映画と音楽の対位法
柳下
以前、私が活動弁士の澤登翠さんと一緒に『戦艦ポチョムキン』(1925)の伴奏を務めたときに、午前と午後の2回上映だったんですが、午後の部が疲れてしまい、うまくいかないことがあって。鈴木さんの場合は、設計図があるからそれほどの失敗はないですか。
鈴木
いや、「間違えちゃった」っていうのはよくある(笑)。設計図は間違ってないんだけど、その場でのスイッチの切り替えやボリュームをいじったりというのがいろいろあって、場面によってスイッチを切り替えたりする際に忘れたり。そういうのをすべて完全にフィックスして再生するだけにしておけば楽なんだけど、さっき言ったようにある程度フレキシブルな要素を残したいので、あえてフィックスしてなかったりするし。 『タルチュフ』の場合は演奏家もいたので、演奏の間違いというのもありました。また、映像と音のタイミングの一致という問題もある。例えば、ドアを開ける映像に対して、現実音のドアを開ける音を付けたり付けなかったり、場合によっては、ドアの開けるタイミングぴったりに音が入ることもあれば、あえてずらすこともある。
柳下
ドアを開けるときに音を付けるときと、それをずらすときの意味の違いは何でしょう。映画よりも音楽が主体になるという意味ですか?
鈴木
僕は音楽が映画の伴奏だとは思ってないんです。もちろん、映画が中心だというのは前提として、よく言われている「映画の音楽は目立たない方がいい」とか「観客がまったく意識しないような音楽が理想の音楽だ」という考え方はしていません。むしろ、映像には映像の流れというものがあって、それに対して音響や音楽の流れというものがまた別にある。僕にとっての理想は、その両者が二声の対位法のように対等に存在して、絡んでいる状態です。だから、必ずしもその場面だけを見てそこに合った音楽を付けるというわけでもなく、もっと大局的に見ている。例えば、この映像のときになぜこの音が鳴っているのか、そのとき観客に分からなかったとしても、後から出てくる音響によって、「あ、これはあのときこうだったんだ」と後から分かるというような。囲碁で石を置いていくように、映像とは違う時間軸で音を置いていくことで音と音の関係性を作りつつ、同時に音と映像の関係性も作って、その糸を絡み合わせるというようなことをやろうとしているわけです。
先ほどのドアの音の付け方に話を戻すと、ドアが出てくる場面に一律に音を付けるということはしません。すべてに付けてしまうと、ある程度繰り返されているうちに観客に読まれてしまう。
柳下
私もそこがいつも悩むところです。すべてに音を付けてしまうと、くどくなってしまう。かといって、途中からなくすのも少し変だなと。逆に最初だけ付けて、途中からまた始めるっていうのは、よほどそこに意味がないとやれない。だから私の場合は、最初は「トントン」と付けておいて、後は現実音ではなくピアノのフレーズの中に入れるようにして、そこだけ目立つようにはしない感じにしています。とはいえ、どうしたらいいのかは自分の中ではまだ分かりません。付けてもいい作品もあれば、くどくなってしまう作品もある。その判断には監督の意図やスタイルも考慮しています。
鈴木
僕の場合は、現実音だからやれることがあります。『カメラ持った男』(1929)をやったときも、最初の汽車が出てくる映像に、先ほど言ったような汽車の音響を一致させたりずらしたりということをやっています。汽車が映像に出ているときは音を付けずに、汽車が出てないときに音響だけ少し出しておく。その時点では、観客はなぜ汽車の音が鳴っているのかは分からないけれど、いわば観客の潜在意識に印をつけておく。やがて数分後に汽車の映像が出てきたときに初めて、音響の記憶と汽車の映像が結びつく。これは意味を持った現実音だからできることです。
柳下
ただ、まったく違う場面で汽車の音が出たときに、「あれ、なんで汽車の音が出るの?」と、観客が映画を見る集中力が途切れてしまうことはありませんか?
鈴木
それは出し方にもよるんだけど、最初に音だけ出すのはほんの一瞬だったりするわけです。だから、観客は一瞬「今の音は何だったんだ」とは思うかもしれないけれど、映像はどんどん進行していくので、続いてゆく映像の中でその記憶は後ろへ後ろへと押しやられてゆく。それが、汽車の映像が現れたときにまた呼び戻される。あるいは、汽車の音響の出てくる頻度をだんだん短くしていきつつ、出てくるごとに長さも長くしていきながら、一番音響が大々的に鳴り響く瞬間に汽車の映像が現れるようにして、音響のクライマックスと映像のクライマックスを一致させたり。
柳下
逆に汽車が出てきても音を出さないときはどうしているんですか?
鈴木
そのときは無音です。何か他の音を出していたこともあったかもしれませんが。ただ、おそらくこういうアプローチって例外的だと思います。サイレント映画で音楽を付けている人は、普通はやらないんじゃないかな。
柳下
なるほど。それはつまり、先ほどおっしゃっていた映画の旋律と音楽の旋律を対位法的な形にして、作品全体を構成していくということですよね。
私の場合はデビューした頃から、音楽というよりも、映画と一体化している空気のような存在になりたいと思っていました。上映が終わったときに「柳下さん、いたんだ」っていうのが、一番うれしい褒め言葉。寂しいけれど、それが究極の自分自身の音楽の付け方だと思っていて。もう、映画にどっぷりと浸かってもらいたいから。だから、例えば「シネコンサート(シネマコンサート)」のような形には向いていない。やっぱり私の音楽の付け方は、映画館で映画を観に来る人のための伴奏というふうに思っています。もう少し精度を上げていきたいなとは思って、いろいろと吸収しようとしているんだけど、30年やっていてもなかなかできない。

