没後55年、今なお誘惑しつつ理解不能な謎であり続ける三島由紀夫
そして死後、その死に方の理解不能なショッキングさ故に、三島由紀夫の小説は読まれ続けて今に至るまで多くの世代の共感を呼びながらも、三島本人が何者だったのか、日本人が世界的に最も有名な小説家について共有できる人物像、作家像はいまだに存在しない。
その意味では、この映画もまた外国人がみた三島像、で片付けてしまう方が楽だろうし、現に図式としてはその通りでもある。
ポール・シュレイダーのフィルモグラフィの中で『MISHIMA』は『タクシードライバー』の主人公の自殺願望ないし自己破壊願望、ヒロイックな死を自ら演ずることで自らの存在を終焉させようとする人物像に位置付けられるし、同じテーマは完璧な肉体美を追求することで男娼としてのアイデンティティの確立を目指す『アメリカン・ジゴロ』のリチャード・ギアにも共通する。自分のひ弱さへのコンプレックスから三島が肉体改造のボディビルに熱中し、やがて武道の鍛錬に至る過程は、特に「第二章・芸術」の重要なテーマだ。言い換えるなら三島の追求した芸術は、自らをその肉体とセクシャリティも含めて芸術作品とすることだった、とも言える。
ポール・シュレイダー自身は同性愛者ではなく、女優のメアリー・ベス・ハートと長年連れ添って来ているが、同性愛、男性の肉体に惹かれる男性性のエロチシズムは『迷宮のベニス』のような映画にも見られる重要なテーマのひとつで、イエス・キリストを主人公とした『最後の誘惑』ですら、脚本段階からイエスとイスカリオテのユダが肉体的にも惹かれ合う過程が描き込まれ、映画では少女になっているがイエスを十字架から解放する天使が脚本ではアラブ人の少年で、「キリストを同性愛者に仕立てようとするハリウッド」とキリスト教右派から非難を浴びる言いがかりのひとつになった。
シュレイダー自身にとって同性愛への関心は、自分が育ったカルヴィン派プロテスタントのキリスト教の呪縛からの解放のためだったという。性を罪悪視するあまり肉体そのものとその官能性すら否定しようとする教義に縛られた自我が崩壊しそうになった時、ゲイ・クラブに通って同性愛者と付き合い、裸になって踊ったりすることで自分を解放しようとしたという、その自伝的な体験は、『MISHIMA』における『仮面の告白』を想起させる一連のシーンに色濃く反映されている。
監督が同性愛者ではなく、緒形拳がおよそリチャード・ギアのようなゲイ受けする俳優でもないのに、男性のエロチシズムの表現も含めて『MISHIMA』はゲイ映画の傑作として見る観客もいるだろう。未亡人からの要請と激しい反発にもかかわらず、同性愛の要素がこの映画にとって極めて重要な要素なのは、沢田研二だけでなく『奔馬』の永島敏行の撮り方をみても間違いないし、そこが今もなお、日本の観客の一部からは受け入れ難いという反発を引き起こすかも知れない。
だが同性愛もまた、この映画の一要素でしかないし、この映画に強烈なインスピレーションを与えているベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』(特に『金閣寺』に、明らかに『暗殺の森』を模倣したショットがある)のように、自らの同性愛を自覚し受け入れることの葛藤は三島由紀夫にも見られるにしても、『暗殺の森』と違ってセクシャリティの自覚が三島にとってのなんらかの解決になぞなりもしなかったことは、その問題なら「第二章・芸術」で一応の解決を見ていることをとっても明らかだろう。
同性愛は三島という人格を形作った一要素でしかないし、この映画を見ているとそれすら三島が自分自身について作り上げた虚構、演じられた自分なのではないか、とすら思ってしまう。
同性愛はひとつの例に過ぎない。映画『MISHIMA』が「外国人のみた三島由紀夫」あるいは「外国人のみたエキゾチックな日本」に決して留まらないのは、この映画が決して答えを出そうとはしていないからだ。「三島由紀夫とは何者だったのか?」死後55年経ち、その小説が読み続けられても、我々日本人はその共有できる解答を持ち合わせていないし、シュレイダーもその解答を、少なくとも言葉に還元できるレベルでは準備していない。
ここにこそ、自分の創作意欲を封じ込めんばかりに事実の忠実な再現に徹したシュレイダーの映画作家としての作家性がある。
三島自身が語った巧妙に創作された虚構かも知れない三島と、三島が自らを演じた三島、現実にそうであった三島の忠実な再現と、極度なまでの様式化でその物語構造の記号的な論理性と論理からの逸脱によって形成された三島文学の骨格をあぶり出しにした小説の映像化部分を並列させ、組み合わせ、映画の中でしか存在し得ない映画的時間軸の中に提示することで、我々の眼前には三島由紀夫という謎めいた人物の総体が浮かび上がる。その全体像が死によってこそ完成するのは、三島が自らの人生と命をこそ究極の芸術作品にしようとしたからだ。
それが出来たのが外国人、それも論理にがんじがらめなキリスト教プロテスタントのカルヴィン派に育てられ、意識的に自らをその枠から解放しようとする行為こそが映画作りだったポール・シュレイダーだったことは興味深い。
なぜならほとんどキッチュな西洋趣味とすら言いたくなる三島邸を見ても気づくことだが、戦後の日本を代表するこの文学者は実のところ、すべてが曖昧な情緒に還元されかねない日本社会には場違いなほど、論理的で西洋的な意識の持ち主だったからだ。それは彼の小説の極めて計算された言葉遣いから論理的な必然性で進む物語構造に至るまでに、はっきり現れている。
その意味で、三島由紀夫は極めて非・日本的な日本文学者だ。近代化イコール西洋化だった日本の近代とその残滓としての戦後・現代の我々にとって、この三島の非・日本性こそがある意味、現代日本の矛盾そのものでもある。
我々の大多数にとってその東洋と西洋の矛盾は、いかにも「日本的」な情緒性と曖昧さとして表出し、三島夫人が『仮面の告白』と『禁色』は使うなと言ったことが好例だが、多くが言外の言のうちに「なんとなく」伝達され処理される。三島由紀夫の場合はそこが真逆に、厳格なる論理性の言語化こそが三島の信じた三島自身なのではないか? なればこそ、三島はあの死に方を選んだのかも知れない。
なぜなら、その死は実のところ、彼が小説で言語化した死に方そのものの忠実な再現だったではないか。
上映情報
第38回東京国際映画祭・日本映画クラシックス・生誕100年 三島由紀夫特集
MISHIMA
ヒューリックホール東京
10/30 [THU] 11:50- (本編122分)
チケット 10月18日(土)10:00より 発売開始

