徹底再現と「『天皇』という名のジョーカー」

シュレイダーの側から見れば、だからこそ、という面もあったのか、「第二章・美」から先ではモノクロで見せられる三島の生涯は、撮り方こそスタイリッシュでスタティックながら、内容はほとんど忠実な再現ドキュメンタリーになっている。

ゲイバーで若い男性と踊るシーン、若い男性の愛人との自らの肉体のひ弱さをことさら貶めるような自虐的な会話など、想像で書くことは許されなかった。すべて事実に基づかなければ、「事実に反して名誉毀損」と訴訟になりかねない、というのが契約書と法律を盾とする西洋的というかとりわけ英米的な、平岡家からの反発への対処法となった。

こうした徹底再現の中には、ごく近年までこの映画が日本人にとって貴重な「間接ドキュメント」となって来たシーンもある。

三島由紀夫が東大の学園祭で全共闘との討論に呼ばれたことは当時は大いに話題になり、東大全共闘に呼ばれたTBSの取材班が撮影していたが、三島の死後この映像はほぼ門外不出になっていた。公に禁忌が解かれたのは割腹事件から50年経った2020年、編集されて映画『三島由紀夫vs東大全共闘〜50年目の真実』として公開されたが、実はシュレイダーと緒形拳たちはこの映像を見ていた。

「つまり僕と君たちは同じことを考えているんだ。だが僕には君たちにはないジョーカーがある。それは『天皇』という名のジョーカーだ」

三島のいわゆる「右翼思想」の本質を伺わせるこの言葉を知る手段は、長らくこの映画『MISHIMA』しかなかった。他でも確かに、三島が自分が右翼になったのは、左翼がすでに著名人だらけだったから、という主旨のことを口にしていた事実は知られて来た。しかし「『天皇』という名のジョーカー」ほど深く謎めいて、かつ挑発的で本質的な言葉は他にないし、三島由紀夫を考えることに留まらず、「天皇制」とは何かを考える上でも極めて重要な発言だ。

このシーンは「第三章・行動」で、血盟団事件の若きテロリストをフィクション化した小説『奔馬』の映画化と併せて出て来るので、否応なしに三島がなぜ戦前の天皇主義右翼のテロリズムを一見美化したような、一見ロマンチックに読める小説を書いたのかについても、より考えさせられざるを得ない。このように映画『MISHIMA』はあくまで冷静で論理的でありながら、いやだからこそ、できれば考えずに済ませたい、そこをスキップすれば一応は納得できる結論に辿り着けそうなことに気づき、考えるように観客に要求し続ける映画でもある。

全共闘との討論シーンはTBSの記録映像を元に徹底した事実再現を試みたものだ。緒形拳の言葉の抑揚まで三島そっくりに再現していて、なのにまったく自然で生き生きとして本物の三島以上に魅力的、ほとんど学生たちを誘惑しているかのように見えるのは、緒形拳のとてつもない演技力の証左でもある。

なお小川紳介と小川プロについての「オマージュ」はこのシーンにある。後ろの黒板に大きく「1:30〜 三島由紀夫対東大全共闘」と書かれたその下に、「小川プロ三部作上映会は201号(教室)ですが時間は調整中」とある。単にそこまで事実を徹底再現したのであって、オマージュとして意識されたものでもないのかも知れないが、三島由紀夫にフォーカスすると忘れがちな時代の空気、当時が新左翼全盛期で、その中で三島があえて右翼国粋主義をいわば「演じていた」ことを示唆する上で重要なディテールだろう。

万華鏡のように謎めいて、見れば見る度に新発見がある、その複雑なナラティブ体系

話が前後してしまったが、改めて映画『MISHIMA』の構造を説明しておく。1970年11月25日の朝から三島の最期までを手持ちを多用したドキュメンタリー・タッチで追う縦糸(しかしそこは撮影監督が名手ジョン・ベイリーで、キャメラ・オペレーターは日米で活躍する後の撮影監督・栗田豊通、リアリズムに徹しながらもデリケートな照明はとても美しく、手持ちでも構図に隙や粗雑なところはまったくない)に、モノクロの主に固定ショットで再現される三島の生涯と、さらに三島の小説自体の映像化を組み込んだのが、この映画の基本的な構造だ。

端的に考えるなら作品とは作者の人生とその個性の反映という考えで、それぞれの小説の主人公は大なり小なり作者の分身、というロマン主義的な解釈の映画でもある。

「四章からなる人生 a life in four chapters」という題名の通りの四つの章の区分けは、以下のようになる

第一章・美 小説『金閣寺』(出演 坂東三津五郎、佐藤浩市、笠智衆、萬田久子)

第二章・芸術 小説『鏡子の家』(出演 沢田研二、左幸子、李麗仙、平田満、横尾忠則)

第三章・行動 小説『奔馬』(出演 永島敏行、勝野洋、池部良)

第四章・ペンと刀の調和 エッセイ『太陽と鉄』(「1970年11月25日」と併せて出演 緒形拳、塩野谷正幸、三上博史、徳井優、織本順吉)

(なおモノクロの伝記パートの出演は、加藤治子、大谷直子、利重剛、小林久三、他)

小説の映画化部分のデザインに起用されたのが石岡瑛子だ。当時商業デザインの世界でPARCOなどの斬新な広告を次々に発表していた石岡が製作陣の目に止まったのは、コッポラの『地獄の黙示録』の日本公開ポスターだった。

画像: 石岡瑛子 『地獄の黙示録』日本公開ポスター

石岡瑛子 『地獄の黙示録』日本公開ポスター

現実の再現となったシーンの美術は1960年代から東宝美術部で活躍する竹中和雄(代表作に『その場所に女ありて』’62など)が担当した一方で、石岡には映画美術の経験はまったくなく、そこが逆にシュレイダーとコッポラの狙いだった。

映画に必要なリアリズムというか、一応は現実的にありえる空間世界から解き放された観念的で抽象化され、美的に完全にコントロールされた世界。『金閣寺』の原作では主人公・溝口が想像する完璧な美としての金閣と、現実の経年劣化も激しく金箔がはげ落ち、軒先が屋根の重みで垂れ下がってしまうのを柱を増設して支えることで辛うじて建っているようなみすぼらしい金閣の相剋が重要になるが、石岡のデザインはこの後者をあえて排除し、金閣が金に輝くだけでなくその空間までも、尾形光琳の金碧屏風にインスパイアされた金箔張りで埋め尽くし、金箔貼りのスタジオの壁には緑青で北山が描かれる。

セットは全て可動式で、移動のレールまでわざと目立たせてまで、人工性と様式性が強調され、レールに沿って大道具が移動することで場面転換がワンショットの中に展開する。『鏡子の家』で横尾忠則が登場するのは街頭の屋台のシーンだが、中央の屋台は回転台に置かれ、それが別の回転台に載せられてその回転台を通行人に擬したエキストラが歩き、二重の回転台が異なった回転速度で回っていて、キャメラはその二重の回転の外からシーンを捉えている。

『金閣寺』のテーマカラーは金、『鏡子の家』ではピンクとグレーと紫が沢田研二の両性具有的なエロティシズムを際立たせ、そして『奔馬』は白と黒に日の丸の赤が映える。血盟団をモデルにした学生たちが石上神宮で決起を約するシーンは白砂を敷き詰めてホリゾントに夜明けの空を描き、実際の石上神宮とはまったく形式が異なる出雲大社のような古代の様式のミニチュアの社殿を画面奥にすえて、遠近法を逆手にとって遠景を小さく作って広さを誇張するという映画でよく使われるトリックの種明かしのようなセットを組み、極め付けは手前に巨大な鳥居を斜めに建て、半分を白砂に埋もれさせている。

商業広告のデザインでは、売り込むべき商品の魅力やコンセプトをいかに記号化して視覚的に印象的なレイアウトとして提示するかが問われるが、石岡はその発想を大胆かつ挑発的に映画のナラティブに組み込んでいるのだ。『金閣寺』なら美という意味づけを金というまばゆく不変の色とその輝きに持たせ、主人公・溝口が性的エクスタシーに金閣の完璧の美を重ね合わせ恐れ慄く重要なシーンでは、まばゆい金の金閣が真っ二つに割れるとその断面は純粋な金箔張りの平面だ。『奔馬』の日の丸、神社、鳥居、白砂といったビジュアル記号の意味するところは、今さら言うまでもあるまい。

しかもその創造の世界の全てが可動式のセット、つまり厳然たる超越的な「美」にして厳密に構築された記号の体系でありながら、すべてが儚く移ろいゆく。

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