優れた政治家である以上に、日本仏教で最重要の「聖人」の一人で「奇跡の人」
もちろん歴史学的な客観性で言えば、後代の評価による偏向を排して史実そのものをなるべく当時の価値観に近い解釈で理解すべきと言う意味で、「聖徳太子」から「厩戸王」への教科書表記の変更は(「聖徳太子」と習った世代と話が通じにくくなるとしても)合理的ではある。本当に「皇太子」だったかどうか定かではないのに「太子」という称号が含まれる呼称をみだりに使ってしまうと、誤解・偏向を招きかねないからだ。
現に、たとえばかつての学校教育で「聖徳太子」が推古天皇の「皇太子」になって「摂政」として天皇に代わり政治を主導した、と教えていたことには、「天皇中心の新国家」を男性的な軍事強国にしようと目指した明治政府の政治的な思惑が入り込んでいた余地が否定できない。「摂政」である男性皇族の業績を強調しつつ、その男性が「皇太子」つまり皇位継承者だったといえば、自ずから初の女性天皇・推古帝が実権を持たない「飾り物」で、「つなぎ」「かりそめ」に過ぎなかった、と言うイメージに誘導できるわけで、明治以降の女性天皇を排した「男系男子」皇位継承の正当化のためには、明らかに好都合だ。
むろん、よく考えるとこの皇国史観的な解釈は根本的に矛盾している。だったらわざわざ「つなぎ」のための「例外」で初の女帝の推古天皇を立てるまでもなく、すでに当時の常識では成人の年齢に達していた厩戸王が「聖徳太子」ならぬ「聖徳天皇」になればよかったはずだ。
だがむしろ実際の歴史を顧みれば、太子が天皇として即位することがなかったからこそかえって天皇家が輩出したさまざまな歴史的重要人物の中でも歴代天皇以上に尊敬され、どの天皇よりも親しまれ、計り知れない影響を与えて来たのではないか、とすら思えて来る。現に太子の姿として思い浮かべられて来た歴史的なイメージにしても、統治者の威厳と権威を漂わす成人した君主、俗人の政治家として権力を行使したであろう「摂政」のイメージが優先的に定着するのは、実は明治以降の近代に入ってからに過ぎない。
中世に盛んに作られた太子を表す彫刻や絵画で圧倒的に数が多いのは、そうした権力の行使や権威とは結びつきにくい少年としての太子、あるいは幼児の姿だ。今日でも例えば浄土真宗の寺院では親鸞に先行した宗祖の一人として太子の画像が掲げられるが、たいていは少年像だ。
香炉を手に父・用明天皇の快復を祈る少年の太子の姿は「孝養像」と呼ばれ、親孝行というシンプルな道徳だけでなく、親子の情愛という庶民にも親しみやすい想いにつながるものとして広く受け入れられるだろう。元は蘇我氏・物部氏の内乱で蘇我氏つまり「崇仏」の側だった太子が四天王に戦勝を祈願し、その願いが叶って大坂に四天王寺を創建した時の姿を表していたのではないか、という指摘もあるが、だとしてもそこにそこに表象されているのは純粋な少年の篤い信仰心であって、天皇となるような大人の政治家の、権力の行使とも関わった、威厳と威圧が同居するイメージではない。
太子は数えで2歳の時に夜明けの東の空に手を合わせて「南無仏」と唱えたという。すると、その手から仏舎利(仏教で神聖視される釈迦の遺骨の断片)がこぼれ落ちた。
この伝説に基づく幼児ないし乳児の姿の太子の二歳像も、中世に盛んに作られた(「南無仏太子」)。数えで2歳、つまり満年齢でいえば1歳かそれ以下の赤ん坊の姿はとても愛らしく純粋なものであるのと同時に、その手のあいだから仏舎利が出現したという「奇跡」の伝承は、太子が生まれた時から仏に選ばれた特別な存在であったことを示してもいる。いわば釈迦の誕生時の姿を表す「誕生仏」に近い意味で信仰されて来たのだろう。
山背大兄王が太子の没後にその別邸を寺に改修した法起寺に伝わる二歳(南無仏太子)像は、X線CT調査で、合掌する手のひらの間に金属のような異物があることが判明している。奇跡の伝承を再現するために、仏舎利をそこに入れていたのだ。つまりこの像は、無垢な赤ん坊としての太子の純粋な信仰心を拝むと同時に、仏舎利つまり釈迦そのものへの祈りの対象にもなっている。
太子の屋敷だった斑鳩宮の跡地に奈良時代に建立された夢殿を中心とする法隆寺の東院伽藍には、太子の等身大とされる救世観音菩薩を南面して安置する夢殿の後方・南に、太子の生涯を障壁画の「聖徳太子絵伝」に描いた絵殿と、この時に太子の手から出現した仏舎利を安置する「舎利殿」が並んで建てられている。
この特別展「聖徳太子と法隆寺」が最初に奈良国立博物館で開催されたときには、絵殿に関する展示が大きな目玉だったが、対となるように東京国立博物館では、今度は舎利殿に関する展示で、その本尊である「南無仏舎利」も展示されている。
これが法隆寺でどれだけ神聖視されている宝物であるかを考えると驚くべきことで、太子の1400年遠忌だからこそ実現したことだろう。赤ん坊の太子の手から現れたとされる小さな粒状の仏舎利は、水晶の五輪塔の球形の部分に納められている。東京国立博物館では照明にも工夫を凝らし、小さな舎利がはっきり見えるように展示されている。
太子は生まれた時からずっと左手を堅く握りしめたままだったという。数え2歳の年の2月15日の早暁に夜明けの空に向かって合掌したときに、この左手が初めて開き、そこに仏舎利があったということは、太子は仏舎利を握りしめて生まれて来たとも解釈できる。