1200年の空海の寺、その困難と衰退、そして復活を繰り返して来た歴史

神護寺は山の中腹の寺だが、境内は広大だ。今日、急な石段を息を切らせて登り切って山門の楼門をくぐると、右手に山、左手が谷側の、だだっ広い平坦な広場が眼前に広がる。

画像: 高尾山神護寺伽藍図 室町時代・15世紀 京都・神護寺

高尾山神護寺伽藍図 室町時代・15世紀 京都・神護寺

今回展示されている室町時代の絵図を見ると、その広場に見えたところはかつては中心伽藍に向かう参道で、谷側などは斜面にもずっと建物が立ち並んでいたことが分かる。その先で平坦に切り開かれた部分が広がるところに主要伽藍が並び、その崖のふちに建つ空海の住房だった御影堂(室町時代の再建)は同じ位置だが、その斜め前の今は毘沙門堂がある位置がこの時代には金堂で、五大堂は今と同じ場所、金堂の位置はかつては灌頂院だった。密教の僧侶として仏と結縁して正式に出家する儀式のための重要な施設で、後宇多天皇宸翰の修理文書によれば、高雄曼荼羅はここに置かれていた。背後の山の上には五大虚空蔵菩薩を安置する大きな宝塔が描かれ、その手前の下にはこれもかなり大きな講堂があった。

とにかく、かなり険しい山の中に平坦な土地をずいぶん広く切り開いていて、ものすごく建物が多い。

画像: 神護寺絵図 鎌倉時代・寛喜2(1230)年 京都・神護寺 重要文化財【8月12日までの展示】

神護寺絵図 鎌倉時代・寛喜2(1230)年 京都・神護寺 重要文化財【8月12日までの展示】

少し時代を遡る鎌倉時代の絵図には、高雄の神護寺と近くの栂尾に、鎌倉時代初期に明恵上人が開いた高山寺が併せて描かれているが、室町時代とは神護寺の伽藍配置が異なる。つまり鎌倉・南北朝・室町の200年前後の間にも、伽藍が焼失するかして建て直されたのだろうか。

山の上だけに堂宇に落雷があればひとたまりもなく、消火も困難というか今日でも消防車が到着するにも時間がかかる。中心伽藍のすぐ近くに神聖な水が湧き出る閼伽井があるとはいえ、落雷が燃え広がれば消火に必要な水を確保するのも、かつてはほぼ不可能だったろう。今日の神護寺の主要な伽藍は、楼門も毘沙門堂、五大堂も江戸時代の再建だ。金堂はその江戸時代のものも焼失し、多宝塔と共に昭和10(1935)年に実業家で帝国議会議員も務めた山口玄洞が寄進して再建されている。

鎌倉時代の絵図に描かれた建物がすでに、かなりの部分が再建だったはずだ。神護寺が弘法大師・空海が最も長い時間を過ごして多くの業績を成した聖地であっても、平安時代の後期に火災があってからは一時は衰退、境内も荒廃していた。

やはり京都市中から離れて、しかも険しい山の中、という修行・学問には最適でも、朝廷や貴族社会との関係からは難しい立地だったことが影響したのだろうか? 今でも境内に至るまでにかなりハードな坂の参道を徒歩で上るわけで、かつては多くの僧侶の生活を維持する必需品を運びあげるだけでも大変だったはずだ。

画像: 大般若経 巻第一[紺地金字一切経のうち] 平安時代・12世紀 京都・神護寺 重要文化財 「神護寺経」として知られる装飾経の大般若経の一巻。

大般若経 巻第一[紺地金字一切経のうち] 平安時代・12世紀 京都・神護寺 重要文化財
「神護寺経」として知られる装飾経の大般若経の一巻。

だがそれ以前には、空海の聖地として、平安貴族との繋がりも深かったのが神護寺だ。それを伺わせるのが例えば、紺地に染めた最高級の紙に金泥で写経された大般若経、通称「神護寺経」だ。

画像: 大般若経 巻第二[紺地金字一切経のうち] 平安時代・12世紀 京都・神護寺 重要文化財 見返しの説法図は金に加えて銀泥も駆使して描かれている

大般若経 巻第二[紺地金字一切経のうち] 平安時代・12世紀 京都・神護寺 重要文化財
見返しの説法図は金に加えて銀泥も駆使して描かれている

あるいは国宝・山水屏風(後期・8月14日から展示)のように、元は寝殿造りの邸宅の調度品だったものが灌頂の儀式に用いられるようになったのも、天皇家の皇子や貴族の子弟がここで出家することが多かったからだろう。

画像: 十二天屏風 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 重要文化財 胎蔵曼荼羅では外周部の「外金剛院」に描かれている方位神・十二天の絵を、六曲二隻の屏風に仕立て、灌頂の儀式で山水屏風と共に用いた。【この六面の展示は8月12日まで、14日以降は残りの六面を展示】

十二天屏風 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 重要文化財
胎蔵曼荼羅では外周部の「外金剛院」に描かれている方位神・十二天の絵を、六曲二隻の屏風に仕立て、灌頂の儀式で山水屏風と共に用いた。【この六面の展示は8月12日まで、14日以降は残りの六面を展示】

平安時代の仏画の中でも色鮮やかさと細密さ、金箔を極細に切って貼り付ける截金をふんだんに用いた絢爛豪華さで傑出する釈迦如来像・通称「赤釈迦」(平安時代・12世紀、国宝・後期展示)など、他にも貴族文化との関わりを示す寺宝は多い。

画像: 平安時代後期の華麗な仏画の代表作の国宝・釈迦如来像、通称「赤釈迦」は8月14日からの後期展示。赤い衣をびっしりと埋め尽くす格子状の模様は、金箔を細く切った截金による豪華で緻密な表現。光背を縁取る花もとても美しい。

平安時代後期の華麗な仏画の代表作の国宝・釈迦如来像、通称「赤釈迦」は8月14日からの後期展示。赤い衣をびっしりと埋め尽くす格子状の模様は、金箔を細く切った截金による豪華で緻密な表現。光背を縁取る花もとても美しい。

だがそれでも、洛中から神護寺に向かうなら道中にはまず、宇多天皇が退位して出家・法皇となって開山して以降、皇位継承権をもつ親王がトップを務める門跡寺院筆頭の仁和寺があり、少し方角は逸れるが嵯峨天皇が退位・出家して法皇になって別荘を寺とした大覚寺もある。

平安京の南端には空海が都に出仕した際の本拠地にした東寺(教王護国寺)があり、奈良街道沿いには醍醐寺と、天皇家ともゆかりの深い真言密教の寺院が、神護寺よりずっと手近な場所にあまりにたくさんあったせいだろうか? この荒廃期に高雄曼荼羅も神護寺を離れ、東山の青蓮院門跡にあったという。

画像: 後白河法皇像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺【8月12日までの展示】

後白河法皇像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺【8月12日までの展示】

朝廷・貴族中心の平安時代が終わろうとしていた後白河法皇の時代に、神護寺を再興したのが文覚上人だ。

文覚は勃興しつつあった新興支配階級である武家の源氏・源義朝とも親しく、その遺児で伊豆に配流されていた頼朝に父・義朝の頭蓋骨を届け、平家打倒の挙兵を促したのが、その頭蓋骨がまったくの偽物だったとかのカラフルな伝承もある。数年前のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の11人』では完全に山師の怪僧扱いだったがそういうのはもちろんデフォルメされた誇張で、神護寺と日本の宗教史上重要な功績を遺し、その活躍は新しい時代に密教の教えを継承していく上で欠かせない人物だ。

画像: 文覚上人像 室町時代・15〜16世紀 京都・神護寺【8月12日までの展示】

文覚上人像 室町時代・15〜16世紀 京都・神護寺【8月12日までの展示】

今回の展示品の文覚の書状では、宮中にあった八幡神の絵が岩清水八幡宮に下賜されるという情報を得た文覚が、神護寺の方が八幡神との所縁が深く、その神像は石清水八幡宮ではなく神護寺に任されるべきだ、と抗議する文面だ。

画像: 文覚 筆 文覚上人書状案 鎌倉時代・建久8(1197)年 重要文化財【8月12日までの展示】

文覚 筆 文覚上人書状案 鎌倉時代・建久8(1197)年 重要文化財【8月12日までの展示】

神護寺には空海と八幡大菩薩がお互いの肖像を描きあった互御影の伝承もあることは先述の通りだが、こうした書状からも読み取れる議論の強さで、法皇も鎌倉殿も口説き落とした剛腕の政治力の高さから、いわゆる「嘘も方便」(方便とは本来、仏教をわかり易く布教する手段のこと)も駆使したかのような伝説が生まれたのかも知れない。

中世の神護寺の寺宝といえば、かつて日本史の教科書に源頼朝の姿として必ず掲載されていた絵を含む三幅の、衣冠束帯姿の俗人男性の肖像画は「神護寺三像」とも呼ばれ、鎌倉時代に既存の貴族文化にはなかったリアリズムの追求で流行した「似せ絵」の最高傑作として名高い。

画像: いわゆる「神護寺三像」、右から伝源頼朝、伝平重盛、伝藤原光能 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

いわゆる「神護寺三像」、右から伝源頼朝、伝平重盛、伝藤原光能 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

三人とも、朝廷の正装である黒の衣冠束帯に身を包み威儀を正している。写真ではわかりにくいがこの束帯、黒一色ではない。透かしの入った綾を再現して、黒地の上に反射率が異なる黒で、生地の紋様が規則的かつ詳細に描き込まれているのだ。前に垂らした青い帯にはそれぞれ、金で精緻な鳳凰などが描き込まれて刺繍や錦の平坦な組紐であることを表現している。

三枚ともが同一作者ではないという説もあるが、描写がとりわけ傑出しているのが伝源頼朝像だ。生え際の髪の毛や髭の一本一本が極細の筆の線で丹念に重ねられた精緻さ、冠の立体感を巧みに見せる明暗のグラデーションも巧みながら、やはりこの像が圧巻なのは簡略かつ明確な線で的確に表情を捉えた顔の凛々しさ、落ち着き払って一点を見つめるかのような眼差しの鋭さだ。

画像: 伝源頼朝像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

伝源頼朝像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

実はこの三像、作者も神護寺に納められた経緯も、記録がない。かつての日本では肖像を生前に描くことはめったになく、有力者なら没後に肖像を、今日でいう遺影のように描き、法要に用いるため寺院に納める習慣はあった。とはいえ「神護寺三像」は描写も精緻で明かに一流の、それも傑出した絵師の作、絵絹も絵の具も高価な材料を用いていて、それがこれだけの大きさだから、よほどの重要人物に違いないというわけで源頼朝、平重盛、藤原光能の三人、特に凛々しい顔立ちで決然とした眼差しの人物の顔には武将のような鋭さと威厳があり、神護寺の再興に関わった重要な武家の大物といえば初代の鎌倉殿で征夷大将軍、源頼朝だろうと推定されて来た。

画像: 源頼朝寄進状 鎌倉時代・寿永3(1184)年 京都・神護寺 重要文化財【8月12日までの展示】 神護寺の経済的な基盤として丹波(京都府北部)の広大な荘園を寄進したことを示す書簡。左の署名「前右兵衛佐源朝臣」の下が、頼朝の直筆の花押。

源頼朝寄進状 鎌倉時代・寿永3(1184)年 京都・神護寺 重要文化財【8月12日までの展示】
神護寺の経済的な基盤として丹波(京都府北部)の広大な荘園を寄進したことを示す書簡。左の署名「前右兵衛佐源朝臣」の下が、頼朝の直筆の花押。

順当な想像に基づく推定とはいえそうだが、教科書に載っている、誰もが知っている国宝になったのもそんなあまり厳密ではない経緯なのだ。とはいえ本当は誰であろうが、肖像画として傑出していることは間違いなく、とても有名であることも、その高いクオリティにはまこと相応しい。

それに文覚による神護寺の再建に頼朝が支援者として大きく関わったのも間違いない。

画像: 伝平重盛像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

伝平重盛像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

頼朝については意外に信心深かった、むしろ迷信深かったとさえ評する研究者もいて、確かに「吾妻鏡」にもそう思わせる記述があるし、鎌倉でも鶴岡八幡宮の再整備や巨大寺院の永福寺などを建立し、征夷大将軍に任命されるために後白河法皇に会いに上京してからは、平家の南都焼き討ちで焼失した東大寺の再建など、院政期の混乱や源平合戦で荒廃したり焼失した寺社の再興に膨大な政治力を注いでいる。

画像: 伝藤原光能像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

伝藤原光能像 鎌倉時代・13世紀 京都・神護寺 国宝【8月12日までの展示】

支援を受けたのは神護寺だけではなかったし、これをただ頼朝個人の心情のみが動機と考えるべきでもなかろう。現代の政治と違って科学による世界の理解に頼れない時代に、宗教政策は社会の安定を図る重要な政治的手段でもあった。とりわけ京都など上方の人々の日常は有力寺社と強く結びついていて、方位の運不運や縁起担ぎなども重視する歴史がすでに根付いていたし、「吾妻鏡」にも記録がある頼朝の「迷信」にしても、頼朝本人も「生まれ育ちが京都の人」だったからに過ぎない。

中世日本の新たな統治者にとって神護寺の再興の支援も、空海の聖地の寺が復活することは、人心の安定を図る重要な政策でもあったのだ。

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