「南無仏舎利」と太子の「魂」を伝え続ける東院・舎利殿の世界

院政期末期の混乱と源平合戦の荒廃を経て、鎌倉時代には夢殿を中心とする東院伽藍の大規模な再建・増改築が行われている。現在の東院伽藍は奈良時代の夢殿以外は、舎利殿、絵殿、回廊など、ほとんどの建物が鎌倉時代のものだ。

「南無仏舎利」を中心に舎利殿の内部を再現した展示空間

奈良時代の仏教の担い手は国家・朝廷、平安時代には朝廷と貴族階級だったのが、鎌倉時代に入ると疫病や戦乱に苦しみながらも、鉄の農具の普及などの農業技術の革新で力も持ち始めた一般庶民への不況が盛んになり、仏教の大衆化が進行する。

重要文化財 文王呂尚・商山四皓図屏風 南北朝時代14世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
左上)金銅幡 江戸時代17世紀 左下)華鬘 南北朝時代14世紀
文王呂尚・商山四皓図屏風は中世に舎利殿の壁面を飾っていた障壁画を屏風に仕立て直したもの。描かれるのは儒教に基づく聖人君子を描いた中国故事。太子もまたそうした偉人に列せられるか同一視されるような存在、ということを意味したのだろうか?

そんな鎌倉時代の仏教の新しい流れの中で、太子の記憶と太子への信仰はより重要になった。数え二歳の「南無仏太子」や少年の「孝養像」が盛んに作られるようになったのもこの時代で、太子は大衆信仰の対象としてより親しみ易く身近な「活仏」のような存在になったのではないか?

重要文化財 舎利塔 平安時代 保延4(1138)年 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)

「南無仏舎利」の舎利容器が水晶製の、中の舎利が見えるものになったのも南北朝時代だ。それ以前はこのような、中が見えない舎利塔に大切に納められていたのだろうが、透明な水晶越しに釈迦の遺骨が見えるという分かりやすさは、中世により重要になったのではないだろうか?

南無仏舎利 水晶の舎利塔と金銅の台座は南北朝時代・貞和3〜4(1347〜48)年 舎利据箱 鎌倉時代・13世紀 奈良・法隆寺(東院舎利殿安置)
透明な水晶の五輪塔の球状の部分の底に見える黒い粒子が、釈迦の左眼の骨と伝わる仏舎利

しかも「南無仏舎利」は普通の仏舎利と異なり、釈迦つまり仏の肉体の名残であると同時に、聖徳太子の手から生じた、太子の存在と不可分なものでもある。

「正しさ」の感受性と美意識が一致したかのような太子の感性の現れたものは、一方で高度な知性と膨大な知識とも表裏一体の感受性だったと考えられる。それは一般庶民にも深まった仏教の信仰文化において憧れと崇敬の対象であると同時に、いささか敷居が高いものでもあったかも知れない。

左)南無仏舎利 舎利塔は南北朝時代・貞和3〜4(1347〜48)年 舎利据箱 鎌倉時代・13世紀
右)聖徳太子立像(二歳像) 鎌倉時代 ・13〜14世紀
共に奈良・法隆寺(東院・舎利殿安置)

そうしたいわば「とっつきにくさ」を解消するのにも幼児や少年の姿の太子像は有効であったのであろうと同時に、太子が自ら用いたもの、その手に触れた道具や物部氏との戦いで使ったとされる武器などの、太子その人と身体的に繋がるような七つの品が「七種宝物」として舎利殿に所蔵され、江戸時代には江戸に運ばれて開帳されることもあったという。

重要文化財 糞掃衣 奈良時代・8世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
物欲などの煩悩を戒める僧侶にとって、ボロ切れをつなぎ合わせた質素な衣こそが最高の衣服とされた。実際には平絹を細かく切って丁寧に繋ぎ合わせてあたかもボロ布のような見た目にするという極めて手の込んだ贅沢な品で、同様の聖武天皇所用の九条袈裟が正倉院宝物にある。8世紀の品だが、太子が着用した袈裟として法隆寺東院の舎利殿に伝来した。

あくまで伝承・伝説に基づくもので、実際には太子よりもずっと後の時代のものだったりするものが多いが、中でも実際には平安時代の、紺地に金泥で書かれた「梵網経」は、伝承では太子が自らの手の皮を切って見返しに貼り付けた、とされている。

太子の触れたもの、さらには太子の体の一部とされるものが篤い信仰の対象になったというのは、まるで釈迦の遺骨とされる仏舎利への信仰とパラレルになっているかのような感もある。なにしろ東院の舎利殿に伝来したということは、仏舎利という釈迦の「聖遺物」と太子の遺品である「聖遺物」が、共に祀られる場所になっていた、ということだ。

重要文化財 蓬莱山蒔絵袈裟箱 平安時代・12世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
中央に金と銀の蒔絵で中国神話の伝説上の不老不死の島・蓬莱山を表す。元は別の箱の蓋を、太子所用と伝わる糞掃衣の袈裟箱として転用したもの

重要文化財 御足印 奈良時代・8世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
絹のカーテンのような室内具に太子の足跡が残っていると伝わる。

またそうしたいわば「聖遺物」的な太子の遺品はしばしば、近世に作られた豪華な漆に蒔絵を施した箱に収められていた。たとえば太子の使った袈裟と伝わる糞掃衣や、太子の足跡が残った布と伝わる御足印の箱には、大きく三つ葉葵の紋があしらわれている。

糞掃衣蒔絵箱 江戸時代・元禄7(1694)年 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)

いうまでもなく徳川将軍家の紋だ。五代将軍綱吉の生母、桂昌院が奉納したものである。江戸時代の法隆寺は、江戸幕府も重視していたのだ。国中の大地も人心も荒んだ戦国時代をなんとか終わらせて泰平の世を築き維持しようとしていた徳川家にとって、寺社の復興と整備は大衆の心に安らぎを与え、ややもすれば暴力に走りがちな支配階級の武士に強い自制を促すためにも重要な政策であり、「和を以って貴しとなす」と説いた太子の記憶がとりわけ重んじられたとしてもなんの不思議もない。

ここまで来れば、いかに飛鳥時代のリアルタイムの人物として、当時の文脈でその生涯と業績を語るなら「厩戸王」と呼んだ方が客観的であるとしても、やはり日本という国の歴史の中での用明天皇の第二皇子のことを語るなら、「聖徳太子」と呼ばなければならないことに納得されるのではないか。

舎利神輿 室町時代・15〜16世紀 奈良・法隆寺
太子の命日の儀式である聖霊会(しょうりょうえ)の10年に一回の大会式で、「南無仏舎利」を東院の舎利殿から西院伽藍の大講堂まで運ぶために使われる輿

私たちの文化的DNAの中で、「聖徳太子」はもっとも身近でもっとも親しみを感じる「仏」であり、「聖徳」というおくり名に相応しいその「正しさ」「善」と「美」の一致したあり様と、「豊聡耳」という和風の諡号に込められた、誰の声でも分け隔てなく聞き分けて理解してくれるという慈愛は、その文化の道徳と倫理観の根幹にあるものなのだ。

その太子は少なくとも奈良時代に夢殿と東院が創建された時には、観音菩薩が天皇家の皇子の姿を借りてこの世に現れた化身として信仰されていた。正式には「観世音」、世の音、つまり衆生の出すさまざまな声を「観ずる」菩薩である。

国宝 竹厨子 飛鳥〜奈良時代・7〜8世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
夢殿を創建した行信が奉納したと伝わる、経巻を納めるための竹製の厨子。竹製で一見簡素に見えるが丁寧に作られた端正な仕上げで、蝶番の金具には凝った唐草模様が彫金されている。

特別展「聖徳太子と法隆寺」

重要文化財 如意輪観音菩薩半跏像 平安時代・11〜12世紀 奈良・法隆寺(聖霊院安置・秘仏)

会期2021年7月13日(火)~9月5日(日)
会場東京国立博物館 平成館(上野公園)
〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9
開館時間午前9時30分~午後5時
休館日月曜日(ただし、8月9日は開館し、8月10日(火)は休館)
主催東京国立博物館、法隆寺、読売新聞社、NHK、NHKプロモーション、文化庁
特別協賛キヤノン、JR東日本、日本たばこ産業、三井不動産、三菱地所、明治ホールディングス
協賛清水建設、髙島屋、竹中工務店、三井住友銀行、三菱商事
協力内田洋行、NISSHA
お問合せ050-5541-8600(ハローダイヤル)
  • 本展は混雑緩和のため、事前予約制(日時指定券)を導入します。ご予約不要の「当日券」を会場にて若干数ご用意しますが、ご来館時、「当日券」は販売終了している可能性があります。
  • 展示作品・会期・開館日・開館時間・観覧料・販売方法等については、今後の諸事情により変更する場合がありますので、展覧会公式サイトでご確認ください。

観覧料(税込)

前売日時指定券当日券
一般2,100円2,200円
大学生1,300円1,400円
高校生900円1,000円
  • 中学生以下、障がい者とその介護者1名は無料。ただし、「日時指定券」の予約が必要。入館の際に学生証、障がい者手帳等をご提示ください。

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今後の諸事情により本展につきまして予告なく変更する場合がございます。最新情報は、本公式サイト、および展覧会公式twitter(@horyuji2021)をご覧ください。

国宝 阿弥陀如来および両脇侍像 伝橘夫人念持仏厨子納入 飛鳥時代7〜8世紀 奈良・法隆寺
以上、掲載写真は主催者の特別な許可により撮影
撮影:藤原敏史 Canon EOS RP, RF85mmf1.2L, RF50mmf1.2L ©2021, toshi fujiwara