広告デザインにインスパイアされた記号性の表象で迫る、三島文学の根幹
煌びやかで時にグロテスクなまでに強烈な色彩にあふれた小説の映画化部分がこうも人工的で様式化されているのは、単に現実とフィクションの対比という単純な効果を狙っただけではない。三島由紀夫という小説家の作品の本質を、実は抉り取ろうとしたものだ。
全てが記号性に還元されながら、その意味性が記号に与えられた元の意味づけを超越していくのは、三島の小説のうち『潮騒』以外のほとんどに見られる構造であり、人物たちもまた記号性とその意味を背負って行動しながら、記号の求める論理的で理知的な行動原理を突き詰めることで逆にそこから逸脱して破滅や悲劇、ないし自己解放へと向かっていく。
『金閣寺』なら主人公は吃音の障害という自らの背負った記号を醜さと意味づけて、対極としての完璧な美の記号としての金閣に苛まれる。『鏡子の家』の沢田研二の匂い立つようにエロチックな身体ですらそれは「美」と「エロス」と言う記号の表象であり、その身体が傷つき記号性が損なわれることに三島の物語は恍惚を見出す。そして「愛国」「純粋さ」「日本」「男らしさ」の記号としての『奔馬』の若きテロリストたち。
この三者をそれぞれに、作者・三島由紀夫の分身のように見せつつ、しかしその三島由紀夫自身が自らが巧妙に創り出した虚構の記号性ではないのか、と言う疑念の余地を常に提示し続けるのがポール・シュレイダーの戦略であり、そこで石岡瑛子の創造した極度に人工的な空間と、竹中和雄による現実の日本の忠実な再現としての、三島が三島を演ずる舞台装置であるリアリズムの空間が、お互いを鏡として反射し、投影しあっている。
この論理的に考え尽くされながら論理をも逸脱した醍醐味は、やはりビデオでは理屈としてしか体感できない。そのためにもこの映画はやはり一度は、日本で大スクリーンに投影されなければならなかった。
「事実の忠実な再現」のストイックさでこそ奔放に花開くシュレイダーの作家性
自由奔放に色彩と虚構性の様式美に戯れる石岡瑛子デザインと対比して、現実パートの再現にはいくつもの困難はあった。細江英公が撮った三島邸にそっくりの洋館も、当時の三島邸にはまだ遥子夫人と子供達が住んでいたのでロケができず、外観は完璧に再現されたもので、室内は実は東宝スタジオに組まれたセットだ。「1970年11月25日」の三島邸から市ヶ谷までの道程は、生き残った楯の会メンバー(三島の愛人とも言われた森田必勝も三島を介錯した後に割腹自殺したが、他のメンバーは生存)の証言に基づき実際の東京の街路や高速道路で撮影されていて、市ヶ谷の自衛隊駐屯地の入り口と、ゲートを入ってしばらく進む白い車は隠し撮りだ。
市ヶ谷での実際の撮影は当然ながら許可は出ず、かといってあまりに日本の歴史上重要な記号性を持つ建物であるので無視もできず忠実に再現するしかないが、セットとして組むなら予算が跳ね上がってしまう。同時代の帝冠様式の建築で、同様の植民地時代の建物が韓国や台湾にも残っているため、一時は韓国でのロケも検討されたという(そうなると三島を野次る自衛隊員は韓国人、となっていたかも知れない)。撮影されたのは竹中和雄のチームが福島県郡山市で見つけた県の分庁舎の建物だった。ファサードのレリーフなどは映画のために増築され、春の連休を利用した撮影だったので11月の事件の再現のために桜の花を摘み取ったのだそうだ。
立て篭もり事件も詳細に証言や記録が残り、このパートは擬似ドキュメンタリー・タッチで手持ちを多用した演出のため、ほとんどの構図は実際の報道写真やニュース映像に基づいて決めた、とシュレイダーは言っている。つまりここでも、フィクションの、劇映画でありながら作り手の創作の余地はほとんどなかったことになる。
異なった文化圏で映画を作る、外国人が外国語で書いた脚本を翻訳して演じると言う制約の中では、賢明な選択ではある。結果としても『MISHIMA』には、外国映画が撮った日本にありがちな不自然さはまったく感じられない。セリフも一言一句、ほぼ現実に発せられた言葉の通りなのと、当時の日本でも最高レベルの俳優たちを集めたキャスティング、その演技力の賜物でもあろう。
こと緒形拳の演ずる三島由紀夫は、身体的にまったく三島に似ていない(シュレイダーが最初に考えていた主役は、兄で共同脚本のレナード・シュレイダーが脚本を書いた『ザ・ヤクザ』の高倉健だったという)上に裕福な上流階級の出身の役に向いているとはおよそ思われていなかった俳優でありながら、凄まじい演技力で三島由紀夫になりきっている。
だがそれでも、そんなにリサーチした現実の忠実な再現なら、どこに作り手のクリエーションの余地があるのか? ただ三島の人生の何場面かを忠実に再現するだけなら、それが「映画」になるのだろうか? そもそも「映画」とはなんなのか、「映画的」とはどういうことなのかを、映画『MISHIMA』は我々に問いかける。
いや忠実な再現でもこれだけおもしろく、謎めいて引き込まれるんだから、これは間違いなく映画だ、というバカ単純な答えもあっていいし、逆におもしろくて引き込まれて見せられる、その三島由紀夫という存在そのものを受け入れられない観客が、今の日本にもいることは、当然ながら想定される。
それは当たり前のことでもある。三島由紀夫とは何者だったのか? リアルタイムにその存在を見ていた世代にはもてはやされたが、その過剰なまでの自己演出、エキセントリックな人間なのか演じていただけなのかも、実は誰にも分からない。
未亡人の平岡遥子が三島のあるイメージを守り続けようとして、この映画についても半信半疑、やがて反発に至ったのは、もしかしたら彼女にも夫がよく分からなかったからなのではないのか? 彼女が守り続けようとしたのは作品としての三島であり、その作り手たる三島自身に関わるほとんどあらゆることを隠蔽するのが、自らに課した役割だったように思える。
