聖徳太子がなぜか好んだ、同時代から100年ほど前の中国の様式

『法華義疏』の直筆草稿の丸みを帯びた書体は、太子の同時代の隋ではなく、その100年前くらいの書体だという。

もちろん学校でも習う太子の政治的な業績のひとつが、推古天皇の朝廷が隋に「遣隋使」を派遣したことで、つまりその気になれば当時最先端のスタイルを学んで模倣することはできたはずだ。

なのにあえて100年前後以前の過去の書体に遡った選択は、意図的なもののはずだ。しかもこの特徴は太子がその造立に深く関わったものと考えて当然の、法隆寺の仏像にも共通する、と東京国立博物館の三田覚之・主任研究員は指摘する。

重要文化財 菩薩立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺

法隆寺の、太子ゆかりの仏像といえば、真っ先に思い浮かぶのがいわゆる「止利仏師様式」だ。「鞍作止利」という仏師の名は、法隆寺本尊の釈迦三尊像の先述の光背銘文に記載されている。

やや面長の顔にアーモンド型の目、口元に浮かべたデリケートな微笑みは、かつては中国の影響よりも日本が「シルクロードの東の終着点」であることを強調するためか、東洋よりも西洋との共通点を無理にでも想起させるかのように古代ギリシャのアルカイック期の彫刻に似ているとして「アルカイック・スマイル」とも呼ばれた。

重要文化財 菩薩立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺

止利仏師様式の仏像では、衣は左右対称の複雑な曲線のパターンに様式化され、横から見ると立像の場合はS字型の曲線を描くのも特徴的だ。

国宝 四天王立像 多聞天(手前)、広目天(奥) 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺(金堂安置)

日本における仏像は、欽明天皇の代の仏教公伝の際に百済王の使者がもたらした金の如来三尊像が最初のはずだ。この像は長野・善光寺の絶対秘仏本尊になったとされるが、法隆寺にも同時代の、どうもその写しではないかと思われる如来三尊像が伝来していた(現在は「法隆寺献納宝物」の一部で東京国立博物館の所蔵・本展で展示)。

重要文化財 如来三尊像 朝鮮三国時代ないし飛鳥時代・6〜7世紀 東京国立博物館(法隆寺献納宝物)
光背の文様が法隆寺金堂の国宝・薬師如来坐像のそれによく似ている。

この如来三尊像は朝鮮半島製と思われれ来たが、最新の金属分析では脇待の菩薩に日本製の可能性があるという。光背のデザインは国宝・薬師如来坐像の光背にかなり共通している。

国宝 薬師如来坐像 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺(金堂安置)

一方で如来と菩薩の造形自体は、薬師如来坐像の止利仏師様式と明らかに異なったものだ。こうして比較すると「止利仏師様式」に独特の個性的な表現が鮮明になるだろう。

仏教が伝来した当時に日本で信仰対象になった仏像は、当然ながら百済など朝鮮半島の三国時代の様式を踏襲していたのだろう。今は東京国立博物館の所蔵(法隆寺献納宝物)になっている法隆寺伝来の膨大な金銅仏群(「法隆寺宝物館」1階で常設展示)には、朝鮮半島製と飛鳥時代の日本製が混在している。そのスタイルは多様で「止利仏師様式」に統一されているわけではない。

重要文化財 菩薩立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・法起寺

法起寺では1993年に行われた奈良国立博物館による大調査で、飛鳥時代初期の木造の仏像としては異例の大きさの、1mを超える高さの如来像が発見されている。弥勒如来の像として日本最古の作例ではないか、とも言われている。

如来立像 飛鳥時代・7世紀 奈良・法起寺

クスノキ製の木像なので、永い歳月のあいだに湿気や虫喰いなどで破損し、顔や足、背中、右手の手先は後代に破損部分を置き換えて補修されたものだが、頭から後頭部と体の正面は詳細なX線調査によって一木でひと繋がりの、飛鳥時代の造立当時のままだと判明している。つまり正面に見える衣や手は飛鳥時代の仏師の作だが、この衣の表現も、左右対称を基本とした「止利仏師様式」の洗練された様式化とはずいぶん異なっている。

法隆寺には、飛鳥時代の木像で漆の上から金箔を貼った六体の、童形の菩薩像が「六観音」として伝わっているが、この六体も様式はそれぞれに微妙に異なり、複数の工房で造られたものだろうと推測できるだろう。

重要文化財 月光菩薩立像 (伝六観音のうち) 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺

…と言うよりは、実際には六体のうち本当に観音菩薩であるのは一体だけで後の五体は月光菩薩、日光菩薩、文殊菩薩、勢至菩薩、普賢菩薩なので、もともと別々の菩薩としてそれぞれ作られたものが、平安時代以降に密教の「六観音」信仰に併せてまとめられたのだろう。

重要文化財 文殊菩薩立像 (伝六観音のうち) 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺

この伝六観音はいずれも、横から見るとS字形の曲線を描いてはいるが、顔や衣の表現などは「止利仏師様式」とはずいぶんと異なった様式だ。

重要文化財 観音菩薩立像 (伝六観音のうち) 飛鳥時代・7世紀 奈良・法隆寺

金堂の国宝・薬師如来坐像の両脇には、少なくとも鎌倉時代以降の長いあいだ、飛鳥時代の銅造の菩薩像二体が、月光菩薩・日光菩薩の薬師の両脇侍として置かれていた。頭の宝冠の正面に阿弥陀仏の化仏が彫られていることから、元はどちらも観音菩薩として造られたものだ。

重要文化財 観音菩薩立像 (伝金堂薬師如来像脇侍・月光菩薩) 飛鳥時代7世紀 奈良・法隆寺

一見同じような大きさで同じようなポーズではあるが、細部の表現に異なった部分が多く、月光菩薩とされて来た像の方がより精緻に作り込まれている。この二体自体が元々は別個の観音像で対になった一具として作られたものではないだろうし、「止利仏師様式」の薬師如来坐像とは明らかにスタイルが異なる。

重要文化財 観音菩薩立像 (伝金堂薬師如来像脇侍・日光菩薩) 飛鳥時代7世紀 奈良・法隆寺

言い換えるなら、聖徳太子の時代・飛鳥時代の仏像がすべて「止利仏師様式」だったわけではなく、今回の展覧会に出品されているものだけを比べても、かなり多様な表現が混在していたのが日本の仏教彫刻の草創期だったことが分かる。

つまりは「止利仏師様式」はそうした様々なスタイルの混在の中から意図的に選ばれたものだろうし、それが誰の選択だったのかといえば、やはり聖徳太子本人だと考えるのが、もっとも自然ではないか?

国宝 薬師如来坐像 飛鳥時代・8世紀 奈良・法隆寺

薬師如来坐像の光背の文様には朝鮮半島風の表現が見られるが、「止利仏師様式」の最高傑作の一つとも言われる本体は、朝鮮半島とはまた異なった影響源から、誰かの意図で意識的に生み出された、より高度な技術を駆使して洗練された表現なのだろうし、その「誰か」が誰なのかといえば、やはり太子だったはずだ。