終わりから見つめた日常のかけがえのなさ

日常から疎外された者たちという外部の視点から見つめ、その内部を異化することは、逆説的にいえば、この日常がいかに壊れやすく、危うい均衡の上に成り立っているかを告げ知らせることでもある。変わり映えのしない日々に退屈していたとしても、「終わり」の淵に立っている疎外者たちから見れば、その日常は輝きをまとったかけがえのない瞬間の連続でできているに違いない。山下監督の転換点といえる『リンダ リンダ リンダ』(05)は、高校生たちによって撮影された文化祭の映像から始まる。彼らはいま生きている自分たちの時間が「特別」であることを知っている。言い換えれば、彼らはいま生きているこの時間がいつか終わることを肌身で感じているのだ。だからこそ、彼らは自分たちの日常をカメラで記録しているのではないか。

画像: 映画『リンダ リンダ リンダ』予告 出演:ペ・ドゥナ/前田亜季 youtu.be

映画『リンダ リンダ リンダ』予告 出演:ペ・ドゥナ/前田亜季

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『リンダ リンダ リンダ』で描かれる高校生たちの日常には、一貫してある「静けさ」が底流しているように思う。その静謐さは、例えば夜の体育館でひとりMCの練習をしているペ・ドゥナが背にした壁の空白からも感じられるだろう。いまその瞬間の只中で見つめるのではなく、いつか訪れる「終わり」から逆算して見つめられた現在がもつ、穏やかな静けさ。だから高校生たちの「終わり」を記録した映画である『リンダ リンダ リンダ』の最後に流れるのは、終わることを知っているからこそ「終わらない歌」でなければならないのだ。

その「終わり」から見つめた現在の静けさを奇跡的な時間として結晶化させたのが、渡辺あやの脚本による『天然コケッコー』(07)だ。「もうすぐ消えてなくなるかもしれんと思やあ、ささいなことが急に輝いて見えてきてしまう」というそよの台詞は、まさに山下監督自身の眼差しを言語化したものだといえる。それゆえに、少女が過ごしたひとつの時間の「終わり」を切断することなく、持続した時間として「始まり」へと繋いだラストシーンは、何度見ても胸打たれずにはいられない。

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くるり - 言葉はさんかく こころは四角

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