂に関わるとはいえ、一貴族の氏寺の本尊に留まるとはちょっと思えない、そこに凝縮された彫刻技術の高さも含めて、もっと大きな、国家的な役割を担っていた像なのかもしれない。

「国家護持」、国と朝廷を守るといって現代の国家主義的な、右翼的なものと誤解して欲しくないのは、この時代の国家イコール朝廷・政府を脅かすのは、なにも敵国や国内の反乱分子など政治的な要因だけでなかったことだ。それ以上に恐れられ、現に文字通り国の存亡に関わる脅威だったのはなによりも天災・天変地異、飢餓に直結する気候不順と疫病だった。「日本書紀」や「続日本紀」には、疫病で人口の半分が失われた(崇神天皇の時代)人口の三分の一が命を落とした(聖武天皇の即位からまもなく)、というような記録が残る。

薬師如来は現世における痛みや苦しみを癒し取り除くことで、悟りに至る道へと衆生を導く仏とされ、日本では、古くは聖徳太子・厩戸王が、疫病に倒れた父・欽明天皇の平癒を祈った(伝染病だったということは、天皇の命=全国民の生命という意味合いを持ったはずだ)ことが薬師如来を本尊とした斑鳩寺、のちの法隆寺(太子の没後、その等身大の釈迦三尊像が本尊になった)建立のきっかけとなり、薬師寺が天武天皇が皇后・鸕野讃良の病を案じて創建が始まって天武帝の病の快復を祈った皇后によって続行され、夫の没後に即位した持統天皇によって完成されたように、病気・疫病の防止と回復、さらには社会全体に取り憑いた病とも言える天災、水害、気候不順などの厄災の回避を祈る対象としてとても重要 だった。

薬師如来立像 平安時代・8〜9世紀 京都・神護寺 国宝

平安時代創建の密教寺院でも、密教において世界の中心とみなされる大日如来ではなく、薬師如来を本尊とする寺が多い。真言宗ならば神護寺、東寺、醍醐寺、高野山、薬師如来として作られた本尊像を釈迦として祀る室生寺金堂、天台宗なら比叡山延暦寺の絶対秘仏本尊をはじめとする最澄作という伝承を持つ数々の薬師如来などは、それだけ疫病や天災に苛まれた時代だったことの反映だろう。

日光菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・神護寺 重要文化財
薬師如来立像の脇侍だが、製作年代は1世紀ほど後で様式も異なる。「神護寺最略記」の写しの記載では「大師御作」とされるが、のちの火災で損傷し、腰から下がオリジナルで上半身は後補。

古代の日本人にとって、天災は山々や川に宿る神々が暴れる「荒ぶる神」の仕業(たとえば「古事記」には素戔嗚尊の流した涙が洪水を引き起こす描写があり、その素戔嗚が地上に降りて退治する八岐大蛇も支流が多くその支流が氾濫するたびに流路を変える暴れ川のメタファーだろう)であったり、疫病も荒ぶる神が引き起こしたり、怨霊や目に見えぬ鬼が取り憑いて感染すると考えられていた(ウィルスや細菌という概念がない時代の推論として、当たらずとも遠からずではないか)。

不幸・不遇の死を迎えたり殺された者は「祟り」を起こすと、信じられていた時代でもある(だから刑罰も死刑は避けられた)。

月光菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・神護寺 重要文化財
両脇侍は後代の火災で損傷し、日光菩薩は腰から下、月光菩薩は膝あたりから下のみ平安時代のオリジナル

そういった神々や怨霊、祟りや鬼といった、目に見えないが確かにいると信じられていた存在を鎮めるのに、いわば睨みつけて大人しくさせることが期待された役割からも、また同時に「悔過」が本来はおのおのが自らの罪を認めて懺悔する儀式であったことからも、この薬師如来立像のような仏像は、あえて慈悲や安らぎではなく畏怖を呼び起こし、正直であれと突きつけるような、圧倒的で威圧感さえある迫力で造形されたのではないか?

逆に空海が世界の全体像を明解に図式化した胎蔵曼荼羅を日本に持ち込み、その密教が一気に日本の仏教の主流となったことには、目に見えない大自然と世界の原理を目に見える、見て分かるように示した意味が大きかったのではないか?

両界曼荼羅(高雄曼荼羅)[胎蔵界] 平安時代・9世紀 京都・神護寺 国宝【胎蔵界は8月12日まで、14日以降は金剛界】

人間は避けられない厄災に直面してなすすべもなかったとしても、ならばせめて、なぜそのような不幸に自分たちが見舞われたのかを何らかの形で理解する術を与えられなければ、不安はいよいよ増し、自暴自棄にも走る。こうした本質が、おそらく1200年前も現代も、そう大きな違いはないことは、近年のコロナ禍でも明らかになった。

そのような現代科学による説明ができなかった過去に、そんな従来のカミ信仰や既存の仏教では抗いきれなかった時代の不安と実際の不幸・不運・理不尽に、空海は泰造曼荼羅の分かり易い説明だけでなく、金剛界曼荼羅のプロセスを辿れば自分が生きている間に悟りに達せられるかも知れない、という希望をももたらしたのだ。

薬師如来立像 平安時代・8〜9世紀 国宝
日光菩薩・月光菩薩立像 平安時代・9世紀 京都・神護寺 重要文化財

その空海も拝んだであろう神護寺の薬師如来立像は「一木造り」つまり一本の巨木、それ自体が畏怖を呼び起こす自然の驚異の象徴から彫り出されていて、巧みに彫り上げられた究極の人工物でありながら、素地の大自然の質感がそのまま表出していることもまた、その神々しさをさらに強固なものとしている。