「On the Nature of Daylight」── 「喪失」と「幻視」というテーマ

クロエ・ジャオが撮影終了の4日前に決断を下したとき、映画の運命が変わった。それまで「ハムレットよ、あとは沈黙のみ」という台詞でフェードアウトするはずだったエンディングが、根本から書き直されることになったのだ。

きっかけは、ジェシー・バックリーがジャオに送った一曲の音楽だった。マックス・リヒターの「On the Nature of Daylight」。『IndieWire』のインタビュー[10] で、リヒター自身がこの経緯を語っている。バックリーは以前からリヒターの作品に親しんでおり、この曲をジャオに送った。それが映画のエンディングをジャオの中で解き放ったのだという。リヒターによれば、ジャオはセットに向かう車の中で一種のカタルシス的な悟りに達し、現場に着くなり「予定していたことはすべて忘れて、何か違うことをやる」とスタッフに告げた。観客が手を伸ばすあのシーンはすべて新しく、音楽から直接生まれたものだった。撮影現場ではこの曲を一日十時間、ループで流し続けたという[11]

プロダクション・ノートのリヒターの証言がこの経緯を補完する。「俳優にとって、作品や感情の質感に入り込める、ちょっとした鍵を持つことは、とても助けになると思います。実際、私が現場にいた撮影の終盤では、彼らは多くの曲をほぼ絶え間なくループ再生していました。まるで羊水のように、楽曲で作品を包み込んでいたのです[12] 」。羊水──この比喩は偶然ではない。リヒターの音楽が映画の最終場面を包むとき、それは子宮的な空間を創出する。グローブ座は劇場であると同時に、悲嘆の子宮なのだ。

「On the Nature of Daylight」は2004年に作曲された。リヒターがイラク戦争への抗議として書いたこの曲は、その後、マーティン・スコセッシ監督の『シャッター・アイランド』(2010)とドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『メッセージ』(2016)でも使われてきた。3つの映画に共通するのは、喪失が穿った孔の向こう側を見つめる者たちの姿──すなわち「幻視」の主題である。だがその構造は三者三様に異なる。『シャッター・アイランド』のアンドリューは、3人の子どもを溺死させた妻を射殺したという現実に耐えられず別人格を構築し、孔を虚構の壁で封じた。夢の中で妻を抱く場面にこの曲が流れるとき、腕の中のドロレスは灰と化して崩れ落ちていく──封鎖した孔の向こうから現実が浸食し、幻視そのものを灰燼に帰す瞬間だ。彼は最終的にロボトミーを選び、孔もろとも自己を消去する。『メッセージ』のルイーズは逆に、非線形の時間知覚を獲得することで孔を時間の外側から俯瞰した。娘の死を予知しながらなお産むという決断は、喪失を知性で先取りし管理する行為──テイラーの用語で言えば「緩衝的自己」の極限だ。だがその結末は、誰とも共有できない孤独な選択である。

アグネスは予知しなかった。それが彼女の悲劇の核心であり、同時に救済の条件でもある。アンドリューの幻視が孔の「封鎖」であり、ルイーズの幻視が孔の「統御」であるなら、アグネスの幻視は孔への「浸透」だ。彼女の幻視は孤独な妄想でも孤独な予知でもなく、グローブ座という公共の空間で、芸術という共同の器を通じて生じる。ルイーズが孔を「知る」ことで支配するのに対し、アグネスは孔を「感じる」ことで通り抜ける。知性ではなく身体が、支配ではなく受容が、そこでは作動している。だからこそアンドリューの結末は自己の消去であり、ルイーズの結末は孤独な決断であるが、アグネスの結末はグローブ座の観客全体が手を伸ばすという共同の身振りなのだ。同じ楽曲が3つの映画で、封鎖の痛み、統御の孤独、浸透の共同体という3つの異なる感情を照らし出す。アグネスだけが幻視を通じて孤立から回復する──なぜなら彼女の幻視は、多孔的自己に固有の経験、すなわち自己と他者の境界が溶解した場所で起きるものだからだ。

アグネスの手 ── 予言から共感へ

映画の細部には、ジャオの思想が宿っている。ウィリアムとアグネスの出会いの場面。彼女は彼の手のひらを読む。あの手を握る身振りは、皮膚と皮膚の接触、体温の交換、他者の運命を自己の身体で受け取ろうとする行為だ。これこそがジャオの映画全体を貫く「女性的意識」の具体的な形──語るよりも触れること、支配するよりも感受することの表れだろう。

グローブ座の終盤、アグネスは舞台上でハムレットが死ぬ場面で、俳優の手の親指の付け根を掴む。原作にはないこの場面は、ウィリアムと初めて出会ったときの身振りの反復だ。かつて未来を読もうとした手が、いまは現在の悲嘆の中で他者と繋がろうとする。そして観客全体がその身振りを模倣する。

ジャオは『ヴァラエティ』のインタビューで演出の核心をこう語る。「アグネスが子どもの死のような場面に向かうとき──『生きるべきか、死ぬべきか』のテンションを十分に保つことでのみ、答えが訪れます。そしてその叫びが到達するとき、それは彼女の悲嘆だけではなく、彼女を通じて流れる悲嘆全体なのです。なぜなら、彼女は導管となることを選んだのですから[13]」。導管(conduit)──この言葉にジャオの映画哲学が凝縮している。孔として機能する自己。外界が浸透し、通り過ぎていく通路となった身体。

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ハムネットの微笑み ── 喪失が「変容」へと変わる瞬間

アグネスが俳優の手を握った瞬間、彼女はハムネットの幻視を見る。ステージ上に現れたハムネットは悲しみから微笑みへと移行し、そのまま舞台袖の暗がりへと消えていく。この幻視の順序が重要だ。もしハムネットが最初から微笑んでいたなら、それは慰めの幻想──「あの子は今、幸せなのだ」という映画的な嘘になる。しかし彼は最初、悲しんでいる。その悲しみを携えたまま、彼は微笑む。悲しみと微笑みが同時に存在する一瞬──それは喪失が「解決」されるのではなく、「変容」される瞬間だ。

ディレクターズ・ステイトメントでジャオは、この映画の核心を一語で要約している──「変容」。「『ハムネット』は愛と死を題材にして、人間にとって根源的なその二つの体験が、芸術と物語を通して化学反応を起こし、変わっていくさまを描いています。それは変容の物語です[14]」。そして、彼女はこう書く。「愛は死ぬのではなく変容する。それは、この宇宙(コスモス)で最大の変容です」。

テイラーの多孔的自己の文脈でこの場面を読むとき、さらなる深みが生まれるだろう。アグネスにとって、ハムネットの幻視は彼女の「外部」に現れるものではない。多孔的自己において、死者の記憶は外界の刻印として内側に浸透し続ける。ハムネットは彼女の中に生きており、だからこそ彼女は「今も舞台上に」彼を見ることができる。それは妄想ではなく、多孔的存在の正当な経験だ。

ケアの倫理の観点からは、この微笑みは「ケアの受容(care-receiving)」の究極の形として読むことができる。アグネスは長い間、ケアを与え続けてきた者だった。しかしグローブ座で彼女はついに、死者からのケアを受け取る。ハムネットの微笑みは彼女への赦しであり、母を解放するための息子からの贈り物だ。

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境界線の消失 ── グローブ座の奇跡

ジャオのディレクターズ・ステイトメントには、グローブ座の上演場面について、映画の内部と外部が溶解する決定的な瞬間の記述がある。「最後には、グローブ座の舞台の内外で踊るうちに、現実と虚構、過去と現在、見えるものと見えないもの、そして愛と死を隔てるベールが溶けていきました。隔たりはなくなったのです[15] 」。

「隔たりはなくなった」──この言葉は、テイラーの多孔的自己の回復を宣言する言葉としても読める。テイラーは『世俗の時代』で、今日多くの人がかつての多孔的な自己の世界を郷愁をもって振り返るのだと書いた。「人々とコスモスとの間の分厚い感情的な境界の構築は、今やあたかも彼らにとって人生の喪失の経験として受け止められている」と。近代の緩衝的自己が築いたその境界──現実と虚構、過去と現在、内と外を隔てる分厚い壁──が、グローブ座という「聖なる器」の中で溶解する。テイラーが郷愁として語ったものを、ジャオは映画的経験として実現してみせた。それはアグネスの個人的な変容であると同時に、観客全体の集合的な変容でもある。

プロダクション・ノートには、撮影現場でもこの「境界線の消失」が実際に起きたことが記されている。アーティストが潜在意識を用いて創造活動をするための支援を行う「クリエイティブ・ドリームワーク」のファシリテーター、キム・ギリンガムが300人のエキストラにセッションを行い、撮影後にジャオがポップミュージックを流し始め、キャストとスタッフ全員がグローブ座のセットの中で踊り、泣き、抱き合ったのだ。ジャオはこう語る。「あの時、真実と虚構、カメラの前と後ろ、過去と現在の間に境界線はありませんでした。つかの間、隔たりが消え去ったんです[16]」。映画の中の出来事が、映画の外の現実を浸食する──これは、いわば「多孔的映画」の実践にほかならない。

ジャオはこうも語っている。「アグネスの叫びは、彼女から出てくる集合的な悲嘆です。私たちの祖先は感情を身体で表現する方法を知っていました。彼らは泣き叫び、踊り、絶叫した。私たちはそれを忘れてしまったのです[17]」。アグネスの叫びは彼女一人のものではない。多孔的身体は個人の悲嘆を超えて、人類の悲嘆の通路=導管となるのだ。

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越境者としての映画作家

北京に生まれ、イギリスの寄宿学校で青年期を送り、大学で政治学を学んだ後、ニューヨーク大学ティッシュ・スクール・オブ・アートで映画を学んだクロエ・ジャオは、生涯において複数の文化的境界を越え続けた。外部者であることは、ジャオにとって弱点ではなく方法論だ。

その越境性は、彼女が常に「主流から排除された者たち」のそばに立ってきたことと対応する。ラコタ族の若者、ロデオの夢を断たれたカウボーイ、車上生活の労働者。そして『ハムネット』に至り、その系譜に加わるのは、歴史の記録から消された妻──シェイクスピアの傑作の陰に隠れ、名前さえ正確には伝わらなかった女性、アグネスだ。プロダクション・ノートで語られているように、原作者オファーレルの小説は息子ハムネットの名をタイトルに冠しながら、物語の主人公はアグネスである。オファーレルはハムネットについて「この子は、あまりにも脇役に追いやられ、あの有名な父親の物語の脚注に過ぎませんでした[18]」と語っているが、同じことはアグネスにも、いや、アグネスにこそ当てはまる。歴史の中で500年にわたり中傷され、矮小化され続けてきたシェイクスピアの妻をオファーレルは小説で、ジャオは映画で舞台の中央に引き上げた。

ジャオがローマ映画祭のインタビューで語った言葉が、この十年の軌跡を要約する。「最初の3作品は、アイデンティティの喪失と、それに苦しむ人々についての映画でした。しかし直近の2作品、『エターナルズ』と『ハムネット』は、悲嘆を異なる方法で扱っています。つまるところ、『ハムネット』は変容についての映画なのです[19]」。変容とは、喪失を克服することではない。喪失によって変わってしまった自己を、何か別の形の生として受け入れることだ。

孔を通じて世界は呼吸をしている

映画の最後、ハムネットは微笑みながら舞台裏の暗がりへと消える。それは洞穴に似た孔であり、映画冒頭の森の暗い空洞に呼応する。生と死が同じ入口を持つ。孔は、閉じていない。

チャールズ・テイラーが論じた多孔的自己の時代──内と外が溶け合い、死者と生者の境界が曖昧な時代──の末期に生きるアグネスは、ハムネットが消えた孔を通じて、その多孔性を回復する。ジョアン・トロントが言うケアの相互性──ケアする者がケアされること──が、死者と生者の間で成立する瞬間。だからこそ私たちは、劇場の座席から立ちあがるとき、何かを受け取ったと感じるに違いない。

ディレクターズ・ステイトメントでジャオは、この映画の出発点にあった死=喪失への恐怖を告白している。「私は生涯ずっと死を恐れ、そのせいで愛も恐れていました。人生のはかなさを見つめながら、心を開いていられる方法が分かりませんでした[20]」。そして映画を撮り終えた後、彼女はこう書く。「旅の終わりには心が柔らかくなりました。嵐の中心で心を開いて生きるとはどういうことか、その美しさ、痛み、破滅のふちに立つスリル、そして静寂を、真に体験したからです」。

グローブ座の観客は舞台へと手を伸ばす。それは16世紀のイギリスの話であり、今日の私たちの話でもある。私たちはみな、何かを失った者たちだ。テイラーが語った「多孔的な自己の世界への郷愁」──人々とコスモスとの間に分厚い感情的な境界が築かれたことを、人生の喪失として受け止めるあの感覚──は、現代の映画館の暗がりの中でこそ、最も切実に蘇る。緩衝的自己の時代に生きる私たちは、アグネスの多孔性を、スクリーンを通じて一時的に取り戻す。映画が終わり、劇場の灯りが点き、私たちが再び緩衝的自己へと戻されるとき、その「郷愁」はもはやテイラーが記述した抽象的な感覚ではない。それは手を伸ばした記憶として、身体に刻まれている。

ジャオはローマ映画祭のインタビューで、アグネスの力を「ウィッチクラフト(witchcraft)=感応の術」と呼び、その本質をこう定義した。「感応の術とは、ただ感受性を研ぎ澄ませ、語るよりも聴くことなのです[21]」。ここでジャオが言う「感応の術」とは、自己を外界に開き、語るのではなく聴き、支配するのではなく応答する──多孔的自己の根源的な身振りそのものだ。それは彼女自身の映画作家としての方法論でもある。喪失の孔を塞ごうとするのではなく、その孔に耳を当てること。風が通り抜ける音を、光が差し込む方向を、感じ取ること。

クロエ・ジャオの映画は、いつもそうやって私たちに問いかける。孔を前にして、あなたはどうするのか、と。その問いに答えようとすることが、すでに生きることに似ている。だからこそ、私たち観客は手を伸ばす──舞台へと、スクリーンへと、そして、まだ見ぬ光の向こうで待っている誰かへと。恐れずにいよう。孔を通じて、世界は今日も呼吸しているのだから。

画像7: ©2025 FOCUS FEATURES LLC.

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【注記、出典リンク】
[1] [3] [13] “Variety Awards Circuit Podcast”, November 29, 2025.

[2] [4] [5] [7] [8] [9] [12] [14] [15] [16] [18] [20] 『ハムネット』日本版パンフレット(配給:パルコ ユニバーサル映画、2025年)
[6] “Hot Press”, December 2025.

[10] “IndieWire”, December 8, 2025.

[11] “Classic FM”, January 2026.

[17] [19] [21] “Fred Film Radio”, October 30, 2025.

【参考文献】
チャールズ・テイラー『世俗の時代 上下巻』(千葉眞監訳、木部尚志・山岡龍一・遠藤知子訳、名古屋大学出版会、2020年)
ジョアン・C・トロント『モラル・バウンダリー──ケアの倫理と政治学』(杉本竜也訳、勁草書房、2024年)
マギー・オファーレル『ハムネット』(小竹由美子訳、新潮社、2021年)

『ハムネット』予告編

画像: 祝!アカデミー賞®受賞【4月10日(金)公開】映画『ハムネット』90秒予告編 youtu.be

祝!アカデミー賞®受賞【4月10日(金)公開】映画『ハムネット』90秒予告編

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STORY

1580年、イギリスの小さな村。
革手袋屋の息子として生まれ、普段は子供たちに語学を教えているウィリアム・シェイクスピア(ポール・メスカル)は、ある日、教室の窓辺から見かけた鷹を操る女性に心惹かれる。

彼女の名はアグネス(ジェシー・バックリー)。
森を愛し、薬草の知識に優れ、未来を見通す不思議な力を持つ神秘的な女性だ。

やがて2人は恋に落ち、アグネスは妊娠、両家の反対を押し切り結婚する。
長女スザンナが誕生した矢先、ウィリアムは作家として成功を掴むために単身ロンドンへ出稼ぐことになる。
その後、双子の長男ハムネットと次女ジュディスが誕生し、アグネスは、夫不在で3人の子育てや家事に奮闘していた。
それは、つつましくも幸せな日々だった。

しかし、あるとき一家が暮らす村に不穏な空気が流れ込む。
それは、アグネスと子供たちにある悲劇をもたらすものだった──。

監督:クロエ・ジャオ
脚本:クロエ・ジャオ、マギー・オファーレル
製作:スティーヴン・スピルバーグ、サム・メンデス
出演:ジェシー・バックリー、ポール・メスカル、エミリー・ワトソン、ジョー・アルウィン

2025年|イギリス|ビスタサイズ|126分|カラー|英語|5.1ch|原題『HAMNET』
配給:パルコ ユニバーサル映画
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4月10日(金)全国ロードショー

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